どこで撮るかでもない。どう撮るかでもない。何を撮るかでもない。
2年前。
突然衝動に駆られて写真を撮り始めたすぐの頃。
仕事が早く終わると急いで帰ってシャワーを浴びて、カメラを持って出かけた。
とにかく時間が惜しいから、電車に乗りながら人気撮影スポットをググった。
それに飽きると今度は知らない駅を探しては降りて、写真を撮り歩くようになった。
まもなくして、知人のシンガーソングライター達の写真を撮らせてもらう機会を作った。
ある日には、勇気を出して素敵だと思っていた女性にお願いして写真を撮らせてもらった。
なんとなく、同じ場所、同じ人、同じシチュエーションで撮影することを避けた。
写真を撮ることでマンネリを感じることが怖かった。
常に、真新しい物事を探した。
写真のレタッチも勉強した。
写真展に行ったり、写真集を古本屋で立ち読みした。
新しいレンズやカメラを買い漁った。
そして後先も考えず、去年80万円のカメラを買った。
そんな毎日は、いつも真新しく感じた。
真新しくなるように、いつも真新しさを探していた。
だけど、それはいつも長続きしなかった。
あくまで場所や人、機材に撮らせてもらっていただけに過ぎなかった。
小学校の頃、ゲームの裏技ツールが流行した。
確か「プロアクションリプレイ」という名前のツールで、それを使うとあらゆるゲームソフトでバグを引き起こすことができた。
そのバグを用いて友人に作ってもらった最強の色違いポケモンで、多くの友人達に勝負を挑んだ。
もちろん全て圧勝、と思ったが、
ひとりの友人にはどうやっても勝てなかった。
真新しさを求めた自分の写真は、なんとなくそれに近かった。
綺麗な景色。好みのカメラ機材。
そこに完全に依存しきった僕に、良い写真が撮れるはずがなかった。
ただ唯一、前述の素敵だと思った女性を撮らせてもらった写真だけは、今見ても凄くいい写真だと思う。
それは、真新しさや、機材、のおかげではない。
憧れの人を写真に収められる。
いや、それだけじゃない。
その時間を共有できるというこの上ない高揚感。
同じ空間を生きているという実感がある。
その感情が写真に反映されていたように思う。
どこで撮るかでもない、どう撮るかでもない。何を撮るかでもない。
今の話をした後だと矛盾するようだが、訂正することはしない。
彼女を撮影したから良い写真が撮れた、と言えばそうだが、
重要なことはそこではないように思う。
彼女を撮った日の心が、この日の写真に宿っている。
なんとなくそんな気がする。
撮りたいと思ったものを、僕は今どんな気持ちで見ているのか。
そんなことを考えながら、最近はシャッターを切っている。
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