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観相師・景春 第五話

●5.江戸
 江戸は、槌音が印象的な町であった。神田山があり、日比谷には入江が見えていた。江城(江戸城)の改修は、かなり進んでいたが、壮大な天守はまだなかった。
 景春たち一行は、赤坂の真田屋敷に到着した。屋敷といってもかなり簡素なものであった。ここには、間者の差配役の駒川忠安、金吾、熊蔵、くのいち・さわが詰めていた。
「信幸様より、板倉様のことは聞き及んでおりますが、ご覧の通りのあばら家でございます」
駒川は申し訳なさそうにしていた。
「気には致しませぬ、雨露さえしのげれば、後はなんとかなります」
「それで、こちらの熊蔵は、板倉様がお取り立てなさったそうですが」
「熊蔵…、あぁ忠義に厚い顔をしていた。あぁ覚えています」
駒川の脇に控えていた男が顔を上げる。
「おぉ、立派になられて、上田ではなく江戸にいたのですか」
「板倉様のおかげで、ここまでになれました。おっとうも、おっかあも喜んでおります」
「それは良かった」
「後、こちらが金吾で、隣がさわでございます」
駒川が言うと金吾たちは、挨拶をしていた。
「それで、板倉様のお役でございますが、差配相談役ということで、よろしゅうございますか」
「そんなお役目なんて、滅相もない」
「これでは、不服でございますか」
「不服どころか過分なので、驚いています」
景春は、その場をうまくつくろったが、よくよく考えて見ると、屋敷からして、あまり良い待遇とは言えなかった。

 屋敷の一室に景春たちは、押し込められる形になった。
「父上、これはあまりにも、手狭なので、他に移った方がよろしいのでは」
「景春殿、敷地が広い割には、建物が小さくありませんか」
「慌てて作ったようだな」
景春は、部屋の梁などを見ていた。
「殿、この庭に離れを作りましょう。あの柿の木の向こうなどどうでしょう」
「源兵衛の腕の見せどころか。しかし、以前ほど若くないから無理はせんでくれ」
「なんのこれしき、しかし、殿は変わりませんな」
「そうか。あぁ、力仕事は、景親に任せて見るのも手だぞ」
「父上、私も手伝うのですか」
「もちろん、俺も手伝うからな」
「それじゃ、私も手伝いますから」
久代までが言い出すと、一同は笑っていた。
 翌日、景春が駒川に離れの普請を申し出ると、材木をなどを、どこからか格安で仕入れてきた。材木問屋とのつながりがあるようで、いつでも用立てられるらしかった。

 離れが半分程出来上がると、景春たちは、移り住んだ。駒川たちも、間者のお役目の話がしやすくなったと、歓迎していた。離れと屋敷との間をつなぐ渡り廊下がつながったので、景春は、屋敷に向かった。
「駒川様、慌ただしいようですが、いかがなさいました」
見慣れない旅装の男が駒川の脇に控えていた。
「今、大殿よりの使者が参って、徳川勢の上田攻めが始まったようです。それに伴って、我々は、この徳川のおひざ元の江戸で、攪乱せよとのご下命がございました」
「上田攻めですか。しかし徳川様はまだ江戸にいるのでは」
「秀忠様の軍勢が押し寄せているのです」
「そうですか」
「あ、あの、家康は軍勢を率いて江戸を発っております」
旅装の男が、口をはさんだ。
「どちらに」
景春が言ったが、旅装の男はすぐに答えようとしなかった。
「駒川様、言ってもよろしいですか」
「良い」
「大垣城あたりではないかと」
「これは、大戦になりそうですな」
「それで、板倉様、我々が今晩、攪乱している間、屋敷の守りを頼みますぞ」
「わかり申した」
景春は、駒川の顔をしっかりと見て答えていた。
「あの、今晩はお気をつけてくだされ」
「何かあるのですかな」
「危険な相が、見えたものですから。しかし、強運もお持ちだから大丈夫だと思います」
「百人力のこの桐野も同行するから、心配はご無用」
駒川は、旅装の男の肩を叩いていた。

