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「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分で変えられることは変える勇気と、そのちがいがわかるだけの知恵をお与え下さい」 ー そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」

昨日、「人生のポケット」なるものについての投稿をして、そこに、2003年4月12日に書いた自分の日記「人生のポケットから出る方法はどこかにある」と、翌13日に書いた自分の日記「人生のポケットから出る方法はどこかにある(2)」を転載したら、その2つの日記の間に、それはつまり12日に書いていた3本の日記のうちの残り2本のうちの1本なんだけれども、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスの著書「ラッキーマン」に関する日記を書いていたことに気づいた。題して、「変えられないこと、変えられること」。

自分では変えられないことを受け入れる、これはかなり難しい。

その日記はつまり、2003年、今から17年も前の日記だが、それより更に前の時期(だが同じ年だと思う)から気になっていたその本「ラッキーマン」は、それから9年も経った後、今から8年前、2012年に買って、そして、読んだ。

自分が「人生のポケット」に入ったのは思い出すとおそらく2002年5,6月か遅くとも7月頃、暗くて深い「人生のポケット」(因みに「黒の舟唄」によれば、「男と女の間には深くて暗い川がある」、あれは「人生のポケット」とは全く別の問題、もんだい問題どんなモンダイ、とかいったフレーズを含む谷川俊太郎の詩があった、脱線したよ)から出ることが出来たのは、2016年1月末か2月初め頃だった。

マイケル・J・フォックスの著書「ラッキーマン」を2012年に読んだことと、自分が「人生のポケット」から2016年の初め頃に脱け出たこととの間には、深くて暗い川がある、いや、無い、いや、そうじゃなくて、その両者の間に因果関係は「ほぼ」無いと思うが、しかし、あの本は当時、出口が一向に見えない暗くて長いトンネル、つまり、暗くて深い「人生のポケット」の中にいた自分にとって、それでも自分の心身を支え何とかして日々をやり過ごすことに力を貸してくれた、幾つかのもののうちの一つだったろうと思う。

自分自身の力など意識できるような毎日ではなかったが、自身の力が全く無くて他者の貢献だけであの時期を乗り越えた、というかただ只管過ごした、それが出来たとまでは思わない、どの程度のものだったか分からないが、後になって振り返れば、自分の力、の・ようなものもあったのだろうと思う、で、それ以外、つまり他者ながら当時の自分の日常を支えてくれたのは、それこそ他者、第三者からみれば月並みな見解、の・ようなものだろうと思うが、それは間違いなく自分の妻、この人生を生きることにおけるパートナーのような存在、それから、次は息子の存在だと思う。で、それ以外にもたぶん幾つか力になったものがあって、それは音楽なり本なり、そういった、人間ではないモノも含まれるのだが、そのうちの一つが、マイケル・J・フォックスの著書「ラッキーマン」。

日記は、大したことを書いた日記ではない。が、自分にとっては、書いた中身は「大したこと」だった。

2003年 4月12日(土)   変えられないこと、変えられること

ずっと前に、新聞にマイケル・J・フォックスが書いた「ラッキーマン」という本の広告が出て、そのコピーが自分の心をつかんだので、その紙面だけをとってある。あのバック・トゥ・ザ・フューチャーのマイケル・J・フォックスです。30歳の若さでパーキンソン病に侵された彼が、自分の人生や仕事、家族、病との闘いを書いた本だということで、そのうち読もうかなと思ったが、今も読んでない。読む元気が出ないが、広告のコピーが妙に気になった。もともとこの本の何ページかに書いてある言葉なのかもしれない。

「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分で変えられることは変える勇気と、そのちがいがわかるだけの知恵をお与え下さい。」

起きてしまったこと、やってしまったこと、過去の事実は変えられない。残念だが、変えられない。他人も変えられない。例えば自分のどこかを変えることができたとして、そのことで自分に関係する他人の心のどこかが変わることがあっても、基本的に、他人を変えることはできない。自分ではないからだ。

