人生の評価は葬式で ~前編~

親しい友人からの声かけで、アドベントカレンダー2022に参加させていただきました。

テーマは「人」。ピンと来たのが「人生」。人の生きる道。生き方。


僕は、自分の人生の評価は、自分が死んだ後のお通夜や葬式で出ると思っています。


僕は小学校3,4年生のころから、「なんで生きてるんだ?」と考える子供でした。
「どうして、自分は自分で、あいつにはなれなくて、あいつはあいつで、自分にはなれなくて。。。なんでだ?俺ってなんなんだ?なんで生きてるんで?生きてるってなんなんだ?」ということを、ベッドに入って目を閉じて、ぐるぐると考えていました。


【生きる意味】について、ずっと考えてきました。今もですが。


今の【生きる意味】についての僕の考えは、30歳くらいから変わってません。5年ほど前ですね。それを、これから書きます。


結論としては、生きる意味はないです。

意味を考えようとしているのは、理性の領域だからです。

脳をざっくりすぎるくらいに分けて、【大脳辺縁系】と【大脳新皮質】がありますが、前者が本能を、後者が理性を司っています。

ヒトという生き物で考えると、生きるために、また子孫を残すためにはたらく本能の領域は、そうインプットされている以上、どうしようもありません。
(ではなぜ、子孫を残すということを生き物はしているのか。この点についてはめちゃくちゃ話したいです! 知見がある方は教えてほしいです!)


生物として生きたいと思っている。
それは本能レベルで。そのための行動がある。(熱いお湯に手で触ったら"反射"として手を引っ込める、とか。)


本能(大脳辺縁系)でプログラミングされていて、それに沿って都度行動しちゃうのだから、もう仕方ないです。

理性(大脳新皮質)で考えたところで、本能で(生き物として)生きたいと思っているなら、そこに勝ることはできない。僕はそう考えています。


なので、生きる意味をとやかく考えて、答えを出そうとすることをやめました。

生きる意味、というものはないんだと。正解なんてないんだと。
妥当な意味を持たせようとしなくていいんだと、今は思っています。


このプロセスを経たうえで、僕が思ったこと。
それは、「じゃあ、自分が生きる意味を自由に決めていいんだなー」ということ。

自由に決めていいんであれば、僕は「後世の人につながる生き方をしたい」と思いました。


この表現に至った経緯と、タイトルの葬式のお話は後編で。

お読みいただきありがとうございました。


後編も書きました。


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