その夜、駒川たちは、黒装束に身をかため、屋敷を出て行った。景春たちは、屋敷の留守を守ることになった。
「父上、駒川様たちは、危ないことしているのですか」
「攪乱となると、火付けとかだろうから、そんな簡単なことではないと思う」
「火付けなどしても、意味があるのですか」
「意味があるとか、ないとかでなく、ご下命があれば、それを実行する。忠義とはそういうものだ」
「それでは、父上は、その忠義とは関係なく動いているように見えます」
「確かにそうだな。武家としては、全くの異端であろう。家族や自分のために生きているからな」
「父上は、城持ち大名になることは、意味のないことですか」
「いや、家族が安全に幸せに暮らせるなら、意味があるが」
「そうですか。でも私は…」
「景親、父に従うことはない、お前が思うところがあるなら、その道を突き進め」
景春が言うと景親は大きくうなづいていた。塀の外を見ていた源兵衛が戻った来た。
「殿、東側の塀の外に忍びと思われる怪しい人影が2人ほどありました」
「そうか。この屋敷は目を付けられているんだな」
「父上、踏み込んで来るでしょうか」
「今、踏み込んでこない所を見ると、駒川様たちが戻って来た時に襲ってくるだろう。景親、源兵衛、刀を持ってこい」
景春が言うと、景親は少し嬉しそうにして刀を取りに行った。
 景春は、久しぶりに刀を抜いて、刃を見ていた。
「できれば、使いたくなかったが、己の命が危ぶまれる時は、仕方ない」
「父上、人を斬ったことはあるのですか」
「あるわけないだろう。よーく聞け、我々は3人で一人を討つ、くれぐれも一人で相対するな。後は金吾やさわたちがなんとかしてくれるだろう」
「三人でですか」
「こんなところで、誰も死なしたくないからな。久代は駒川様の奥方と共に地下蔵にいるな」
「殿、ぬかりはありやせん」

 桐野がトンボを切って屋根から飛び降りてきた。
「板倉様、まもなく差配様たちがお戻りになります」
「塀の東側に忍びが二人います」
「東側にもですか、となると…」
屋敷の門が火薬で吹き飛んだ。同時に駒川たちと忍びの者たちが、敷地内になだれ込んでくる。刃と刃が交わり火花が散る。雲が通り過ぎ月明かりが戻った。
「敵は、7名だ」
景春がいち早く数えていた。金吾と桐野がトンボを切り、相手の背後に回り、刃を向ける。熊蔵が太刀を振りかぶり、相手の頭を真っ二つに割っていた。返り血を浴びる熊蔵。さわが、窮地に立たされている所に景春たちが助太刀する。一気に四人がかりで、襲い掛かると、ひとたまりもなく、忍びの者は、ずたずたになった。
「父上、後ろに」
景春が忍びの者を仕留めたので、少し油断していると、別の忍びの者が景春の背後に回っていた。景春は景親の言葉に振り向き様に刀を振ったが、宙を切っていた。忍びの者は、素早く走り抜けて、金吾をバッサリ斬り、打ち倒す。駒川は、敵の首領らしき人物と戦っていた。ほぼ、駒川と互角で、なかなか勝負がつかない。駒川に助太刀する桐野。しかし、首領は煙幕を破裂させ、その隙に桐野を腹を斬る。桐野は血を大量に流して倒れた。屋敷に火を放った忍びの者を討ち取る熊蔵。炎は勢いを増し始めていた。駒川は、息が荒くなっていた。駒川と首領はすれ違い様に互いに刀を斬り払う。刀が抜けた瞬間、二人は一瞬立ち尽くした。すると、駒川が崩れ倒れた。首領の腕から僅かに血が流れていた。景春は、唖然としていると、首領は彼の眼前に立ちはだかった。景春は、慌てて正眼に構えるが、右手の人差し指が鍔の外側に掛かっていた。景春が刀を振り下ろすと、首領の刃鍔競り合いになり、人差し指を斬り落とされてしまった。しかし、緊張のあまりそれに気づかず、袈裟懸けに再度斬ると首領はよろめいた。そこに景親と源兵衛の刃が立て続け突き刺さった。首領は、体のあちこちから血を流して倒れた。
「はぁ、なんとか全員をやっつけたな」
「父上、指が、大丈夫ですか」
「あっ」
景春は、景親に言われて初めて気が付いた。
「板倉様、血を止めねば」
さわが布きれを引き裂いて、景春の手に巻いた。熊蔵は、離れに延焼しないように、渡り廊下を壊していた。

