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私が65歳で死ぬと決めたのは

*今回は思考スピードと書くという作業をなるだけ同時進行したいと考えていますので、言い切りの文体で生意気であったり、構成的に読みにくい部分も多々あるかと思いますが、矮小な者であるとお許し頂けますと幸いです*

私は65歳で死ぬと決めた。

断固、決めた。

私は現在33歳の壮年期、実に生意気な若輩者だが、
なぜヒトは若い時、命や時間は永遠であると錯覚してしまうのであろうか。
なぜまた同じ明日が訪れると錯覚してしまうのであろうか。
なぜ、周囲の友人や親、親しくて愛おしい人たちと、
明日なんとなくまた会えると錯覚してしまうのか。

私なりの答えは、若いうちは「死を意識していないからである」と思うのです。

それは当然で、義務教育が終わり、高校・専門学校・大学に進学し、経済大国我が日本の豊かな暮らしの中で生活し、何となく公務員や企業に就職する。(もちろん青年期で早々に起業されている素晴らしい方々も、インターネットの台頭で最近多くなっています)

拳銃に怯えるわけでもなく、最悪働かずとも飢えに苦しむわけでもなく、
窃盗と闘うリスクも大きくなければ、殺人に怯えるわけでもない。
ただ、殺人事件のニュースは最近増えてきている印象だ。

日本での、経済的にも精神的にも豊かな暮らし、素晴らしいイマの世の中を創ってくれた素晴らしい親世代の方々がご存命であるうちの豊かな暮らしの中では、
「死」とは程遠い先の未来の絵空事の様に錯覚してしまう。

しかし、だ。しかし、なのだ。

2020年昨今は新型コロナウィルスなるものが世界で猛威を振るっており、
一般市民の方々はもちろんだが、警護対象である著名人や、各界の有識者の方々も感染や死亡のニュースが飛び込んでくる。それも毎日だ。

米国ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、日本時間2020年3月30日午前時点で確認された世界での感染者数は累計72万人を突破。死者は3万4000人に上るという。新型コロナウィルスは依然特効薬が見つかっておらず、免疫や体力の弱まっているご高齢の方々を容赦無く襲う。
死者が多い国々は、超高齢社会のイタリアやスペイン、フランスなどが増加数を牽引しており、必死に仕事をし、余生を謳歌していたであろう多くの方々の命と希望を奪っている。本当に心が痛むばかりだ。

今後数十年で、日本も人口の約50%は65歳以上の超高齢社会に突入する事が間違いないと専門家は言う。
しかも、人口が目減りしていく中での、更なる追い討ちのカウンターパンチ、高齢者 約50%/人口 なのである。

新型コロナウィルスは実に悲惨な状況を世界にもたらしている。
これほど経済や金融、私たちの生活である実体経済に影響を及ぼし、心理的にも追い詰められる状況が全世界で繰り広げられる事は稀である。
尊い人の命をいとも簡単に奪っていく。
尊い家族や愛する人の命をいとも簡単に奪っていく。
これを軽んじたり肯定する事は許されない。
絶対に。

しかし、私はこの状況で、仕事をしながらでも毎日凄まじい量の活字を読み、過去の偉人たちの文献を読み、歴史本や経営書、ビジネス本を読み、
思うのである。
これは日本への、社会への、福音なのではないだろうかと。

私たちは今、極めて近しい日常の中で、「死」を壮絶に身近に感じているだろう。

そう、明日が我が身かもしれないのだ。連日テレビやスマホでこれだけ騒がれたら、流石に、それは明日は我が身と思うだろう。

近代国家我が日本に、戦後初めて訪れた、未曾有の「死の有意意識」。

さて、この中であなたは何を思うのだろう。

あなたやあなたの近しい人にも、前述した様な、平和大国日本で日夜繰り返される「同じ明日」が約束されていると言い切れるだろうか。
自分だけは、自分たちだけは100%違うと思えるだろうか。
あなたはあなたの愛する人を、明日殺してしまう可能性だってある。
明日とは言わず、15日後に殺してしまう可能性だってある。
今、実家のお爺さんやお婆さんの顔が浮かばなかっただろうか。
やっと退職した父や母の顔が浮かばなかっただろうか。

タレントの志村けんさんが、3月29日に新型コロナウィルスが原因で死去した。
70歳だった。
医療の進歩や細胞研究の結果、人生100歳時代へ突入するだとか言われている。
志村けんさんは70歳でお亡くなりになられた。
30年の空白を、誰が責任をとるのか。

