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60歳(還暦)前に自分史を作ってみた話

おはようございます。こんにちは。こんばんは。お疲れさまです。
だいもんと申します。
私の記事をご覧いただき、ありがとうございます。

突然ですが、60歳(還暦)ってどんなイメージですか?
私は赤いちゃんちゃんこを着てお祝いするお年寄りのイメージでした。

ところが、私もあと一年ちょっとで60歳!
(2023年11月現在58歳、11ヵ月)

人生も折り返しを過ぎてこれからは「自分らしく生きたい」と思い、
「自分らしさ」を発見するために自分史を作ってみました。

気になるところだけでも読んでみてください。


自分史

浮き沈みの多かった誕生~高校


1964年(昭和39年)1回目の東京オリンピックが行われた年に3兄弟の末っ子として神戸で生れました。

父は厳格な高校の英語教師、母は専業主婦の平凡な昭和の家庭で育ちます。

幼少期は野球をやっていた兄と一緒に階段の登り降りやうさぎ跳び(今は膝を傷めるのでやらないそうですが)

お陰で足腰が強くなって小学生の時はリレーの選手に選抜され、普段は内気で目立たない私が、運動会は唯一みんなに注目してもらえる晴れの舞台でした。

運動会の前日は私にとっての「運動会前夜気分」でワクワクしてたのを覚えています。

運動が好きだった私は兄と違うスポーツをやろうとサッカー部に入部。
背番号は「11」なんとなく運命めいたものを感じます。(分かる人は限られますね)

部活以外では友達と遊ぶより一人遊びが好きで、
スキーのジャンプ台と選手をボール紙で作って飛ばしてみたり、
本を並べてコースを作ってパターゴルフのようなことをしたり、
自分で遊びを考えて楽しんでいました。

学研の「学習と科学」の付録で実験をするのにもハマり、
ニクロム線で電熱器を作るキットでは、コンセントにつなぐとどうなるだろう?と思って導線をコンセントに差し込んでみたところ……

バチッと音がして一瞬でニクロム線が切れてプラスチックが溶けたのを今でも鮮明に覚えています。感電しなくてよかった。

中学に入ると暗黒期がやってきます。
身長の差が広がって得意であったはずの運動でも活躍できなくなり、
学力は中の上ぐらいでなんの取り柄もなく自己肯定感はダダ下がり。
いじめにもあって人生真っ暗でした。

中学3年になり、勉強より実習ができそうという理由で高等専門学校(高専)を目指すことに。
ようやく勉強をやる気になったのですが、先生から「普通科に行って大学に進んだ方が就職しやすいぞ」とアドバイスを受けてあっさり進路変更。

