2020-JUN-11「蒐集した物は、かつての自分の可能性」
転居準備のため部屋の整理をした結果、自分のすべての荷物がスーツケース7個分程になりそうだ。
(モニターやスピーカーなどの家電製品抜きで)
そんな所有物をすべてクローゼットに置いて眺めてみる。
持っているすべての物[もの]をひと目で視認できるというのは、とても気持ちがいい。
あの書類はどこにやったっけ?
お気に入りのTシャツはどこにあるんだっけ?
あの人からもらった手紙はどこにしまったかな?
そんな「?」は一箇所にまとめられたスーツケースや、箱の山から探し出せばいい。あっちに行ったり、そっちに行ったりウロウロする必要はない。
もしもその山の中から見つからなければ、それはもう僕の手元にはないのだと割り切ることができる。
見つからないものは、そこにはない。だから、もう手に届かない。
それでも、そこに湿った感情はない。
爽快な気分に満ちている。
手元に置いておくことで、いつかは使うかもしれない。
そんな風に溜まっていった物は、けっきょく、いつまでたっても使わない。
物が多くあり過ぎることで、それに意識を囚われることで、自由な思考と行動ができなくなる。
「所有していたが処分した物」は、きっと「自分の可能性への執着」だったのだ。
僕は所有物を思いきって、処分することで、かつての自分の可能性も捨て去ったのだ。
「さぁ、この残った物たちで何をしようか!」とワクワクしている。
きっと所有物を精選する行為は、人生の可能性を絞り込んでゆく行為なんだ。
そうしてシェイプアップされた精神は研ぎ澄まされてゆき、いまやるべきことに集中していくことができる。
いただきましたサポートは、この列島に拡がる3つの文化圏を巡る旅『MARGINALEDGE project』のための活動資金につかわせて頂きます。