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西部邁が説く解り易い自由論を, 坂口安吾の「堕落論」につなげてみる

坂口安吾 「堕落論」, その起と結

自分がいま持っているのは 角川文庫版で, 「昭和六十三年六月二十日 改版四十八版」。

坂口 安吾(1906〈明治39〉年10月20日 - 1955〈昭和30〉年2月17日)

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「堕落論」の起

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堕落論の結

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さて, まずは切っ掛けを書いてから。

18年前の文章を いま note に載せる, その切っ掛け

1. 坂口安吾に関しては, いま自分の1983-84年バックパッカー「海外放浪もどき」の旅の 旅 note リンク集を 頻繁に更新してるんだけど, 

ちょうどその 39年前の今頃, 7月から8月にかけての 1ヶ月間はギリシャにいて(例えばギリシャ旅 note の 1本目は以下),

前章に 起と結 を載せた, 坂口安吾の「堕落論」の中に,

遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

という件りがあることを思い出したから。

2. 西部邁については, 要は以下に並べるツイートのその一つ目がそうなんだけど, そのあとはついで, さらに複数のツイートを加えて, 「おもしろうてやがて悲しき」(これ, 芭蕉のあれから借りただけなので意味合いは違う)今の日本の政・学の惨状を伝えるということを, ここでしておきたい。

1) まずはこれ。拙者のツイートのページ(「ページ」って言い方, 大丈夫か? まぁ伝わるよね), 政治向きとかパレスチナ問題とか, あるいは宗教問題とかがあるかと思うと, 一方で映画や音楽, そのほか花鳥風月の写真や動画があったり, さらには少なくとも一部の人は眉を顰めるであろう類のモデルや女優さんの写真などを毎日のように載せたりしていて, 要するにあまり人が寄り付かないんだけど(笑)。それでもフォロワーはいる(ありがたや!)。

拙者も, 例えば他に, 野坂昭如の名なども記せばよかった。しかし, ツイートは文字数制限があって無理だったのだ。

本当だよなぁ(笑)。マジで!

2) ついでにこれ, 載せておこう。三浦瑠麗氏ツイート「魚拓」と, その他, 三浦瑠麗氏関連の爆笑動画など。動画はほんと, マジで笑える。

2019年4月29日付の「国際政治学者」三浦瑠麗氏のツイート, その「魚拓」(笑)。ワシントン・ポストと, 旧称「統一教会」機関紙同然のトンデモ新聞ワシントン・タイムズの区別ができてなかったと見える, 東大卒の法学博士で「国際政治学者」(爆)の三浦瑠麗氏。

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因みに, 

ほんまやで。

さて,  東大卒・法学博士・「国際政治学者」(爆)の三浦瑠麗氏によれば, 「大喪の礼」は「タイモの礼」だそうだ。もしかして「礼」も「統一神霊協会」の「霊」かよ(笑)。「田芋の霊」とか(爆笑)。

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さてさて, 東大卒・法学博士・「国際政治学者」(爆)の三浦瑠麗氏によれば, 「政治」だから「閣議」で決めるんだと(笑)。あのね, 「行政」マターなら内閣でよしとしても, 「政治」マターは国会だよ。三浦瑠麗氏って, マジで本当に「国際政治学者」なんだろうか。「お笑い国際政治学者」とか「お笑い国際政治芸人」とか名乗ってほしい。もちろん, 「お笑い」や「芸人」を見下したりしているのではなくて, もしも, 仮にですよ, 本当は分かっていて笑わせようとしてトンデモ言説言ってるのなら, まぁ笑いは取れてるんだから, 名乗ってもいいんじゃね?

まさに。

そういうわけで!

そういうわけで, 兎にも角にも, 西部邁 坂口安吾 を思い出したのだよ。

西部邁が説く解り易い自由論を, 坂口安吾の「堕落論」につなげてみる 〜 2004年 3月20日

2001年夏, 「完成までたったの 3日間 ゼロからのホームページ作り」という本を買って, 流石に「3日間」は無理だったが(専念すれば十分可能だったと思う), 数日のうちに自前のホームページを立ち上げた。

数年いや十年?兎に角だいぶ以前から更新しておらず, かつ当時「ホームページビルダー」のようなソフトは一切使わないで原始的な Html だけで運営していたウェブサイトの, その仕様をその後も全く変えていない。そういうわけで, パソコンで使うブラウザなら大抵閲覧可能だと思うけれど, スマホなどからアクセスすると, OS次第で文字化けする。

ともあれ, その自前のホームページには当時, 日記めいたものを載せたり, 音楽評的なものや, 好きな英語の歌の歌詞を自分で和訳したもの, 映画評のようなもの, 社会・政治時評の・ようなもの, などを載せたりしていた。

