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私が写真を撮る瞬間と永遠について

 皆さんは物の見た目に騙されることはありますか? 私はありません。生まれてこの方一度も、物の見た目に騙されたことはないのです。重いと思ったものが軽かったり、優しいと思った人が優しくなかったり、冷たいと思ったものが熱かったり、飛ぶと思った鳥が飛ばなかったり、そうしたことを経験したことはありません。
 私は2001年の生まれで、ちょうどインターネットの普及と共に成長した世代にあたり、例えば通信販売なんかも加速度的に一般化して、今では何かしらの段ボールが毎日1個は届くなんていうご家庭なんかも、まあ考えうるくらいの世界になってきたと思います。そんな最近の世の中ではもう当たり前すぎてストレートには聞かなくなりましたが、ネット通販(そもそもこんな言い方するのが古いですけれど)を利用する時、商品画像は注意して見るべき! みたいなことは割と小学校の頃にテレビとか学校とかで耳にしていたような気がします。
 私は先にも述べたように見た目に騙されることはないので、当時からこうした教えに違和感を抱いていました。少し正確に言えば、商品画像に注意すべき点には大きく分けて2種類があって、まずは①色味や大きさ、質感が写真では違って見える、という点。そして②そもそも本物の商品を撮影した画像ではなくCGやプロトタイプの画像が使われていたり、本物を撮影した画像であってもレタッチ加工が施されている場合が考えられます。主に私が疑問を抱いたのは①の点で、②は商品のスペック欄に嘘の情報が書かれているのと同じようなことだから、騙されるのはまあ仕方ないなと思っていました。というか、そもそも②の場合、私たちは写真の『見かけ』に『騙されている』のではなく、提示された写真自体が『別のもの』なのです。よって②は私の疑問には関係ありません。いずれにしても①に関して、私が何に疑問を持ったかですが、説明することを放棄してまずは端的に言い切って仕舞えば『騙されようがなくない?』『なんでみんな騙されるの?』ということでした。これには私の写真に対する見方が大きく関わっていると思うので、少し説明の順序がおかしい気もしますが、ここで私が商品写真を見るときの流れを具体的に紹介したいと思います。
 例えば私が今Amazonでソムリエナイフを買おうとしているとします。ソムリエナイフにも色々ありますが、今回私は金属製で、持ち手の部分が茶色の木で覆われているものを買おうとしていて、検索をして、割と良さげなものを見つけたとします。商品紹介ページに飛んでみると大きくソムリエナイフの写真が表示され、金属の部分は白とか灰色とか黒のグラデーションで鈍くぎらぎらと細かい明度の変化があり、一方、木の持ち手の部分は濃い茶色と黒が混ざり合って、あまり明度の変化が激しくなくマットな印象を与えます。このとき、私はまだ、木の部分や金属の部分についてその質感を『理解した』と思っていません。つまり、前述の『ぎらぎら』や『マット』は写真の表面に関する形容であって、この時点では商品の質に関するなんらの情報も得ていないという理解をします。その上で、私は『こう見える瞬間があるような材質の商品なんだな』と理解します。ここで『こう見える瞬間』というのが大事で、他の任意の角度や光のもとでは全く違う見た目をしていることがあり得ると理解するのです。ただ(ちょっと前に言った②の場合を除き)少なくともこう見える『瞬間』はあるんだろうなと理解するのです。様々な角度や距離や光を当てれば、いずれかのタイミングでこの写真に現れているような色味とか彩度や明度の局所的な変化を呈するような反応を視覚的に見せる材質なんだなということです。また、硬さや重さといった視覚的に明らかになっていない情報についても、この時点ではなんら確定的に想像していないのです。
 このようにして私は写真を見るので、おそらく多くの人よりも、ある写真から少ない情報しか受け取っていないんじゃないかと思います。あるいは、おそらくある一つの写真から受け取りうるすべての限られた情報を元に、追加の推論や演繹をしていないと言った方が正確かもしれません。つまり、ある写真が持っている情報量の限度を超えたなにかをその写真から見出すのがとても苦手なのです。ある商品の写真を見ても、この商品はいろんな角度や光の中では一瞬こんな感じで見えることもあるのかな〜くらいにしか考えていないので、したがって私は商品を買ってみてがっかりするという経験がないのです。
 商品画像の話は写真限定ですが、視覚一般においても同じように思います。例えば冒頭の抽象的な例(重いと思ったものが軽いetc.)もそうですが、具体的な例を挙げるとマスク美人みたいな現象も体験したことがありません。マスクをしている人を見ると、マスクで隠れているパーツを都合よく解釈して実際よりも自分の好みに近い顔や均衡の取れた顔に想像してしまうために美人に見えるというこの現象ですが、私のような見方をする人にとって、見えてない部分は『見えてない』としか思わないので、特に何も想像ができないのです。商品画像の例と同じく一般的な視覚においても『知ってる情報は全て知ってる』という認識ではありますが、その上で知らない部分を補完したり、推論したりはしないのです。確かに、正確に言えば私も見えない部分を予想することはできるし、あると言えばあるのですが、予想する場合すべての可能性の重ね合わせ状態のようなものを考えているのかなと思います。つまりおおよそすべての可能性を等しく同時に漠然と考えているので、マスクの外れた顔をみてがっかりしたりすることなんかはありません(そもそも私が人の顔面に関して、おそらく他の多くの人より興味がないという説が実は存在しますが……)。
