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映画「うちげでいきたい」方言監修・山﨑美月さんインタビュー〜後編〜

在宅看取りをテーマに鳥取県大山町で製作された映画「うちげでいきたい」の方言監修を担当し、撮影中は現場の技術スタッフ補佐も務めた山﨑美月さん。生まれも育ちも大山町で、大学では言語学を学び映画製作の経験も持つ山﨑さんに、前編では大山町の言葉について伺った。後編では、さらにご自身にクローズアップし、山﨑さんが小学生の頃、大山町の自宅で介護されていた曽祖母と過ごした思い出や、山﨑さんが今後地元大山町で実現したい想いについて語っていただいた。

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曽祖母と家で過ごした時間と、子どもながらに感じた「死」

山﨑:歴史を辿れる限り辿ると、私の先祖は江戸末期ぐらいから今のところに住んでいたようです。曽祖父母と父がいて、そこへ母が嫁いできて私が生まれました。曽祖母は70代から半身麻痺でずっと寝たきりだったので、家族が家でみていました。

曽祖母の部屋にはブラウン管テレビが置いてあって、そこで相撲を見たり将棋を見たり、野球もよく流れていました。私は横にいて漫画を読んだり、絵を描いたりしていました。土日は、働いている両親の代わりに曽祖母の娘さんたちが来て、その人たちと将棋を打ったりすることが多かったですね。

状態が悪くなると病院に行って、回復したら家に戻ってっていうのを繰り返していました。私が小6くらいの時に、たしか88歳で、最期は病院で亡くなりました。

中山:「うちげでいきたい」では、孫の莉奈が祖母の民代との最後の時間を家で過ごします。ご自身の経験から何か感じられることはありましたか。

山﨑:民代役の矢島さんが、お看取りのシーンのメイクをした状態で布団に横になっている時に、撮影班が画角の確認をしている合間にスッと目を閉じておられた瞬間があって。そういう姿を見ると、ちょっと自分の曽祖母を思い出しましたね。

曽祖母は、意思疎通はできるけど日常会話は難しくて、「なに?えらい(しんどい)?」とか、結構頑張らないとコミュニケーションが取れない感じでした。介護していると、痛くしてしまう時があるじゃないですか。オムツを替える時とかに、腕を敷いてしまったとか。そういう時に、ずっと目を閉じていた曽祖母が、大声で「いちゃがなけ(痛いじゃないか)!」て怒鳴ったりする姿を見ていると、正直ちょっと怖いなって思うことはありましたね。

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中山:小学生にとって、「死」はよくわからないけど、何かを感じさせる存在ではあったのかもしれないですね。

山﨑:そうですね。私はわりと早熟なのか、12歳頃でも達観して「死」を眺めていて、「ああ、これが私が初めて関わる死なんだな」って思いながら、通夜で家に運ばれて来た曽祖母を見ていましたね。
ずっと動いている姿を見ていたので、パッと見た感じは生きていて寝ている時と様子が変わらない。だけど、何かがなくなった感じがある。一緒に過ごしていたことで、亡くなるっていう事実がより鮮明に感じられた気がします。

文化的な活動を大山町でやりたい

中山:方言脚色に加えて、当日は撮影補助として関わっていただきましたが、大山町で映画を製作するという経験はいかがでしたか?

山﨑:私も、文化・芸術系の活動を大山町でやりたいと思っていたので、そういうことが大山町でできるっていう証明にもなりますし、すごく嬉しかったです。監督の孫さんは、医療をしながら芸術関連にも関心があって、アグレッシブだなと思います。田舎だと保守的になりがちで、クリエイティブな活動をしている人が少ないと感じます。
あとは今回、裏方に映像や音声を生業とされている方がおられて、どっしりとした構えがとても勉強になりましたね。ああ、現場ってこうなんだって。

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中山:周りに仲間が少なくても、自分はこうしたいという強い思いがあるんですね。

山﨑:気質的にマイペースなんだと思いますね。他を気にしないっていうか。自分の世界観があって、親がいても一人で遊んでいるような子どもでした。子どもの時は、ずっとテレビでアニメを見ていた記憶があります。小学生の頃から唯我独尊で、人と違うことにあまり抵抗感がないっていうのはありますね。

中山:演劇に興味を持ち始めたのはなぜですか?

山﨑:もともと目立つことが好きでした。保育所の時から、セーラームーンごっこをやったら「絶対セーラームーンがいい!」みたいな。中学校も文化祭の演劇で毎年主演か準主演を勝ち取っていました。「絶対やる!」て立候補して。中学の夏休みに声優さんがコントをしている動画を見て、それがすごく面白くて、演劇部入ろう!演劇がしたいって思いましたね。

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ないならばつくればいい。文化を地産地消できる場所に。

中山:今は声優の勉強をするために東京に行って大山町を離れている山﨑さんですが、今後、大山町にどうなっていって欲しいですか?

山﨑文化を地産地消できる場所になって欲しいなと思っていますね。高校生になると、スマホを手に入れて「この役者さんかっこいい」とか、「このアニメが舞台化するんだ」って思うようになってくる。そうなると、往復2万円の旅費も考えたら4、5万円以上かけて県外に行かなきゃならない。高尚な趣味ですよね。それが、わざわざ東京まで出なくても、自分たちの生活圏内に文化的な映画館とか演劇舞台とかがあれば、ここにいても楽しいじゃんって思える。

そのために、大山町に劇場を作りたいです。劇場を作って、大きい舞台でもわざわざ行かなくてもこちらに呼べる、という風になっていくと嬉しいなと思いますね。鳥取市に鳥の劇場はありますが、大山町の文化圏内ではないですよね。もう、何もしなくても目に入るくらい近くにあったらいいなって。

中山:人生100年時代、住み慣れた土地で最期まで笑顔で過ごしていくために、山﨑さんは、何が大切だと思いますか?

山﨑住みやすく、自分でそこを変えていく努力が必要かなと思います。なければ作ればいいし、違うなら変えればいい。多くの人が、違うと思ったら自分が移動して場所を変えると思うんですけど、本当に手に入れたいのであれば、自分で変えていった方が確実なんじゃないかなって思います。同じ趣味について喋る相手が欲しいと思ったら、そういうことを知っている同年代の子を探しに行くとか。大体、「作れば良い」で何でも解決する気がするんですよね

大山町は何もないって言う人がいますけど、なんでもできる場所です。先駆者がいないからこそ自由ができるところあると思うので。一緒につくる人、募集中です!

山﨑

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山﨑 美月
「なければ創ればいい」がモットーの役者。大山地区出身。米子東高校卒(演劇部・放送部)。俳優を志し上京しようとするも周囲の反対を受け島根大学法文学部言語文化学科に進学。在学中、大正大学に国内留学し東京で小劇場のお芝居を観劇。演劇は大山町でもできると考え、卒業後は就職せずに大山町での演劇活動を目指す。大山チャンネルテレビ部町民ナレーター、塾講師(morita friend school)、コンビニ店員として活動中のところ、本映画の撮影協力の声がかかる。現在は、感染症流行の影響で演劇公演は難しいため、東京にて自己研鑽中。好物は猫と眼鏡とチョコミント。
インタビュアー:中山 早織
元書店員の助産師・コミュニティナース。2014年に東京より鳥取へ移住。現在は大山町で地域活動や聞き書きを行う。大山100年LIFEプロジェクトメンバー。映画では小道具・衣装を担当。

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