あ, 違う, あれは映画だ(笑)。

何はともあれ(再笑), その昔のホームページ上に載せていた(今も載せてるけど *1), 2004年3月20日付の「日記」を, 以下にそのまま転載する。

04年 3月20日(土)   西部邁が説く解り易い自由論を、坂口安吾の「堕落論」につなげてみる
 昨日発行の「週金」に西部邁のインタビュー記事があって、保守主義者・西部邁としてのイラク戦争反対論、イラク戦争否定論が展開されてた。彼は近年、西尾幹二など「新しい歴史教科書をつくる会」系バカモノ知識人や中西輝政(自称「保守知識人」だが)のような日本版ネオコンの輩と論争したりしているらしい。
 ちなみにあっしは、一応書いておくと、西部邁は好きではない。ただ、まぁ嫌いと言えば嫌いなのだが、けっこう面白い、一見偏屈で、しかしけっこう実はシンプルな解り易いことを言ってるオヤジだと思っている。
 件の「週金」の中では、西部おじさんは「予防的な先制攻撃」容認論を言っていて、アメリカのイラク攻撃は差し迫る脅威の証拠を示せなかった以上は「覇権的な先制攻撃」だから「侵略」であってダメだと主張してる。この辺り、普段はいかにも非現実を嘲う西部おじさんにしては、ずいぶん乱暴な非現実的主張だ。だいたい現実的に「覇権的な先制攻撃」だと認めて先制攻撃する覇権国家など、とりあえず21世紀の今は考えられんだろう。実際には覇権主義そのものであっても、国際社会に対しては「予防的な先制攻撃」であり「正当防衛」だと言って正当化するに決まってるんだ、今回のアメリカのように。したがって、「予防的な先制攻撃」容認論というものは現実世界では机上の空論になってしまうんです。まぁ、西部邁なら、それが「予防的」であるか「覇権的」であるかについては、国際社会のおおよそが同意する基準を設けて、その基準によって国際社会のおおよその合意形成によって判定し、前者であると認められたら、それは許容される、なーんて言うんだろうな、たぶん。
 さて、ここまでは前説。
 自由の問題について、西部邁が喋っていること。これは解かり易かった。解り易過ぎて、本当かぁと思ってしまうかもしれんが、これは素直に聴けばけっこう正しい。けっこうっていうのは、その先の真実があるかもしれないからだけど。それは形而上学の「真実」かもしれなくて難しい話になるんだけど、そこまで西部は言わないし、場合によったら西部はその先にあまり意義を認めていないから、結果として西部の「自由論」は平易な言説に留まることになる(ただし当然ながら平易だから傾聴に値しないということは全くない)。
 西部邁が言ってることを、いくらか丸めて、ついでに僕の言い方を加えて、でも西部の趣旨をきちんと踏襲してまとめてみよう。
   「自由」はそれ自体を追求すると無秩序に転落する。それゆえ、「自由」には社会制度による規制が必要。ただし、規制が過剰になると、規制は適度な規制から抑圧的な規制に転嫁する。「自由」と「規制」には、その間での微妙な平衡(バランス)が保たれる必要がある。
   では、「自由」を意義あるものにする良き規制は何か。それは、国民各位のおおよそが共有する、(おおよその)常識と良識にしたがって、当然こういう規制があってしかるべきだとみなされ(つまり僕がシンプルで極端な例を言えば殺人や窃盗等の行為は規制しなければならない)、(おおよその国民が)進んで同意できるところの「規制」である。
   上に述べた判断基準としての常識・良識の源泉は、各国の歴史や伝統に由来する。例えば、不倫に寛容な国もあれば、それを厳しく戒める国もある。伝統は国によって異なる。だとすれば、「自由」もまた、国によって異なるということになる。
 西部が言ってることに、もう少し、僕の言い方を加えてみる。
 「完全な自由」というものは観念でしかなく、現実の外在的世界には存在し得ない。すなわち、人間の「自由」は、一定の制約を受けるという条件付きで、現実の社会もしくは共同体のなかに存在することになる。それは厳密には既に「(完全な)自由 」ではない。ただ、それが現実である以上、「自由」がより「自由」度のあるものとして特定の社会のなかで存在するためには、「自由」を制約することで「自由」を現実に存在せしめることになる「規制」が、その社会のおおよその構成員によって、それはあってしかるべきものだとみなされて進んで同意(合意)されているということが条件になる。
 「完全な自由」は現実に存在し得ない。「自由」に制約を与える「規制」を伴ってはじめて、一定の「自由」は存在し得る。そして、同時代を生きるおおよその人々によって進んで同意(合意)される、万国共通の「規制」は、少なくとも今のところ存在しない。この、「万国共通の」ということが重要である。今、「自由」を現実に存在せしめる具体的かつ個別の「規制」の妥当性について、万国共通のモノサシというものが無いにもかかわらず、アメリカという現代の覇権国家が、アメリカの歴史と伝統に由来するモノサシによって妥当だとみなされる「規制」を、世界中に押し付けようとしているように見える。
 アメリカは、何かと言えばアメリカのイラク攻撃によってイラク国民は「自由」を得たとか言うが、つまりこれは、アメリカがイラク国民に「自由」を与えたと言ってるわけだが、実は、「自由」の実存からすれば、アメリカは、「自由」を存在せしめる、実存の「自由」に付随させる「規制」を、そのアメリカ社会ではおおよそ合意されている「規制」を、アメリカとは歴史も伝統も違い本来は許容する「規制」も違う、イラク国民に押し付けようとしているのである。こうしたアメリカニズムは、誤ってグローバリズムと言われることがあるが、巷間言われるグローバリズムが実はアメリカニズムによる抑圧を指すのなら、そんなグローバリズムなど、坂口安吾流に言えば「愚にもつかない物」である。経済強国の経済活動の「自由」は急激なグローバリズムを促進するのが一方の現実かもしれぬが、人間の「自由」を存在せしめる条件としての「規制」について、国により民族により異なる合意基準がある以上、グローバリズムは、少なくない国々、共同体によって、激しい抵抗に遭うだろう。彼らは、それに「進んで同意」などしないし、それは無理な(不条理な)注文というべきである。
 西部邁の言説「なんか」(笑)(*2)を、偉大なる無頼派にして哲人、坂口安吾だいせんせいにつなげていくのは気が引けるが、しかし、西部邁の上に挙げた言説は、僕ら(笑)左翼が深く考えぬままにやり過ごしてしまう、それでいて考えれば非常に解り易い現実認識を述べているのであり、これを軽々しく無視することは思考停止の、もしくは思想の怠惰の為せる業だと思うのだ。・・・というわけでね・・・
 坂口安吾の「堕落論」(*3)における言い方を援用すれば、「完全な自由」を引き受けるほど人間は「鋼鉄のごとくではあり得ない」。安吾は、武士道は倫理のたまものでなく、逆に人間は放っておくと淪落することを知っているからあみだしたもので、その中身は愚にもつかず非人間的、反人性的だが、人間を洞察する真理においては人間的であるという逆説を述べている。武士道の決め事など馬鹿らしく思えることが多いが、ある時代のあるときまでは存在理由があった。人間はいつまでも仇を追い続けたりしない、その人間の本性を理解し得たからこそ、仇を撃つべしという規律と倫理を武士道は求めた。いつの時代にも、どの共同体にも、「規制」が存在する。
 ただし、1946年の40歳の安吾はこう言っている。
 「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行なわれるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。」
 「人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。 」
 「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」
 安吾の「堕落論」は、いつまでも古くならないと思う。
 国の歴史と伝統に由来する良識と常識、それによっておおよその国民が進んで同意する「規制」。それを西部は、一言で言えば保守したいと考える人だと思う。安吾は保守すべきとは言わない。結局人間は「鋼鉄のごとくではあり得ない」から、「武士道」のような「規制」を持たざるを得なくなる。しかし、それが「武士道」である必要はないし、おそらく後生大事に持ち続けるものでもない。人間は「武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう」が、「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」、そう言っているのだ。西部とは違うだろ? 僕はちょっとしつこいな。スキゾフレーニックなパラノイアなんでね。
 安吾は「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」と言っているが、僕は安吾のように「鋼鉄のごとくではあり得ない」から、こう言い換えておく。僕は生き、僕は転がる。その事実を事実通りに受けとめて、僕は生きることを生きる。そのこと以外の中に、僕が僕の「自由」を獲得する便利な近道はない。だから・・・
 僕は生き、僕は転がる。その事実を事実通りに受けとめて、僕は生きることを生きる。
 西洋哲学にありそうな形而上学的(?)「自由」。僕が好きなロック・ミュージシャンが口にする「自由」。フリーダム。freedom. ・・・考えることは嫌いじゃないから、また気が向いたら考えますわ。内在的「自由」、外在的「自由」、考え出したら、けっこう面白いと感じるところがあるだろう。とにもかくにも・・・
 僕は生き、僕は転がる。その事実を事実通りに受けとめて、僕は生きることを生きる。僕の、僕の姿勢は、僕の attitude は、そこにある。