自分で変えられることは何? 過去と他人は変えられない。ならば変えられるのは今の自分だけってことかな。できても一部だけどさ。全部変えるなんて出来るはずもないが、そもそもそんなことあったら、そいつはもう自分じゃないもんね。しかし俺に必要なのは、未だに、まずは受け入れるってことだったりして。そこから進んでないのかい? わからんわからん。今考えるのやめとこ。早いとこ風呂入ろう。もう息子は入ってるんだ。

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2003年4月12日の日記「人生のポケットから出る方法はどこかにある」と、翌13日の日記「人生のポケットから出る方法はどこかにある(2)」の間にある、2本の日記は、上に転載した日記と、あとはこれだった。

これも大したことを書いた日記ではないが、自分にとっては、書いた中身は「大したこと」だったのだと思う。

2003年 4月12日(土)   2003年の花見

もう1本書くぞ。
妻が美味しい弁当を作って、野球の練習から帰った息子共々、3人で花見に行った。天気は雨。公園の芝生で傘差しながら弁当を食べ始めた。雨の中で食べるのは大変だ。結局すぐに駐車場の車に戻って、車中で食べた。一応、桜の花は見えたよ。もう見頃は過ぎてんだけどね。これが今年の花見。来年も、3人で観ます。その時は、息子はまた1年分成長しているのです。親はどうでしょう? まぁ頑張りましょう。生きましょう。と書いているうちに、一人で風呂に入ることになってしまった。

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ネット上ではここ。自前のホームページ上。ただし、2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化け。

人生のポケットから出る方法はどこかにある ー そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」

まぁ「人生のポケット」から出たら、そのポケットは空っぽになるんだけどね。

というわけで(どういうわけだ、自問自答、いや自問だけ)、昨日の投稿「人生のポケットから出る方法はどこかにある」へのリンクをここに貼りつけるんだけれど、プラス、一昨日5本投稿したうちの3本目、「そのかわりと神は言った。『おまえたちに空っぽをあげよう』」へのリンクも併せて貼っておきたい。

というのは、実はあまり深く考えてのことではない。自分が「人生のポケット」から脱け出て半年後ぐらいの2016年8月、当時自分が持っていた本や雑誌などから、その多く、本については大部分を、自分の家の居間(ってかあれを他人の家の居間でやったら迷惑以外のナニモノでもないか)でばら撒いて、それを写真に撮ったことがある。何枚も撮った。随分と沢山の写真を撮った。今日のこの投稿のタイトル上に使ったのは、その時の写真のうちの一枚だった。

実際には辛うじて9冊の本が写っている写真なんだけれども、投稿のタイトル上にそのまま貼り付けたら、マイケル・J・フォックスの著書「ラッキーマン」の「ほぼ」斜め下半分と、業田良家の漫画「詩人ケン」の「ほぼ」斜め上半分が収まっていた。

で、思いついて、今日の投稿のタイトルは、後半に、詩人ケンの詩を取り上げた一昨日の投稿3本目のタイトルを繋いで、あんなふうにした。

思いつきで繋いだにしては、何となく、繋がっている。いいね。自画自賛、じゃなかった、自タイトル自賛。

「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分で変えられることは変える勇気と、そのちがいがわかるだけの知恵をお与え下さい」 ー そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」

で、この見出しのタイトルは、リンクを貼る2つの投稿のタイトルを繋いだだけ。

思いつきで繋いだにしては、何となく、繋がっている。いいね。自画自賛、じゃなかった、自見出し自賛。

人生のポケットから出る方法はどこかにある ー  そのかわりと神は言った。「おまえたちに空っぽをあげよう」

13年半という、その時までの人生のおおよそ4分の1の時間を費やして、「人生のポケット」から出たら、幸いにして空は青く澄んでた、嘘のように。

Give Me Strength (Eric Clapton) ー 歌詞和訳

「人生のポケット」に嵌まり込んでいた時期も含めて、2001年からの数年間、けっこうな数の英語の歌の歌詞を、日本語に訳していた。「人生のポケット」から脱け出て以降も、時折やることがあるが、昔ほど頻繁ではない。