 いずれにしても私はものを見るときに『確実にわかることだけをわかったと思い』『わからないことは何も断定しない』という態度をとっています。ただ、哲学的には、前者の『確実にわかることだけをわかったと思う』という部分は、実はとても危ういことです。これは哲学的厳密性を重要視する文章ではないので、ここではこうした危うさに対する私の直感的な応答を考えますが、少なくとも直感的にもこの危うさは重要な問題だと考えています。つまり、割と結構わからないことしかないな〜と、いろんなものを見ていて思っています。また『今、見ているもの』は、『今、まさに見ているもの』についてしか知らせてくれていないという意識もあります。これらは先の商品画像の例において『こう見える「瞬間」はあるんだろうなと理解する』という部分の瞬間性と表面性にあたります。総合すると、ある視覚的な広がりが示す情報の量というのもかなり限定的に考えるし、同時にその情報は、質的にも、その視覚的な広がりそれ自体についてしか言及可能なものでしかないとして措定するというのが私の基本的な視覚への態度だと思います。
 そんな私が最近、取り組んでいるのは平面を平面として、世界を世界として、そしてその両者への眼差し=視覚を眼差し=視覚として、そのどれについても、そのいずれかに従属させたり内包させたりせずに、全てを『和解』させてゆくような状況です。これはある視覚的なアプローチが世界について持つ力の限界を誠実に認識して、驕り高ぶることなく、また必要以上に恐れを抱かず、ただあることに向き合うということであります。そしてこれは視覚→世界の他に、視覚→写真や写真→世界、世界→視覚(人間の認識)などなど、これらすべてにおいて、それぞれ考えることになります。つまり、世界や写真、人間的存在の相互の関係において、誠実さやそれに基づく和解を達成しようということなのです。
 これは今日までの写真論で問題とされてきたような様々な問題を軽やかに乗り越えてゆく地平を用意するものです。人間の視覚性が持っている問題はすべてここで根源的な批判の対象となります。よって、当たり前のように写真においても、例えばその『暴力性』とか『見る見られるの関係』と言った諸々の問題すら、根本的に問い直されるのです。写真を撮るモチベーションが人の顔に関する興味にある人はこのような制作はできないし、人自体に興味がある人にもできない。社会や政治に興味があってドキュメンタリー的な写真を撮りたい人にもこうした制作はできないし自らの視覚と(厳密な意味での視覚を超えて)そこから自らの認知等が見出す世界や意味を写真で表現することに興味がある人もこうした制作はできないでしょう。むしろ、ある写真の持っている情報や、ある物の見た目、外界のいずれについても『知ってることしか知らず』『知っていることは知っていることのみに適応可能だ』という信念でものを『見ている』私にとっては、そのどれも特権的に重要であったり美しかったりはしないのです。また、マスクの下の顔についても、商品の画像についても、わからない点についてはすべての可能な予測を重ね合わせて了解するような方法を取る私にとって、イメージの新規性という尺度も排他的に優位なものではありません。
 こうしたことを踏まえると、私のような、ある視覚的情報が持っている意味や広がりとその限界に自覚的な人間は、それを超えたものをその画像の中に投射するようなことをとても嘘くさく感じてしまうのです。よって例えばある写真について言うのであれば、その内的な質と意味の全体性に話を限定するべきだと思うのです。ただし、その上で、私は、ある写真が総合的な意味において、その外にある世界や人間という存在を扱えないとは思っていません。
 社会的な意味が先行したり、世界の再現への欲求が先行したり、自らの情感の発露が先行したり、新規性が先行した写真は私にとっては『そこにあるもの以上のこと』を問題とした写真であるから、常にその表面にあるもののみを問題とするべきだと考えています。このことは、簡単に言えば写真においてメディウムスペシフィックになってゆくことと言えるかもしれません。しかし、メディウムスペシフィックになってゆくと同時に、その外にある世界との関係のうちに正に在ることができるということが、私が写真が非常に特殊だと思う理由の一つです。なぜ写真においてこうしたことが可能かというと、写真の表面は常に世界との関係の中で構成される物であって、かつ撮影者の厳密な意味での視覚との関係の中で生じる物でもあるからです。と同時に、視覚や世界は写真イメージそれ自体を規定する原因ではなく、相互に『翻訳』されたようなものであるのです(このことは哲学者のヴィレム・フルッサーの『写真の哲学のために』の「意味ベクトルの転倒」に関する議論を参照していただけるとより深く理解できるかと思います)。つまり、写真が美しいのは、写真はそれに内在的ではないすべてのものとの関係のうちにしか自らを成立させられないにも関わらず、写真イメージの内在的な因果については、これを写真的なイメージが、それ自体の複製のための概念体系であるという定義に則って完全に閉じたシステムにおいて完結させることができる点にあります。