 屋敷の母屋は焼け落ちたものの、離れは、焼け焦げただけで済んだ。 
「板倉様、ここを引き払って、他に移った方が良いのでは」
「熊蔵、敵の首領を討ち取ったのだから、もう来ないのではないか。再度市中を攪乱指せない限り」
「差配様が、いない今、板倉様の判断に従うしかないのですが」
さわは、仲間が死んだことの悲しみは、奥に押し込めているようだった。
「そうか。それなら、しばらく、攪乱はせんで、様子を見よう。あっ痛っ」
景春は布が巻かれた右手を押さえていた。
「景春殿、右手が使えなくても左手で人相は描けますよ」
久代は、明るく微笑んでいた。
「久代、一番気にしていたことがよくわかったな。しかしな、右手もまだ指が4本あるんだ」
「それはそれは、心強いことで」
「父上も母上も、こんな時におどけなくても」
「こういう時こそ、これが大事なのだ」
景春が言うと、源兵衛がこの夫婦をニンまりと眺めていた。

 それから約半年後。徳川方についた真田信幸からの使者が赤坂の屋敷に来た。信幸は徳川方に付くにあたり名を信之に改めていた。
「関が原の合戦で、西軍が負けたので、大殿と信繁様は九度山に流罪に相成りました」
「流罪で済みましたか。てっきり死罪かと案じておりました」
景春は、使者が本物の薬売りにしか見えないので、感心していた。
「それから、先の江戸での攪乱の件は、信之様のあずかり知らぬこととしてください」
「あっ、もちろんです。私の指をなくしたのは、包丁の扱いを間違えたことにしますよ」
景春は、包帯を取ってみる。
「あれ、あっ、指が生えている」
景春が声を上げると、傍に控えていた景親、源兵衛、熊蔵、さわが、景春の手に釘付けになった。駒川の奥方は上田に戻っていた。
「板倉様、どうかなさいましたか」
事情を知らない使者は、口をポカンと開けていた。
「父上、指がありますよ。凄い」
「やはり殿は、普通の人とは、違う何かを持っていますぜ」
「観相術には、そういう術があるのですか」
さわは、興味深そうな顔をしていた。
「そんな術はあるものか。しかし、助かるな」
景春は、指を動かしていた。

 赤坂の真田屋敷は離れが増築され、母屋のようになったいた。中庭では、さわと熊蔵が手裏剣の稽古をしていた。景春たちは、江戸の動きを見張り、事が起これば報告する役目を担っていた。
「久代、ちょっと、神田川の開削普請を見て来る」
景春は厨で漬物を仕込んでいる久代に声をかける。
「そんな所に何を見に行かれるのですか」
「家康様が、江戸に幕府を開いたから、天下普請で諸国から人足が集まっているだろう。いろいろな人相を素描してくる」
「お一人でですか。源兵衛でもお供させて方が」
「素描には源兵衛は退屈するだろう。あぁ湯本殿がいたらな」
「私がお供しましょうか」
「いや、身軽な方がよい。七つ時(午後4時頃)までには、帰って来る」
景春は、離れの下足場に向かっていた。