プロの翻訳家なんかではないから(「なんか」とは失礼な、いえいえ、そんな大それたものではないのです拙者は、という意味です、しかし以前謙り表現していた「拙訳」ではありません、まぁまぁの「良訳」、「良薬口に苦し」ですぞ、長い括弧)、それは要するに、趣味シュミ人の趣味シュミ翻訳。

今日の投稿の最初の方で、マイケル・J・フォックスの著書「ラッキーマン」は、気になってから9年も経った2012年に読んだけれど、当時、出口が一向に見えない暗くて長いトンネル、つまり暗くて深い「人生のポケット」の中にいた自分にとって、自分の心身を支えることに力を貸してくれた幾つかのもののうちの一つだった、というようなことを書いたけれど、あれはつまり、英語で言うと、"Give me strength to carry on" だったんだと思う。

自分は「神」なるものの存在を信じていない。まぁ宇宙の何処かに、あるいはこの地球上、そして身の回りを含む其処彼処に、物理的というか科学的な意味で、しかしある意味、哲学的な意味でも、何か絶対的な存在があるような考え方はするが、それは巷の、ユダヤ・キリスト・イスラムといったアブラハムの宗教をはじめとしたいわゆる「宗教」でいうところの「神」、なるものとは、全く違う。

この歌の歌詞の中の "Lord" とは、強いて言えば、アブラハムの宗教における「神」を指すことになると思うが、自分はそういうわけで、そんな「神」なるものを、全く信じていない。ただ、この歌自体は、数多ある好きな歌のうちの一つ。

歌詞は、2001年9月8日に訳した。訳した時に併せて日記を書くことが多かったが、その日は日記というものを書いていない。

Give Me Strength ー From Eric Clapton 1974 album "461 Ocean Boulevard"

Dear Lord, give me strength to carry on
Dear Lord, give me strength to carry on
My home may be out on the highway
Lord, I've done so much wrong
But please, give me strength to carry on

神様、私に続けていく強さを与えてください
ああ神様、私に生き続ける強さを与えてください
私の家はハイウェイの彼方に
神様、私はあまりに多くの過ちを犯してきました
だけどお願いです、どうか私に生き続ける強さを与えてください

Dear Lord, give me strength to carry on
Dear Lord, give me strength to carry on
My home may be out on the highway
Lord, I've done so much wrong
But please, give me strength to carry on

神様、私に続けていく強さを与えてください
ああ神様、私に生き続ける強さを与えてください
私の家はハイウェイの彼方に
神様、私はあまりに多くの過ちを犯してきました
だけどお願いです、どうか私に生き続ける強さを与えてください

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ネット上ではここ。自前のホームページ上。ただし、2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化け。

そう言えば、"461 Ocean Boulevard" のレヴューもどきを書いたことがある。これも上記の自前のホームページ上。だから、スマホなどからの閲覧では OS ヴァージョン次第で文字化け。

Can't Find My Way Home

これは元々、Eric Clapton が 1960年代末に参加していた Blind Faith という名のバンドが残した唯一のアルバム (self-titled album "Blind Faith") に収められていた、同じバンドのメンバーだった Steve Winwood 作の曲だけれども、ここに載せる音源は、Clapton が1975年8月にリリースしたライヴ・アルバム "E. C. Was Here" に収録されたライヴ・ヴァージョンで、ハワイ生まれ(ちょっと余計な豆知識だけど母親が日系人)の歌手 Yvonne Elliman が一緒に歌っているヴァージョン。