無事に高校入学。部活は卓球部に入部しましたが、出身中学で派閥のようなものがあり、少数派の私は先輩に心を削られる毎日でした。

体に支障が出てきて簡単に返せる玉が自然に手首が動いて返せない。イップスのような状態に。

このままでは耐えられないと思って2ヵ月ぐらいで退部しました。
その後はゲームセンターに行ったり、友達の家で音楽をかけて目的もなくただ楽しむ毎日。

高校3年になっても勉強には身が入らず、大学は全落ち。

楽しすぎる浪人生活

浪人生活って普通は辛く苦しいと思われますが、私は人生の中でも3本指に入るぐらい楽しく充実していました。

浪人が決まった時に尊敬する先生からの電話で私に大きな変化が……

「〇〇大学を目指してみろ」と言う言葉がなぜだかスッと入ってきて自然に〇〇大学を目指そうと決意。

高校まで塾に行かず過ごしてきたので浪人しても自宅で自分で勉強するつもりでいました。

高校卒業まで父親から勉強を教えてもらうこともなく、勉強について何かを言われたこともなかったのですが、余程心配だったのか初めて「予備校に行った方がいい」と一言。

どこの予備校が良いかもわからずにいた時、高校の友達から予備校の試験を一緒に受けないかと誘われて受けることに。無事に予備校には受かり浪人生活がスタート。

田舎に住んでいたため、都会の予備校に通うのが楽しみでした。毎朝同じ電車で会う高校生に惹かれてますます行く気が増したのを覚えています。

予備校では別の高校に行っていた中学の時の友達と再会。得意科目が違ったので教え合ったりして力をつけることができました。

予備校のテキストは受験専用に作られていてこれをやれば合格できると思い、何周もして使い込みました。

出席を取らなくて必要じゃないと思った授業はパスして友達と近くの図書館で勉強。

予備校帰りには繁華街をプラプラして息抜きをして帰る生活。浪人生なのに自由で楽しい毎日でした。

大学での1人暮らしを夢見てモチベーションを保ち、順調に成績も上がって第一志望の大学に合格!

大学で夢に見た1人暮らし

いよいよ1人暮らしがスタート。
私設の学生寮のようなところにしたため、同じ大学の学生ばかり。新しい友達や先輩と知り合って楽しい毎日が過ぎて行きました。

ある日の夜のこと、階下が妙にざわついていて何事かと降りて見ると……

そこには有名なタレントさんとテレビカメラが。当時、突然訪ねてくる名物番組が突撃してきていました。

大学の正式な学生寮だと思ったのか、寮歌を歌ってくれとのリクエスト。
学生寮ではないので寮歌はなかったのですが、飲み会に歌うちょっとテレビ的にどうかと思う歌があり、勢いで歌い出した時のタレントさんとTV局の人の反応が今でも忘れられません(笑)

アルバイトは時給が良かったので家庭教師と塾講師をしてました。
中学生・高校生を中心に教えていたのですが、
ある時中学受験をする小学生に塾で習っている算数を教えることに。

それまではつるかめ算とか使わなくても方程式で解けばいいなんて思ってましたが、算数の考え方はやればやるほど面白くなったのを覚えています。

楽しくなってきてオリジナルの問題を作ったりしてました。塾の模試でそっくりな問題が出題されて喜んでいたのを覚えています。
順調に成績も伸びていたのですが、大学3年になって実験が忙しくなったので迷惑をかけてしまうと思い、泣く泣く家庭教師は辞めることしました。

大学4年は研究室に入り浸り、徹夜の実験をして研究室に椅子を並べて寝たりしてました。
勉強には相変わらず身が入らずに大学院試験は落ちてしまい急遽就職に切り替え。

当時は理系就職(大学推薦)というのがあり、大学の事務の方が履歴書を出してくれて形式的な筆記試験と役員面接で東京の電気メーカーに内定。

天国と地獄。入社~転職

学歴社会・年功序列・終身雇用の時代。
入社してみると見事に高卒・高専卒・大学卒で待遇の違いがあるのを目の当たりにしました。

入社当初は研修で同期と毎晩飲み会。休みの日は東京観光をして楽しい日々を過ごしました。ところが、職場に配属されてから地獄でした。
まさに天国と地獄。

配属初月から残業は月に80時間ぐらい。
先輩からは使えないと毎日のように言われ心が削られる。
「石の上にも三年」なんて言われますが、耐えきれず三年を待たずに当時はまだ珍しかった転職をすることを決意。

初めて就活することになった私は新聞広告を出していた会社に応募。
当時はよくお店に行っていたこともあり、小売業の会社にしました。

筆記試験から一次面接、二次面接、役員面接とこんなに就職って大変なんだと思いました。なぜか落ちるという感覚がなくて受けたのは一社のみ。

役員面接では理系が珍しかったのか「大学で何をやっていたの?」と質問され、理系バリバリの専門用語連発で面接官がぽかんとしてたのを覚えています。

それでも無事に内定をもらい転職。
3日間の研修後にすぐに配属。前職は3か月ぐらい研修があったのでその違いに驚きました。

配属先にいってみると「ぽかんとしていた役員」と再会。なぜだか気に入っていただけたようです(笑)