 京橋川の開削普請は、短期間のうちに5割程度、掘り進められていた。掘った土砂は、埋め立てに使われていた。景春は、人足が働いている横を、ゆっくりと通り過ぎては、顔を懐紙に描いていた。時折、矢立の筆を止めて、性格などを尋ねていた。
「あんた、誰だ。邪魔せんでくれ」
人足の頭風の男に声を掛けられた。
「私は、絵師でして、天下普請の絵を描いておりました」
「絵師か。俺らの働きっぷりを丁寧に描いてくれよ。しかし、もうちっと、脇に寄って描いてくれ」
「わかりました」
 景春は、その後、20人ばかりを描いてから、竹筒の水を飲む。近所の子供が近づいて来る。
「おいちゃん、何を描いているの」
10才ぐらいの男の子が傍らに立っていた。
「人足たちの顔を描いているのさ。それにしても、彫りの深い者、肌の白い者、丸顔の者と様々だな」
「確かに、いろいろな人がいるね」
「良く見ると面白いだろう」
「人だけなの、お化けとか妖怪の顔は描かないの」
「お化けは、人の業がそのまま、形になっていると言うから、関心はあるが、描いていない」
「そう。鍛冶橋の付近に天狗が夜な夜な出るというけど、それも描いて欲しいな」
「天狗か。あれは山の中ではないのか。こんな町中に出るのか」
「おいらも、影だけだけど、見たよ。鼻がこーんなに長かった」
子供は、手振りで大袈裟に言っていた。
「坊主、案内できるか」
「嫌だよ、おっかねぇーから。夜四つ頃(午後10時頃)に表れるから、行ってみれば」
子供は、走り去っていった。

 景春は、一旦、赤坂の屋敷に戻り、夜四つ近くに、鍛冶橋の地下の辻に行ってみた。
「天狗ですか、殿、なんか薄気味わるいです」
源兵衛は、提灯を自分の顔のそばに寄せていた。
「源兵衛、なんこその顔こそ、薄気味悪いぞ」
「あっしの顔のシワですかい」
「待て、誰か来る」
景春たちは、辻の柳の影に身を潜める。
「デカい、やっぱり天狗だ」
「しかし、一本刃の下駄は履いていないな。それに地味な着物を着ている」
景春が声を潜めていると、天狗が振り向き、景春たちに気が付く。
「ひぃー、天狗がこっちに来ますよ、殿」
「おっ、あれが天狗なのか」
「オサムライさん、どうナサレました」
「天狗が喋った」
源兵衛は、景春の後ろに隠れた。景春は、近寄ってくる天狗に提灯の明かりを向けた。
「おっ、これは紅毛人、なるほど鼻がかなり高いのぉ、だぶん自尊心が格段に高いのだろう」
景春は、興味津々であった。
「私は、板倉景春と申す」
「ワタシ、ヤンヨーステン、いや耶揚子と申します」
「いやはや、南蛮人とは違いますな」
「ヤブンにナニをしているのデスカ」
「あなたを描きに来ました」
景春は、素早く矢立の筆を取り、懐紙に耶揚子と名乗る紅毛人の顔を描き始めた。
「お、絵師サンですか」
耶揚子は、乱れている髪を手ですいていた。源兵衛は、恐々、耶揚子の顔を見ていた。
 「それで、耶揚子殿たち紅毛人は南蛮人と、見た目以外ではどう違うのですか」
「ワタシ、オランダ人、あちらエスパニア人、信じる神、ちょっとチガウ」
「切支丹の中でも、宗派が違うわけか。しかし、いずれも髭は濃いのだな」
景春は、素描をし終え、耶揚子に見せる。
「おぉ、似てます、カガミで見るようデス」
「色は後でつけますが、その赤味は難しそうだ」
「夜の散歩にタノシイ、おしゃべりができました」
耶揚子は、手を差し出してきた。
「なんですか」
「ワタシタチのならわし、手握る」
「あっ、こうですか」
景春と耶揚子は握手をしてその場を後にした。

 江城(江戸城)の天守が完成した年の夏、景春と久代は東海道を歩いていた。
「景春殿、こうやって旅をするのは、久しぶりですね」
「疲れたか、今日の所は、保土ヶ谷宿に泊まり、明日、江の島の弁財天に行くことにしよう」
景春たちは、保土ヶ谷の旅籠に入った。
 「景親の嫁に相応しい娘さんかしら」
「江の島の弁天様の門前町の娘だから、ちゃきちゃきしてそうだな」
「景春殿、観相のお眼鏡に適うと良いのですが」
「いや、久代のお眼鏡の方が心配だ」
「景親は、どうなのかしらね。この縁談については」
「わからんが、一番は本人次第がだが…これを理由に夫婦旅ができたから良いではないか」
景春は久代の肩を引き寄せた。