さて、あなたはまた「同じ明日」を期待しているのか。

責任は自分でとるしかない。

私は、決断した。
「断固たる決意」ってやつだ。
スラムダンクで出てきてそうなフレーズである。

繰り返しになるが、私は65歳で死ぬと決めた。
生存力が強くて、まだ65歳でピンピンしていたとしても、安楽死(臓器提供前提)か自殺(臓器提供前提)をする。保険以外の遺産があれば、8割は信用できる心友の慈善団体に寄付し、2割は大変申し訳ないが家族に残す。
大丈夫、保険は自殺も保険適用範囲内のものに入っている。
残された遺族が心配する事は、莫大な借金を抱えない限り、ない

理由は、将来の時間に前借りする人生を辞めると言う理由だけではない。
65歳で、「生を含めて全て手放さなければならない」と覚悟を決めて、
「逆算する人生」を歩むためでもある。

「ここで全てが終わる」と分かっていて、必死にならない人は居ない。
癌で余命1年だと宣告されて、毎日テレビを見ながらポテトチップスを食べ続ける人は居ない。

「死」を強く意識することで、「生」が輝くのである。

これは否応が無い間違いなく、事実である。「人間の性(サガ)」というものだ。
いちおう理想の死に方も決めた。以下の記事である。

いちおう人生の流れ的な、抽象概念的哲学も決めた。以下の記事である。

私の哲学を辿ると因みに今は、「動」のフェーズに居るらしい。

行動に転嫁し、もがく フェーズである。

これでなぜ、SNS嫌いを公言していた私が、いまnoteに向かい、オンラインサロンに複数入り( #西野亮廣エンタメ研究所 #箕輪編集室 #アル開発室 )、寝る間を削って(ちょっと削りすぎ、でも西野さんに比べればアリみたいなもの)本を読み、
文章を書いているのか(毎日1万文字書いている西野さんに比べれば米粒みたいなもの)、ほんの少しだけお分かり頂ければ嬉しいです。汗

もがいてもがいて、40代で嗚咽でるぐらい喘いで、やっぱりダメだと苦しみ迷い、何かふとしたきっかけで50代で開花し、60代で人生やり切ったなと、
「我が人生に一片の悔いなし」と悟り、潔く次の世代や我が子たちに、
「俺に出来たんだからお前も頑張れよ」って果てしなく重い、命のバトンを繋ぐ。

そんな修行とも取れる人生も有りなんじゃないか。と、
新型コロナが世界で猛威を振るう世界で、思うんです。

刹那的な生き方を好む変態

と言われそうですが、私の場合2、3秒の刹那ではなく、
32年の刹那なのです。考えただけで嗚咽が止まらないし、何より禿げそうだ。

私は、「私が生き急いでいるのではない、あなたが生き急いでいなさすぎなのだ」と考えています。
若造が何を生意気にと思われる方も多いかと思います。
私と同じ様な数十年の刹那を目標に生きている同志たちは、やっとお前もスタートラインに立ったなって思って頂けている方もいるかと思います。

足るを知る

本を読み過ぎて誰が仰ったかトレースできないですが、私の頭の片隅に最近潜んでいるワードです。

人それぞれによって、「足る=自分が満ち足りた」と満足する 階層が違います。
人によってはノーベル賞の様な、高潔な世界的名誉であったり、人によっては10億円の資産であったり、人によっては家族が毎日健康であったり、路上生活者の方々においては1時間後に公園で支給されるたった1個のパンであったりします。

「足るを知る」とは実に曖昧で、受け手任せて、いい加減な哲学かもしれません。

しかし、そこで本質を考えないといけない。

つまり、「己の足る」を探す精神世界の旅に出ないといけないのです。
この就職活動以来の壮大な自己分析を、やらないといけないのです。

ではどうやって?ってなると思います。
つまりは面倒だし、自分を冷静に見つめるなんて恥ずかしいから、
結局SNSや動画サイトに頼るんです。
インスタグラムでいいね!して、ストーリー見て、好きなYoutube見て凄いなって感動して、Netflixで旬のドラマや映画を見て歓喜して、何だか自分が出来そうだなって錯覚するんです。何も自分ではやっていないのに

