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黄金の球

 私は将来、バロンドールを受賞するサッカー選手になりたいと、小学生時代から夢見ていた。「バロンドール」とはフランス語で「黄金の球」を意味し、世界での年間の最優秀選手に贈られるものである。当時はサッカーチームなど数えるほどもなかったので、同級生のk1くんとk2くんとトリオを組んでいた。私を含めた三人が攻撃的なポジションを得意としていたが、中学校は別の学校に進学したため、トリオの成績は芳しくない状態で終わることになる。
 私は中学受験をし、地元の進学校に合格した。高校野球に力を入れている中高一貫校だったので、私のサッカーに対する夢は消えかかっていた。それに、私は持久力がないという致命的な欠陥があり、1500メートル走が苦手だった。だが、筋肉の遅筋は発達していなくても、速筋は発達していたので、学校の体育祭では、リレーの選手にも選ばれたことがある。
 大学受験を前に、サッカー熱は燻り、勉強しなければいけなかったが、ほとんどサボっていた。私立大学を何校か受験し、滑り止めの三流大学にかろうじて受かることができたのは幸いだったと思う。
 スポーツに力を入れている大学だったが、私はバロンドールを受賞する夢など忘れて、文芸部に入部することになる。
 文芸部に所属した経緯だが、これは高校時代の友人のF君やK君、T君と一緒に、文化祭で同人誌のようなものを作ったことがきっかけだ。文化的な影響は、この三人の友人たちから影響を受けた。ビートルズやポップアート、アルチュール・ランボーや夢野久作など。高校時代の懐かしさから、文化系のクラブに入部したのだろう。
 何より、体育会系のサッカー部に入部しなかった理由は、受験勉強(ほとんどしていなかったと先に書いたが)の影響で、中肉中背を通り越して太ってしまっていたからである。走れないデブは、ただのデブ。バロンドールを夢見ることもなくなった。
 大学時代は、勉強はほとんどというか、全くしなかった。バイトで稼いだ金は、風俗に通うのに使ったり(泡姫に、「黄金の玉」を磨いてもらったことが、多々ある。)、自販機で売っているビニ本を買って穴のあくほど眺めたり、ピンク映画を鑑賞するのに費やしていた。当然のことながら学費を食い潰し、一年休学してから二、三年で大学は中退することになる。
 大学中退後地元和歌山に帰り、フリーターをしていた。その頃には、体型は普通の人並みの状態に戻り、サッカーではないがフットサルのチームをバイト先の人たちと作って、汗を流すようにもなる。
 それからしばらくして本格的なサッカーをもう一度してみたいと思い、地元の地方紙で、サッカーのチームメイト募集の案内を見つけて、連絡をとってみた。社会人リーグで、一年目は教育部といって、サッカーの勉強のようなリーグに所属することになる。二年目からはチームが三部に所属することができ、ゆくゆくは天皇杯にも参加できるというガチな環境だった。ここから、再びバロンドールを受賞する夢が再燃する。その時の年齢は三十六歳だったが、夢を追うのには年齢は関係ないと思う。

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