イベントを運営する部署で広告代理店やイベント会社と一緒に仕事をして夜な夜なカラオケ。スナックのママが上司のボトルを開けてくれてただ飲み。転職して地獄から天国の気分でした。

どん底から復活。異動~結婚

やがて異動になり店頭に立つことに。
質問の荒らし、クレーム対応もあって忙殺されていく日々。上司からは叱責の毎日。またしても心が削られる。

もうダメかもと思い始めていた時に上司は異動。代わりに仏様のような上司が異動してきました。

モチベーションが上がらない私にこの仕事の面白さを知ってもらいたいと言って熱心に指導をしてくださいました。

ある休み明けの日の朝礼でのこと。空気が重苦しい……異様な感じがしました。管理職の言葉にみんな絶句。

私を指導してくれた上司が突然の他界。前日の夜は普通に飲み会に行っていたと後で聞きました。「明日がくるかは分からない」とこの時初めて感じたのを今でもはっきり覚えています。

異動希望を出して無事に得意分野の部署に配転。
私の能力を認めてくれる優しい上司で毎日楽しく過ごしていましたが、1年たたずに隣の部署で突然の欠員が発生。
仕事が回らなくなって私が異動することになりました。

歓送迎会をしてもらった時、いつもは行かない2次会に参加。それが運命の始まりでした。

終電の時間を過ぎてしまってタクシーで一緒に帰ったのがきっかけとなり、いつもはしない電話番号を聞いて電話する日々。

気づいたら朝までなんてことが続き次第に結婚を意識するようになり、結婚。お金も心も準備できないまま第一子を授かりました。

社畜の暗黒時代

子供ができたのに貯金は0。当時は副業という選択肢がなく残業で稼ぐしかなかった。残業代が基本給を超える勢い。会社の景気もよくボーナスは過去最高額をもらえました。

子供の寝顔がエネルギーになりつつも夜泣きで起こされて体はボロボロに。それでも働き続けてなんとか貯蓄も増えて生活も安定していきました。

当時は仕事に必死で気づかなかったのですが、子供と過ごす時間が少なかったことを今では後悔してます(涙)

戦力外通告

人事制度の変更でそれまでなかった役職定年ができて55歳で役職を解かれました。
2年が過ぎて子供は無事に大学合格。受験が終わってホッとして時間ができた時にポッカリと心に穴が空いた状態に。

さらに、パンデミックで会社の業績が悪化。
役職定年とボーナス激減のダブルパンチで収入は30%ほど減。

大抵のことは「なんとかなる」と楽観的な私もこれには焦りました。
個人で稼ぐ道を探して𝕏(Twitter)の発信を始め、毎日刺激と学びをもらって少しずつ収益も増えてきました。

自分史から見えたこと

自分の歴史を振り返って出来事と感情を書き出し、点数をつけてモチベーショングラフを作ってみました。

子供の頃のことは記憶が次々に蘇ってきてスラスラ書けたのですが、社畜の暗黒時代のことは記憶から消え去っているようです。

モチベーショングラフ

ピークは小学生、浪人~大学生、転職した頃、新規プロジェクトに取り組んだ時期。好きなことは工作で一人遊び、好きな教科は数学。

人生が好転した時期や好きなことに共通しているのは「自由」
これが私の価値観(大事にしたいこと)だとわかりました。

これからの人生

自分史を作り、自己理解を深めてようやく自分の土台ができました。
私にとって自分らしさとは「自由であること」

私のビジョン
誰もが自分らしく生きて自分も他人も満たせる世界をつくる」
を目指していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「自己理解を深める無料セッション」をしています。
詳しくは𝕏(@daimonbiz)のDMで
お問合せください。

これから自己理解について私の経験をもとに発信していきますので、
引き続きよろしくお願いします。

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