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重信房子「十年目の眼差から」を 37年ぶりに開く

ここから 4本(たぶん 1日1本)、昨日の「レバノン、ベイルート爆発から25日」と題する投稿の中身に関連する(「少しでも関連する」と言った方がより正確)、4つの事柄について投稿する。一つ目は37年前に筆者が読んだ、かつて存在した日本の新左翼組織「日本赤軍」の最高幹部だった重信房子氏の著書「十年目の眼差から」を、超絶久しぶりに家の書棚から下ろし、捲ってみた件。

本投稿のタイトル上では「37年ぶりに開く」としたが、厳密には事実とやや異なる。この本が発行されたのは 1983年1月、巻末に残っていた筆者のメモによれば、筆者がこの本を読んだのは 1983年3月。その後もこの本を開いて捲った時期はあったと思う。ただ、かなりの昔であることには変わりない。おそらくは 1990年代以降は開いてなかったのではないか。

切っ掛け

この本を超絶久しぶりに手に取って捲ってみたのは 6日前、今月24日のこと。本投稿の冒頭で言及した、昨日の投稿テキストの中で紹介しているオンライン・イヴェント「日本では報道されないレバノンの真実」の初日、8月24日の 2人目の話者が重信メイ氏だった。彼女は 1973年3月レバノン・ベイルート生まれのジャーナリストで、父はパレスチナ人(パレスチナ解放運動活動家、イスラエルの攻撃により既に死去)、母は重信房子氏(現在、日本で服役中)。

重信房子氏についての評価は人によりけりで大きな幅があるだろうが(ただ、よく知らない人の中には日本赤軍を同じく共産主義者同盟赤軍派から分派して生まれた連合赤軍と混同する人もいるのではと思うが、両組織は別組織)、当然ながら親と子は別人格であって、重信メイ氏のジャーナリスト等としての活動は重信メイ氏本人のそれによって評価されるべきで、彼女の父親や母親に対する評価の影響を受けることがあってはならないと思う。

それはさて措き、6日前に視聴したオンライン・イヴェントの話者の一人であった重信メイ氏の名前は、筆者にシンプルに彼女の母親、重信房子氏を思い出させるものがあって、書棚の奥に置きっ放しになっていた著書「十年目の眼差から」を久しぶりに手に取り、ぱらぱらと頁を捲ってみたのは自然な流れだった。

37年前に読んだときのこと

筆者がこの本を読んだのは 1983年3月。翌月、1983年4月に筆者はバックパック一つ背負って日本を発ち、当時のソ連・ヨーロッパ諸国に続いて、8月から10月にかけてトルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプトといった中東諸国を旅している(その後は再びのトルコ、さらにイラン、パキスタン、インド、タイ、韓国を旅し、1984年2月に日本に戻った)。

日本を発つ直前に読んだわけだが、筆者は既にいわゆる「パレスチナ問題」に関する知識は持ち、強い関心を持っていて、目的地の中に最初からパレスチナを入れて旅の計画を考えてはいたものの、自身はパレスチナ解放支援の活動家というわけではなかったし、興味のあるところは他にも複数あった。旅の前には、ヨーロッパの国々に関わる本も読んだし、中東・南西もしくは南アジアを旅することも念頭に、(旅とは別にもともと知的関心があってのことだが)イスラームやヒンドゥー教、仏教についての本を読んだりもしていた。そもそもが、そんな旅をしたいと最初に考えたのは大学に入って直ぐの18歳か、数ヶ月後の19歳の頃で、当時はインドに行きたい、その気持ち・考えが最初だった。だから、インドの社会や文化、歴史、インドの旅に関する本は、だいぶ早いうちから読んでいた。

ともあれ、重信房子氏の著書「十年目の眼差から」は、旅の前に読んだ色々な本のうちの一つ(脱線するが、氏は 1945年生まれ、1945年というと筆者が好きなエリック・クラプトン 、ニール・ヤングといった英米のロック・ミュージシャンが生まれた年でもあることに今回気づき、おっと重信房子さんはそういう世代なんだとあらためて妙な感慨を覚えた)。

重信2

この本はかつてあった「話の特集」(1965年から1995年まで発行されていたミニコミ誌の草分け的雑誌、出版社の名前でもあった)が 1983年1月に発行したものなので、そういう意味では、たまたま筆者の旅の直前に読むことになったもの。そんな偶然のタイミングではあったが、同年3月にその本を読み、その半年後に筆者はパレスチナの地を旅して歩いていた。