以下にリンクを貼るのは、1974年7月19日、カリフォルニアの Long Beach Arena というところでの録音だけれど、翌7月20日の同じ会場での "Can't Find My Way Home" が、"Give Me Strength: The 1974 / 1975 Recordings" というタイトルの、Clapton の当時の録音を収めたボックス・セットの Disc Three "E.C. Was Here remixed and expanded version" の中に収録されている。

というわけで、前の章からの、"Give Me Strength" つながり。強引か?強引だよ(自問自答)。

Come down off your throne and leave your body alone
Somebody must change
You are the reason I've been waiting so long
Somebody holds the key

But I'm near the end and I just ain't got the time
And I'm wasted and I can't find my way home

Come down on your own and leave your body at home
Somebody must change
You are the reason I've been waiting all these years
Somebody holds the key

But I'm near the end and I just ain't got the time
And I'm wasted and I can't find my way home

But I'm near the end and I just ain't got the time
And I'm wasted and I can't find my way home

But I can't find my way home
Still I can't find my way home
But I can't find my way home
Still I can't find my way home
Still I can't find my way home
Still I can't find my way home
No, I can't find my way home
No, I can't find my way home

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付録1: Facebook の脳味噌がない検閲当局が投稿させない Can't Find My Way Home

次。

Blind Faith による 1969年のスタジオ録音ヴァージョンはこれ。因みにこの YouTube 上のクリップを、Facebook でシェアすることはできない。

しようとすると、いきなり投稿をブロックされるか、ラッキーなことにいったん投稿に成功しても、遅かれ早かれ、Facebook はその投稿を問答無用で削除する。いいですか、投稿に「性交」ではなくて、単に投稿に「成功」に過ぎないんですよ。

くだらない漢字遊びは兎も角として、British Rock の伝説的バンド、Blind Faith の歴史的名盤 "Blind Faith" のアルバム(当然 LP)のカヴァーがこれだった、それだけのことですよ。当時、この少女の上半身のヌード写真のカヴァーが問題視されたのは確かだけれど、これはある意味、単に歴史的出来事に過ぎず、実際、私が所有する後年の CD盤の方のカヴァーもこれと全く同じ。

要するに、Facebook が忌み嫌う nipple, 女性の乳首というものが写っているから、ただそれだけのことで、脳味噌が完全に溶けてしまっている Facebook の検閲当局は、これを闇に葬り去りたいわけだ。連中は本当に莫迦で、どんだけ莫迦かというと、今日の投稿の最後の章を、参照されたい。

筆者はこのクリップを幾度となく Facebook 上でシェアしようとして、その度に投稿をブロック、もしくは投稿後に削除され、そのうえアカウント停止処分まで食らったことがある、幾度となく。いわゆる Facebook jail という名のムショのメシは本当に不味いからね、それと、女性が Facebook jail に入れられると、看守からセクシャル・ハラスメントを受けるという噂もあるからね(筆者が冗談で広めてるだけ)、Facebook 上にアカウントを持つ世の Ladies and Gentlemen, 淑女紳士諸氏は、くれぐれも注意されたい。

Come down off your throne and leave your body alone
Somebody must change
You are the reason I've been waiting so long
Somebody holds the key

But I'm near the end and I just ain't got the time
And I'm wasted and I can't find my way home

Come down on your own and leave your body alone
Somebody must change
You are the reason I've been waiting all these years
Somebody holds the key

But I'm near the end and I just ain't got the time
And I'm wasted and I can't find my way home

But I can't find my way home
But I can't find my way home
But I can't find my way home
But I can't find my way home
Still I can't find my way home
And I ain't done nothing wrong
But I can't find my way home

付録2: 長崎原爆投下の犠牲者の写真をヌードだとして削除する Facebook の検閲プログラムの愚劣さ

本当に、本当に、Facebook の検閲はくだらない。Facebook's CENSORSHIP is breathtakingly ridiculous, Facebook CENSORSHIP authorities are devastatingly silly and stupid.


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