18年前のあの日の「日記」は, ここまで。

*1 原始 Html オンリーのホームページ上では以下リンク先。ただし, 本 note 本章の冒頭に記した通りで, 

数年いや十年?兎に角だいぶ以前から更新しておらず, かつ当時「ホームページビルダー」のようなソフトは一切使わないで原始的な Html だけで運営していたウェブサイトの, その仕様をその後も全く変えていない。そういうわけで, パソコンで使うブラウザなら大抵閲覧可能だと思うけれど, スマホなどからアクセスすると, OS次第で文字化けする。

*2 西部邁については, その後さらに, 自分が若い頃に抱いていた一定の「嫌悪感」よりも「共感」の方が強くなった。それと, あんな死に方は自分はしないし出来ないけれど, しかしあの死に方, というかその動機には, ある意味の「共感」に近い感情を覚えるところはある。

*3 上掲「日記」に(*3)と入れた箇所は, 原始 Html オンリーの自分のホームページ上の, 以下リンク先にリンクさせてある。ただし, *1 に記した通りなので, 

パソコンで使うブラウザなら大抵閲覧可能だと思うけれど, スマホなどからアクセスすると, OS次第で文字化けする。

さてさて, 

最後は, 付録の音楽。

付録: 超絶単純な連想で, 音楽を 〜 「堕落論」 から 「崩壊の前日」 へ

直立不動のビルの隙間から
入道雲が動きだし
白い世界が広がれば
誰もがみんな変わってしまう..


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