初出一覧

ある意味、記録するのに歴史的な価値さえありそうなので、以下にメモしておくと、この本は書き下ろしではなく、初出があって、次の通り。

十年目の眼差から(「話の特集」1981年2月号より同年7月号)

レバノンよりの報告(「話の特集」1982年10月号)

同志への手紙(「人民新聞」1980年6月5日)

1983年3月当時の読後感

6日前、2020年8月24日の夜に30年ぶりくらいで(あるいは正真正銘「37年ぶり」だったかもしれないが)この本をぱらぱらと捲っているうちに、巻末に自分の手書きメモがあることに気づき、驚いた。一瞬驚き、その後、単純に懐かしくなった。

汚い字で、かつ若い時の雑文・手書きメモという「小っ恥ずかしい」ようなものではあるけれど、読後感として自分には分かりやすいものだったので、ここに載せることにした(まぁもともと無料 note に非有名人が書いてる雑文テキスト上のことなんだから、笑)。

重信3

以下、手書きメモのあるページのみ、あらためて(しつこいな、笑)

重信4

本投稿とは直接関係しない、ボーナス・トラック「の・ようなもの」 〜 「世界革命戦争宣言」(頭脳警察)

読んで字の如しで、以下は、前の章までに書いたこととは、直接的には、関係しない、そんなレベルの、ボーナス・トラックのようなもの。

「の・ようなもの」は、ただの言葉遊び。「の・ようなもの」は 1981年公開の日本映画のタイトルで、監督と脚本は森田芳光、主演は秋吉久美子。しかも筆者、この映画、観てないと思う(笑)。ただ、この投稿で取り上げた本を読んだり、その後、海外に旅に出たり、そんな時代とほぼ重なるので、懐かしがり「ついでに」言葉遊びした。

ところで、「前の章までに書いたこととは、直接的には、関係しない」と断り書きして始めたものの、少しだけなら、関係はある。

というのは、前の章で、37年前の自分の手書きメモなんぞという、ある意味、我ながら「小っ恥ずかしい」と言うこともできるものを掲載したのだが、そこに、「おれにはわかりにくい『左翼用語』が少なくない」とか、「しかしまぁ、この『左翼用語』(?) は何とかしてもらいたい!」とか書いてあって、22歳当時の自分のメモながら、来月還暦を迎える自分として、何だか笑えた。

ここで取り上げるボーナス・トラック「の・ようなもの」、「世界革命戦争宣言」を聴くと(その歌詞、いやアジテーションの言葉を聞くと、読むと)、そんな「左翼用語」の一端(あくまで「一端」)がわかるかもしれない。

37年前、22歳のとき、「『左翼用語』が少なくない」とか、「『左翼用語』(?) は何とかしてもらいたい!」とか書いていた筆者だが、そして実際、そう思ったに違いないのだが、筆者自身は学生時代、遅れてきた学生運動ちょっとやってみた派みたいな人間だった。1960年911生まれだから '60年安保世代でも '60年代末学園闘争もしくは '70年安保世代でもないものの、「学生運動」という言葉が既に死語になりかけていた時代、他人から見ればそう形容されるような活動をしたりしつつ(勿論そればっかしやっていたのではないから「しつつ」!!)、学生時代を過ごしていた。各サークルが自室の鍵を自主管理していた旧サークル会館が壊され大学側の管理が強化される新会館が建設されようとした時に旧会館に立て籠ったり(日和って、笑、盆の時期に実家に帰省して戻ったら、その間に機動隊が入って会館は既に壊されていた、爆、「自爆テロ」の爆ではなくて「爆笑」の爆)、当時は軍事政権だった韓国の政治犯の救援運動をやったり、そんなこんなの云々かんぬんカンヌ映画祭、申し訳ない、云々かんぬんと書くとつい「カンヌ映画祭」と書いてしまう癖のある「活字中毒地獄の味噌蔵」(椎名誠)な筆者であった。

話戻って、それでもやはり、当時の少なくない論者による書籍や、あるいは当時でも残っていたモノホン(本物!)新左翼によるビラや学内のタテカン(と言えば立て看板、これは今や本当に死語なのかもしれない)などに見られた、ひと世代前の「左翼用語」(より正確に? レッテルを貼るなら「新左翼用語」と言うべきか)やその言葉遣いによる表現には、当時、正直、辟易させられるものがあった。

