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俺のメシ

俺は結局のところ調理ができない。それほど高級料理を食べ歩いたこともない。そんな食にこだわりがない俺が食事と言うものを語ってみようと思う。※ 思い付きで書いているだけなので流し読みしてください。

食事は何のため?

たまに人に聞かれる。「なんで人はずーっと働くのか」と。難しいテーマだ。けど頭カラッポの俺はこう言う。
「あのさ、働いたら何が手に入る?」
相手は少し考えてから
「そりゃー金が貰えるわなー」
「金が欲しくて働いて何を手に入れる?」
「まー、取り敢えずは食料は必要だなー」
「そだね。それでメシ食うよな。そのメシってどうなる?」
「ん?どうなるってどういうこと?」
「今日食べたものは明日にはどうなる?」
「あっ、うんこになる」
「人は毎日立派なうんこをするために働いてんじゃねーかなー」
妙に納得されるのだった。

どうせ「うんこ」になるんなら・・・

何を食べてもうんこになるんなら、そんなに高いものを食べる必要は感じない。できれば旨いものが食べたいが、そのために遠くまで行ったり、行列に並んだり、高い金を払うのはナンセンスのような気がする。
そんな俺の食に対する考え方は人とは違うのかも知れないけど書く。


※ 何も調べずに書いているので内容は間違いだらけかも知れない(ゴメン)

画像はイメージです

太古の時代、人間は生きるために狩りをし肉を食べた。自生している木の実なども食べたのだろう。最初はそのまま加熱もせずに生で食べたに違いない。本来、人間以外の動物は加熱したものを食べないと何かで読んだ。その内農耕を覚え、コメや野菜も摂るようになっていったのだろう。主食とおかずだ。火の使い方も覚えて現代の食事の原型が誕生したのかな。
当然その頃は味がどうこうではなかっただろう。空腹を満たすために食べる。実はそれこそが食事なのだと思っている。

味の追求が始まる

人間は道具が使え、火も使える。脳も大きいので、生きるための食事に工夫を始める。材料を切ったり温めたり、味に変化を付けたりと・・・。ここから食文化が始まったのだと思う。果てしない味の追求の旅に足を踏み出した。そしていつの間にか調理の得意な人が、他人のために料理を作りその代わりに金を得る。世界中どこで暮らしていても同じようなことが起こったのだろうか。よく知らない。
今は世界中で色んな料理が食べられる。世界各国その国ならではの食べ物がある。でも俺はイタリアンもフレンチも中華もトルコ料理も、その国まで行って食べたいなんて思わない。食にうるさい人たちは、日本で食べるそれらは日本人向けにアレンジされているので、日本で食べても本場の味は分からないと言うだろう。俺は味覚の違う国まで行って食べてみる価値ってあるのかなとよく思う。
海外へも何度か行った。ツアーを利用せずに行くので、毎晩現地で食を探す。ハワイでは1週間ずっと日本料理店へ行った。そしてそのどれもが日本で食べるものとは遠くかけ離れていると感じた。だから日本で食べるイタリアン・フレンチ・中華・トルコ料理などは本場で食べるものとは別物なんだろう。


数年前にスロベニアの駐日大使(当時)のヘレナ・ドルノウシェク・ゾルコ閣下(前大統領夫人)に紹介され、京都太秦にあるスロベニア料理店へ行ったことがある。そこは大使の話では、シェフがスロベニアの人で、特に日本人向けにアレンジをせずに料理を出すということだった。コース料理を食べてみたが、特に違和感もなく美味しくいただけた。スロベニア料理が日本人に合うのか、俺が味覚音痴なのかは分からない。

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日本人向けアレンジ

日本人に合うようにアレンジを加えた食事は、確かに本場の味とは違うかも知れない。でもその方が食べやすいし、料金も適性な気がする。
ラーメンやカレーなどは、今では日本の国民食と化しているではないか。カレーチェーン大手のココ〇チなどは、本場インドで好評を博している。もうそうなるとカレーは日本食とも言えるのかも知れない。そうやって考えると、何が本場の味で、何がアレンジなのか分からなくなってくる。俺的にはみんなそれぞれに工夫して、国境を越えて旨いもん作ればいーんじゃねーのって思ってしまう。
多分専門家の先生方は異論を唱えるとは思うが、食において大切にしなければならないのは本当は何なのかを知りたい。

俺は食について語らない方がいいのかも


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