 翌日、景春たちは、江の島の弁天様の門前町にいた。
「あっ、あそこだ。早瀬様の遠縁の団子屋に間違いない」
「景春殿、こっそりと様子を見るのでしたね」
「普段の様子が知りたいからな」
景春たちは、弁天参り客として、団子屋・あづまの暖簾をくぐった。
 中年の女性が、奥から出てくる。
「何になさいますか」
「んー、そうだな、草団子と茶を、」
「お内儀さん、美人と名高い、娘さんは、いないのですか」
久代は、それとなく、声を掛ける。
「あら、いやだ。お春のこと、そんな噂が立っているのかい」
「お内儀さん、そっくりの美人だと聞いてます」
景春は、調子の良いことを言っていた。
「そうかい、今呼んできますから」
中年女性は、奥に引っ込んで行った。
 湯呑を景春と久代の前に丁寧に置く娘の手。あまりの白さに景春は、
思わず顔を見てしまった。
「あんたが、美人のお春さんかい」
「お客さん、いやですよ」
そこそこの美人で気さくな感じだが、どこか芯が強そうな娘であった。
「お春さんでしたか」
「はい」
「お春さんは、何か得意なことはあるのかい」
久代は、息子の嫁になるかもしれない娘を、さり気なく観察していた。
「えっ、まぁ、計算が早いとこですかね」
「ところで、好いている人はいるのかい」
景春が団子を頬張っていた。
「あぁ、縁談話はあるって聞いたけど、相手と相手の親次第かしら」
「そうか。その親っていうのが、我々夫婦だったら、どうする」
「えっ、お客さんたちが」
「実は、そうなんだ。それでこれが息子の景親」
景春は、懐から景親の人相書きを取り出してお春に見せる。お春はのまじまじと人相書きを見ていた。
「凛々しい方ですね」
「おっちょこちょいだがな」
「ということは、江戸からわざわざ、私を品定めに来たのですか」
「弁天様のお札のついでだが」
「いやだ。初めから言ってくだされば」
「私は、気に入ったが、景親はどうですか」
「実際にお会いして、話してみないと…、それにこの店、人手が足りないから、婿を取るならまだしも、私がお嫁に行くと…」
お春が言っていると、どこかの講と思われる集団が、店に入ってきた。
「忙しそうだから、我々は、こちらで失礼するが、いずれまたお会いすることになるでしょう」
景春は、銭を置いてから立ち上がった。

 景春と久代は、江の島の砂浜に並んで座っていた。
「景春殿、観相的には、どうでした」
「上唇が厚いので、愛情に深いはずだが、いささか深過ぎる面もある。かなりしつっこい娘でもあろう。景親は耐えられるだろうか」
「しつっこいのですか。ただ気立ては良さそうですね」
「気さくで話をしていて、なんか明るい雰囲気がある」
「景親の気持ちも大事ですね」

「そんなことよりも、海に入ろう」
景春は、久代の手を握りながら立ち上がる。そのまま久代を引っ張っていく。
波打ち際まで来る二人。着物の裾を捲し上げて、足を海に入れる。波がくると、体に海水がかかった。
「景春殿、濡れますよ」
「久代、やはり海は良いのぉ」
二人は、そのまま波打ち際を歩いて行った。夏の日差しは、夕暮れには弱まり、涼しい海風を運んでいた。
 その日は、江の島で一泊し、二人は、海辺の宿から星空を眺めて、一献差し向かいで飲んだ。帰りは戸塚で一泊してから、江戸に戻った。

 「殿、熊蔵とさわが、しょっ引かれました。いつぞやの江戸攪乱の一件で、大殿や信繁様と手を組んでいた咎で、」
源兵衛はかなり不安げにしていた。
「しかし、あの一件、ここを襲撃した者は、全滅したし、我々は信之様の配下のはず」
「念を入れてのお調べのようです」
「それで、景親は、どうしました」
久代は屋敷の中を見回していた。
「たまたま、口入屋で仕事の相談に行かれていたもので、ご無事でした。今は植木職人の恰好をして庭にいます」
源兵衛が庭の職人に手招きをしていた。職人は駆け寄ってくる。
「父上、お帰りでしたか」
「おぉ、縁談どころではなくなったな」
「殿、どうしますか」
「そうだな、久代と景親は、江の島のお春の所にでも身を寄せてもらうか。江戸のご府内でなければ、まず捕まることはないだろう」
「景春殿は、どうするのですか。わしも動くとなると、必死に探すだろう。しばらくは、どんと構えている。それで、無実を訴え続ける」
「殿、策はあるのですか」
「何か、幕府のためになることでもして、忠義建てするか」