もしかしたら、今の方が、その種の表現があっても、ある意味「歴史的資料」としてそれを(比較的)素直に読めるのかもしれない。

さて、ここからがこの「ボーナス・トラック」章の本題(の前の前文も本題に入ってたかもだけど)。

頭脳警察は、それこそひと世代前の時代、1970年代前半、筆者が小学生、中学生だった時代に特に活躍した日本のロックバンドだが、1979年以降の自分の学生時代、筆者は頭脳警察やそのメンバーだった PANTA の曲をわりとよく聴いていた。

以下にリンクを貼る「世界革命戦争宣言」は、頭脳警察の最初のアルバム「頭脳警察1」(1972年3月リリース)に、イントロダクション(1曲目)として収められたもの。この彼らのデビュー・アルバムは、発売中止(発売禁止、もしくは圧力によりレコード会社が発売自粛、この辺り、正確なところを筆者は知らない)の憂き目に遭っているが、筆者は後年再発リリースされた CD を持っている。

「世界革命戦争宣言」は、重信房子氏がかつて最高幹部を務めた日本赤軍の母体とも言える(日本赤軍はそこから分派した)当時の新左翼のセクト、共産主義者同盟赤軍派が 1969年に発した宣言を、頭脳警察が歌にしたもの(歌というよりアジテーションという感じだが)。

YouTube に上がっているクリップへのリンクは、この下の方、この章の最後に貼っておきます。

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ここからは、「ボーナス・トラック」という名の付録的な章の中の、その中の更なる「付録」、言わば入れ子細工された付録。なんだそれ(笑)。

以下の写真は、筆者がネットを漁って引っ張り出してきたもの。この下にリンクを貼る頭脳警察の歌(アジ)の元となった「宣言」についても、ネット上にあったものを、この下の方(歌の YouTubeリンクの上)にコピペしておきます。

世界革命戦争宣言

1969年当時の「宣言」の中身を見て、例えばの話、昨今の自称ISやアルカイーダなどを思い浮かべる人がいたら、それはそれで、その解釈は決して間違ってはいないかもしれない。異なるものは殲滅してよい、という考えそのものは、もしかしたら、もしかしたら、それほど遠いものではないのかもしれない。ただし、そこで終ったら、それは浅はかだ、そういう気はする。

頭脳警察の「世界革命戦争宣言」の元となったアジ、共産主義者同盟赤軍派による「世界革命戦争」なるものの宣言は 1969年に発せられたもので、来月還暦を迎える(上にも書いたか、赤いちゃんちゃんこは要りません、笑)筆者なんか、まだ小3だった年。Shocking Blue が "Venus" をリリースした頃。翌1970年、筆者が彼らの "Never Marry A Railroadman" (邦題「悲しき鉄道員」) を聴いて「洋楽」♫ なるものの世界に入っていく、その年の前年。テレビでデモ隊がいわゆるゲバ棒振り回す光景などは散々流されていて、それを観たりはしていたけれど、小学生時代の筆者はそれが何であるのか、ませガキでそこそこそんな社会現象みたいなものについて考えたりする子どもではあったものの、流石に自分の生活に関わってくるようなレベルの深い洞察はしていなかった。

ただ、その後、しばらくの時を経て、三里塚に赤旗が翻ったのをテレビで観て、少年の心ながら(いま想えば 「子ども心に」 というべきなのかもしれないが)、「ワケの分からない」晴れ晴れしさみたいな(いや、ちょっと違うな、今いい言葉みつからず)気持ちを抱いて、感激したことはよく憶えている。

もちろん、1960年生まれというこの年齢だから、子どもの頃の出来事とはいえ、赤軍派から分派した連合赤軍(本投稿の上の方で書いたように日本赤軍とは別組織)による浅間山荘事件、その他、よど号ハイジャック、それから後に「日本赤軍」を名乗るグループのメンバーによる、イスラエルのテルアビブでの空港乱射事件などは、よく憶えている。【言うまでもなく、それらは決して許される行為ではない。】 ー それらが学生運動、「革命運動」、ひいてはその後のいわゆる「市民運動」まで急速に萎ませ、これって分かりやすい漢字だな、萎縮させてしまったことも、若い頃に抱いたその感慨を含め、よく憶えている。