私は日本の未来を真剣に考えています。そして憂いて悩んでいます。
日本の未来=自分の血をわかつた子世代の未来 だからです。

どうやって自分を掘るかの選択肢は、正直無限にあります。
ただ、今風の言い方でいくと、「圧倒的にコスパが良いのは本を読む事」です。
なぜ読書なのかは以下の記事にあります。

「本を読む=読書」ってメリットしかないんです。
これは本当の事実で、今私が絶賛実践中、挑戦中だから実体験として、
なお言える事なんです。

それでも、ギリギリの生活で本を買う余裕がないんです。。と言う方がいらっしゃると思います。気持ちは物凄く分かります。私も貯金を切り崩しながら毎月数万円単位以上で本を仕入れ(投資)ています。
私は本を長期保有の固定資産として自分の中で認識しています。
しかしながら、とは言え、キャッシュフローや家庭内B/Sの点から見れば正直キツいですし、資産と言えど流動性が極めて低いので、このままでは本を買うために働いているようなものです。笑

そこで、私が勝手に師匠にしてしまっている #西野亮廣 さんのお金の調達の仕方に素直に習って、本を皆さんに適材適時、行き渡らせるようなクラウドファンディングや、本を媒介とした相互性と収益性の高いプラットフォームを作れないかと画策しています。
もちろん、社会性の高いツールを使うので、自分に入ってくる利益は考えていません。もっと言うとダントツ赤字の設計をしようと思っています。

そこに何の意味があるのか。

「日本を教育や教養の観点から、読書を通じて、この成熟した日本を、日本人を、人格や知恵、徳の部分から素敵にしていきたい」との強い思いがあるからです。
これはもはや義務だと思っています。

「人には生まれながら必ず何かしらの天命がある」

じゃないと、私たちが人間としてこの世に生を受けさせてもらった道理が通らないじゃないですか。だって、川に生息する苔でも良かったんですよ。
生を受けるって観点からすると。

連綿と続く生命や人間社会の営みの中で、歴史から学ぶところによると、その連鎖性の中では、同じ事が定期的に繰り返されながら、文明的昇華を続けています。

今回のパンデミックも、明らかに予測可能な未来だったはずです。
だって、古く言うとペストであったり、近代で言うとSARSであったりエボラであったり、拡大範囲や致死率で要素分解すると様々な違いはありますが、定期的に歴史の中で繰り返されている事実なわけです。

今回の新型コロナの事態を受けても、外出禁止令が出ても、自粛要請を地方自治体や政府が出しても、「私たちには生活があるんだから」と言って意気揚々とスーパーにステップする国民のニュースを見ると、正直今すぐにでも、環境が許せば日本を飛び出したい気持ちはあります。

それでも、残り32年の人生で、少しでもこの生まれてきた日本を、
素敵に変えたいと思っています。

そして、そのツールはSNSやオンラインサロン、オフライン交流、ライブ配信や動画ではなく、

「読書」一択

だと考えています。

理由は私が生きる過程で体現しながら生きてやろうと思っています。
そもそも孤独や読書を通じて「己に向かい合い、己を知る」からでないと、
その他全ての外への活動が無意味だし、軸が無いし、生産性が低すぎるだろ!って思います。

最後に

これは、インターネットが産んだ副産物ではあるのですが、国民がインターネットを媒介として明らかに容易に「個」を主張できる世の中になったのは事実です。
その結果スタートアップが容易になったし、「個」で頑張れば大企業で経営幹部にならなくても、フリーランスで億単位のお金を稼げるようになったし、広告収入のポートフォリオ細分化も進んできました。
まさに、「個」が台頭し、実力や気づきがあるもの、単純に頭がキレるものが生き残っていく世の中です。

そこではっきり明暗が分かれてくるのは資本主義経済における二極化です。

「個」が際立つ事により、日本がもともとお家芸であった「集団組織」が権力を無くし、実力があるものが個の力でのし上がり、実力が無いもの、または努力が足りないものが淘汰される資本主義経済の完成形です。

そこでただ一つ重要な要素を秘めている項目があります。

圧倒的努力でしかない。

生まれながらに人間は平等で、遺伝子の優劣はあるにせよ、万人は生まれた瞬間には、ほぼほぼ同じスペックを持っていると、なんちゃら研究結果から言われています。

それでは、まさに今、資本主義経済の完成形に向かって進んでいる今、私たち一人一人にできるベストは何かと言うと、ひたすらに、みんながやっているであろう想像のつく努力以上の努力をする、しか後天性の実力を磨く術が無いのです。