 写真において世界や視覚を扱う(これら3つの順序に意味はなく「世界において視覚と写真を扱う」のように組み換え可能)ことは、写真の表面の問題が世界や視覚について豊かな仕方で言及することが本性的に不可能であることを認めた上で、和解を達成するような方法によって成し遂げられることであると思います。つまりこれは決して平面において世界を表現したり、わたしたちの視覚を平面に投影することによって成し遂げられることではないのです。いわゆる書籍の『翻訳』について考えてみても、翻訳本は翻訳の元となる本について言及している点は一つもないと言って良いでしょう。むしろある翻訳本と翻訳元の本の関係はある一枚の写真における世界と写真の関係と似たようなものなのです。例えば川端康成の『雪国』の翻訳本である『Snow Country』は、川端の文学や『雪国』という作品について『言及』しているものではありません。むしろそれは『Snow Country』という一つの作品としての全体性において、『雪国』を翻訳しているのです。
 この場合、『雪国』と『Snow Country』には『雪国』が絶対的に『先である』という優位性がありますが、視点を『ある一つの写真』『ある一つの作品』というところから『日本語』や『英語』という言語間の関係にまで引いてゆくと、この翻訳のアナロジーはもう一つの気づきを与えてくれます。つまり、それは英語と日本語の関係において、それぞれの言語の全体性のなかで書かれた作品は無数にあり、そうした作品の翻訳はどちらが先であることもありえます。より詳しく言えば、『言語間の翻訳』という問題について考える場合は、どちらが先か後かというようなことは重要ではなく、それぞれが意味の全体性の相互関係を結んでいることが重要になるということです。その意味で、写真や翻訳においては、ある作品がその外にある物事や作品について『言及する』ということに比べ、ある外的な物事や作品を『扱う』ということが重要になります。
 このように議論を展開してゆくと、ここで私が写真において想定している『扱う』という概念が、おそらく絵画や彫刻において議論されてきたそれとは全く異なるということがわかるかもしれません。つまり、イメージそれ自体が扱っているものと、イメージが扱っていないものという二つのことを、ある写真は常に扱っているのだと思うのです。これは、むしろこういった方がわかりやすいかもしれません。絵画においては、いろいろな状態は画家によって作られなければならないけれど、写真においては、いかに画面が美しくても、それは世界からパッと取ってきたものでしょうと。割と絵画が好きで、写真の良さがわからないという人からこうしたことを聞いたことがあります。たしかに、写真はとても横着な感じもするし、手軽な気もするというこの直感を私は否定しません。しかし、この点こそが、私が特に最近『写真の美しさ』そのものであると思っている点であり、少なくとも写真の美しさの本質に触れていることの一つだと思っています。つまり、ほとんど先の文章の復唱になりますが、写真とは常に引用であり、相互関係の中でしか自らの存在を規定できないものでありながら、同時にイメージの内的な質については、それが完全に写真イメージに内在的であることがありうる非常に稀有なメディウムなのです。こんなの普通にエモいですよね笑。そして、このような『引用でありながら独立で内在的である』というような性質を、そのメディウムにおける中心的な形式において互いに完全な状態で重ね合わせて保有することのできる唯一のメディウムなのです。
 最後にまとめると、私は私たちの視覚におさまらない世界の広がりと写真的なイメージとその語彙と視覚を、それらの限界に意識的になりながら相互関係の中で和解させてゆくことを考えています。そうすることで、すべてのイメージが予想され尽くす現代の状況なかでも、イメージの新規性によらず、価値のある新たな画像を生み出すことが可能になるのです。この意味でイメージに関する『視覚的な驚き』といったような観点は、自らの制作において重要視していません。むしろどんなイメージにも驚きがないような地平で、しかしどのようなイメージがあり得るかということを考え、世界や人間的な存在ということを、そのどちらからも独立した機構としての写真から『扱おう』と試みているのです。そして、そういうことをする最大の理由は人々がいまだに結婚をするのと同じことでしょう(適当ですみません)。つまりそれは『結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです』ということなのです。
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佐久間大進(2024/5/18日執筆、2024/5/21日加筆修正)

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