何故って、おかげで、ってかそのせいで、筆者が大学に入った頃はもう、「世界」を自分の頭で解釈しようとする若者は、それこそ冷笑される傾向にあったわけだから。

1969年の赤軍派による宣言にしろ、1972年の頭脳警察の「世界革命戦争宣言」にしろ、それらを見たり読んだり聴いたりして、ただ単純に、その中身を冷笑する人がいたら、問題(の少なくとも一部)は、その彼なり彼女なりの頭の中の方にあると筆者は考える。

あの時代の「革命運動」と称されて始まった運動の、その後の失敗、大失敗、悲劇、大惨事、いや、おそらくは【運動がその開始当初から内包していた悲劇性】(ここでいう悲劇とは、彼らの悲劇というだけでなく、当然ながら彼らの運動に巻き込まれ、果ては、最悪のケースにおいては命まで落とすことになる人達に係る悲劇を含む)について、自分として考えないわけはない。

そのうえで、「世界」を解釈し、説明し、また、この宣言でいうところの「君たち」を批判、あるいは批評する為の言辞としては、今も有効な【部分】はある ... ならば、そうでない部分から、どうやってそれを剥ぎ取るのか、果たしてそのような「芸当」は可能なのか、そうしたことこそが課題(のひとつ)に成り得ると思う。

以上が、この宣言を読んだり、あるいは頭脳警察の「世界革命戦争宣言」を聴いたりすることで得ることが出来る、筆者の感想 ... ってか、その感想、それは間奏だったりして。。 なんのこっちゃ♫

共産主義者同盟から分派して 1969年8月に結成された赤軍派が、同年9月3日に発した声明文は以下の通り。

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戦争宣言 (1969年9月3日)
共産主義者同盟赤軍派軍事革命委員会

ブルジョワジー諸君! 我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである。 ブルジョワジー諸君! 君たちがたとえ、アメリカ軍、NATO軍、安保軍、ベトナム連合軍など等全世界の警察を総動員しようとも、君たちが骨抜きにし変質させたソ連、ワルシャワ軍までをも動員したとしても、我々は全世界のプロレタリア人民の力を世界党 世界赤軍 世界革命戦線の下に結集し、必ずや叩きのめしてしまう事を通告する。

君たちの歴史的罪状は、もう分かりすぎている。君達の歴史は血塗られた歴史である。第一次、第二次世界大戦、君たち同士の仲間をだまして動員し、互いに殺し合わせ、あげくのはてにはがっぽりと儲けているのだ。

君たちは植民地を略奪するために我々の仲間を殺した。仲間をそそのかし、植民地を略奪したら分け前をやると言って、後進国の仲間を、君たちがそそのかした仲間を使って殺させたのだ。 それだけではない。そうやって略奪した植民地を君達同士で奪い合う強盗戦争にも、同じように仲間をそそのかして殺し合わせた。

我が日本のブルジョワジー諸君! 君たちにもウソとは言わせない。「富国強兵」のスローガンのもと、日清 日露 第一次 第二次の強盗戦争をやったではないか。

我々はもう、そそのかされ、だまされたりはしない。否、そそのかされ、だまされるだけではない。我々は過去の恨みを持って呪うと共に、またまた君たちのやろうとする事に対して、今度は我々の側には用意がある。

君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのならば 我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある。

君たちにブラック・パンサーの同志を殺し、ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャー、ド・ゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある。

君たちに、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、我々にも君達を銃剣で突き刺す権利がある。君達が朝鮮で再び戦争をやるために、自衛隊を増やし、フォーカス・レチナや三矢作戦をやり、朴独裁3選のためにそれに反対する任君を逮捕し、死刑にする権利があるのならば、我々にも赤軍を建軍し、革命戦線を作り、君たちを逮捕し、死刑にする権利がある。

アメリカのブルジョワジー諸君! 君たちは第二次世界大戦後、朝鮮で、コンゴで、ベトナムで、普段に仲間を殺し続けてきた。

日本のブルジョワジー諸君! 君達は、自衛隊、機動隊を増やし、今ベトナムに協力し、将来朝鮮に派兵しようとしている。

西ドイツのブルジョワジー諸君! 国防軍を強化しフランスをけん制し、チェコや東欧や中近東に目を光らせて何をしようというのだ。

ブルジョワジー諸君! いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ。 我々は過去、封建領主のもとでは家畜のように領土のおりの中に縛り付けられた農奴であった。君たちには、この身分の枠を破り、我々を君たちの自由にするために、「自由 平等 博愛」のスローガンの下、領主達と戦った。だが今や、我々を君たちの好き勝手にされることを公然と拒否する事を宣言する。