よくテレビの討論番組等を見ていると、
「将来は分からないけど今が楽しければそれで良い」「親が勝手に産んだ」「SNSや動画で滅茶苦茶稼いでるからそれで楽しい」の様な、いかにも短略的で自己中心的な考えの若者は少なくありません。

これは間違いなく、インターネットが生んだ「個の台頭」の副産物であると言えるのですが、私はその結果を論じる事には興味がなくて、その結果があるけど未来をどうしていきましょうの方がよっぽど建設的だし、面白いと思っています。

インターネット=悪では全くなくて、現状上記に記した様な事は、あくまで副産物なので、オリジナルでは意図されていない事です。
ただ、結果この副産物が出ましたけど、じゃあどうしようかって事なんです。

私は、この副産物に関しては、「陽も隠も二面性がある」と考えています。
要は、使い方はその人の人格や価値観、徳次第だと言いたいのです。

では、その人の人格や価値観、人徳を形成するものは何でしょうか。

教育、教養です。

小手先の知識やそこから昇華させた知恵ではなく、深く内在するその人を形成する考え方なのです。これは間違いなく、生まれた瞬間から、家庭環境や学校教育、はたまた社会人になってからの大人教育の場面で形成されています。

ではその、真なる価値を持った教育や教養を教える現代人が、どの程度存在、現存しているかは全く謎なんです。
そもそも論を言うと、その様な素晴らしい人格者の大人たちがいれば、現状の社会の課題はもっと小さくなっていたはずです。

私の故郷は、熊本県上益城郡山都町という、南阿蘇より更に南に属する山間の集落ですが、私が幼少期にはたくさんの子供たちで溢れ、集落を形成する大人たちが、他人の子供であれ、間違いは間違いと道端で叱り、善は善と諭してくれました。
スモールコミュニティなれど、みんなで協力して善なる大人を育てていこうという、コミュニティ内の横の強い「絆」があったのです。
大地讃頌を大人が真剣に皆で合唱し、その高潔な美しさに、感動を覚えた記憶があります。素晴らしい父と母と地域の大人達です。

自然と共に生き、自然に感謝し、自然を尊び、自然を活かし生きる、日本古来の美しさがそこには在ったのです。

時代が変われば人は変わる。

というのは浅はか極まりないです。時代が変わって様々な文明や産業革命があって、次なる産業革命はAIによる産業革命だと言われていますが、「善・徳・情」を基本とした人としてあるべき姿を、時代によって変える必要性は全くもって皆無なのです。それは、目的の為の手段が、手段の為の目的にすり替えられているマジックに気付いていないだけです。

あなたは今、この新型コロナが猛威を振るう、死を隣に感じる世界で何を考えて生きるのでしょうか。
私の様に、死に起因するプランを立てる必要性はありません。
100歳まで生きるのが目標なのも素晴らしい事です。

しかし、私が疑問なのは、「なぜ、100歳まで生きるのか」ということです。私は、労働人口が少なくなるのが間違いなく、社会保障を下支えする子世代が極めて困窮するぐらいであれば、大人が潔く、高潔な意思と高いパフォーマンスで短く太く生き、その人生に意味を持たせることができるのであれば、
「その意思は次のバトンに宿る」と確信しています

今日、今から、この瞬間から、人生100年の惰性的な生き方でなく、まず自分の人生の意味を探す生き方から初めてみませんか。

そして間違いなく、それにベストなツールは読書です。
未来読書研究家と端を発した私が言います。し、その裏付けを私の65歳までの人生で証明してみせます。

長々と構成も言葉も煩雑な内容になったかと思いますが、ここまで読んで頂けた事に感謝しかないです。

昨今の悲壮感漂う世界だからこそ、私は今日も本を読みます。

10年後、20年後、30年後の日本の未来を変えるために。

あなたは今日もカフェや居酒屋やカラオケに皆で行き、何の未来値や生産性のない痴話話を繰り返し、自己承認要求を満たし、内心それこの前やってた(言ってた)じゃんって憤りながら酒で前頭葉を麻痺させ阿呆になり、今日一日謎の何かやり切った感で満足感を得て、またよく分からない何も将来の日本社会への結果の伴わない明日を生きるのでしょうか?

そうだとしたら、まず家にある本を一冊引っ張り出すだけで良いんです。

まずはそこからだ。

#読書
#未来読書研究所
#未来読書研究家
#西野亮廣エンタメ研究所
#箕輪編集室












 






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