 久代と景親が江の島に出立した5日後、景春と源兵衛が江戸お目付差配・大森主善の配下にしょっ引かれた。江城の内濠近くの牢屋敷に入れられた。景春と源兵衛の牢とさわの牢が隣り合っていた。
「さわ、熊蔵はどうした」
「お調べで、息絶えました」
「なっなんと、このわしが、取り立てなければ、百姓のままで済んだのに」
景春は、熊蔵の死の一端に責任を感じていた。
「殿、これは仕方ありませんぜ」
景春たちが入っている牢の前に役人が来る。 
「板倉景春、立ちませい。大森様、直々のご詮議がある」
景春は、引っ立てられていった。

 牢の隣の部屋の土間に座らされる景春。大森は、一段高い座敷に座っていた。大森の隣には、役人が4人座っていた。
「板倉、その方は、絵師を装って、天下普請の絵を描いておったであろう。あれは何ゆえだ」
「それは、観相術のためでございます」
「嘘を申すな。お主らは、真田の手の者であろう。江戸の状況を伝えることに他ならん」
「江戸の状況をどなたにですか」
「それは真田の殿だろう」
「信之様は、徳川様の家臣でございますが」
「しかし、父と弟は、流罪だぞ」
「それにしても、江戸の状況を伝えてどうするのですか」
「それは、お前の殿に聞け」
「あの、差配様、私の絵はご覧になりましたか。顔ばかりでございます。あれでは、何の役にも立ちません」
「顔に紛れて、堀の深さや建物の配置を描いているのであろう。どうだ」
「そのような絵図面は一つもありませぬ」
「お前が顔だけを描く絵師だという証を立てることができる確かな人物でもいたら、話しは変わるがな」
「それでしたら、鍛冶橋付近に住む、紅毛人の耶揚子殿はいかがですか」
「その方、江戸に紅毛人がいることを知っているのか」
「もちろんです。彼の顔を描きましたから」
「口から出まかせ申すな。大嘘だったら、腹を斬る覚悟があるのか」
「腹でもなんでも斬りましょう。誠なのですから」
景春はこの日の詮議を終えて、牢に戻された。新しく出来たばかりの牢とは言え、快適なわけはなかった。

 そのまま数日間、景春たちは牢に押し込まれていた。源兵衛は白髪が急に目立ち始め、景春の髭がぼさぼさに伸びていた。隣の牢のさわは、気丈にしていたが、目に輝きは全くなかった。この日、景春だけが、また土間に呼び出された。
 「板倉、その方の言い分、誠であった。お解き放ちとなるが、それには、条件がある。その観相術をだな、幕府のために役立てて欲しいのだ」
大森の言葉に景春の顔が明るくなった。
「それは、願ってもないこと。予てより、それで身の潔白を立てる所存でした」
「これより、こちらにおわす御文庫差配・寺沢文右衛門の配下となり、御文庫で忠義に励め」
大森の隣にいた老年差し掛かった男が立ち上がる。
「わしの手の者が、観相の書物を運び入れた。なかなか興味深いのぉ」
寺沢は、白いひげを生やした仙人のような風体であった。
「牢からお解き放ちにはなるが、城内南郭の御文庫に詰めてもらうことになる。赤坂の屋敷には戻るな」
大森は、事実上の幽閉を言い渡していた。
「あのぉ、源兵衛とさわも連れて行ってよろしいのでしょうか」
「さわは忍びだから駄目だ、別の使い道がある。しかし源兵衛は、何の役に立つのだ、やはり無理だな」
「私の史料編纂の手助けになります」
「そうは見えんがな」
「観相の筋が良いのです」
「わかった、一緒に詰めろ」

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