君達の時代は終わりなのだ。

我々は地球上から階級戦争を無くすための最後の戦争のために、即ち世界革命戦争の勝利のために、最後まで戦い抜く

我々は、自衛隊、機動隊、アメリカ軍諸君に公然と銃を向ける。

君たちは殺されるのがイヤなら、その銃を後ろに向けたまえ! 君たちをそそのかし、操っているブルジョワジーに向けて。

我々、世界のプロレタリアートの解放の事業を邪魔するやつは、だれでも、容赦なく革命戦争の只中で抹殺するだろう。

万国のプロレタリアートよ 団結せよ! 世界革命戦争宣言をここに発する。

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頭脳警察の「世界革命戦争宣言」は、上に転載した赤軍派の声明文の一字一句そのままとはなっていない。

歌(アジ)の中の「キージンガー」はキッシンジャーのこと。日本でヘンリー・キッシンジャーが最初にメディアに登場した頃、「キージンガー」と表記、もしくは呼ばれていた、という説を読んだことがある。

(歌詞のようなアジ、アジのような歌詞は以下の通り)
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ブルジョワジー諸君
我々は世界中で君達を革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである

君達の歴史的は、もはやわかりすぎている。

君達の歴史は、血塗られた歴史じゃないか

君達の間での世界強盗戦争の為に我々をだまし

互いに殺しあわせてきた

嘘だとは言わせない

我々はもうそそのかされ だまされはしない

君達にベトナムの民を好き勝手に殺す権利があるなら

我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある

君達にブラックパンサーを殺し

ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるなら

我々にも ニクソン・佐藤・キージンガー・ドゴールを殺し

ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある

君達に沖縄の民を銃剣で刺し殺す権利があるなら

我々にも君達をナイフで突き殺す権利がある

いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ

君達の時代はすでに終わった

我々は最後の戦争の為に 世界革命戦争の勝利の為に

君達をこの世から抹殺する為に 最後まで戦い抜く

我々は自衛隊、機動隊、米軍諸君に公然と銃を向ける

殺されるのがいやなら その銃を後ろに向けろ

君達をそそのかし 後ろであやつる豚どもに向けて

我々を邪魔する奴は 容赦なく抹殺する

世界革命戦争宣言をここに発する

本投稿とは直接関係しない、ボーナス・トラック「の・ようなもの」のそのまたボーナス・トラック「の・ようなもの」 〜 「ふざけるんじゃねえよ」(頭脳警察)

読んで字の如し。「世界革命戦争宣言」で終わるのもナンなので(インドのパン、ナンは大好きな筆者だが、何言ってんだ? ふざけるんじゃねえよ)、ボーナス・トラックのボーナス・トラック。

「ふざけるんじゃねえよ」は、頭脳警察の 3枚目のアルバム、1972年10月にリリースされた「頭脳警察3」の 1曲目。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より, この歌の歌詞の掲載に関して「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨の指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除した。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認していただきたい(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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因みに、頭脳警察の曲目、歌のタイトル、なかなかに面白い ... ような気がする。まぁだいぶ「時代」を感じさせはするものの。とりあえず、3枚目まで列挙。個人的には、3枚目に「桃源境」が入っている辺り、何とはなしに(いや、理由は一応あるけれども)、いい。

「頭脳警察1」(1972年3月)
〜イントロダクション〜世界革命戦争宣言 / 赤軍兵士の詩/銃をとれ(Part 1) / さようなら世界夫人よ / 暗闇の人生 / 彼女は革命家 / 戦争しか知らない子供たち / お前が望むなら / 言い訳なんか要らねえよ / 銃をとれ(Part 2)

頭脳警察セカンド(1972年5月)
銃をとれ! / さようなら世界夫人よ / コミック雑誌なんか要らない / それでも私は/軍靴の響き / いとこの結婚式 / 暗闇の人生 / ふりかえってみたら / お前と別れたい

頭脳警察3(1972年10月)
ふざけるんじゃねえよ / 嵐が待っている / 時々吠えることがある / 滅び得た者の伝説 / 少年は南へ / 前衛劇団{モーター・プール} / 歴史から飛びだせ / 無知な奴らが舞い踊る / 桃源境 / 指名手配された犯人は殺人許可証を持っていた / パラシュート革命 / 光輝く少女よ

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