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宗教批判、および宗教に少しでも関係があるもの

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何故この画像なのかというと、ネットで探したら合掌している女性の写真が出てきて、これがいいと思ったのだが、使ってみたらここには指先しか出なかった、とまぁそういうわけ。あ、アップロー…
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2021年9月の記事一覧

ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

1983年4月26日に日本を発って 156日目, パレスチナ/イスラエルの旅を始めた。今は無きソ連, さらにヨーロッパ諸国, その後はトルコ, シリア, ヨルダンを旅し, そして同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時は16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入

パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで ナクバとは、1948年5月14日のイスラエル「建国」に伴い、その数ヶ月前から始まっていたシオニストの民兵によるパレスチナ人に対する民族浄化(1948年4月9日、イスラエル「建国」前のパレスチナのディール・ヤシン村でユダヤ人のシオニスト民兵たちが女性や子どもを含むパレスチナ人村民107人以上 [犠牲者数は当初より254人とされてきたが, 近年の研究

再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜 トルコ・シリア・ヨルダン振返り note

ペトラ遺跡を堪能した, 1983年9月25・26日。25日の夜はベドウィンのテントの脇にシュラフを出し, 信じ難いほどの数の星, まさしく無数の星々の夜空, 文字通りの満天の星に感動しながら一晩過ごした後, 翌 9月26日の午後3時ごろバスでペトラを発ち, ヨルダンの最初の滞在地であった首都アンマンに同6時半過ぎに戻った。 今日の note のタイトル写真はヨルダンの首都アンマンにあるアルフセイン・モスク。1983年-84年の旅 note ではいつもタイトル写真に自分が当時

ペトラ遺跡(ヨルダン) - 1983年9月25,26日

タイトル写真は同年9月25日, 筆者撮影。両側の大きな岩の塊を抜けるとこれ。 この女性は筆者の知り合い ... だったような(笑)。 https://youtu.be/Dbm8ZxIy98I ♫ ではでは, 自分で撮った動画, じゃなくて 写真を。 ペトラ遺跡, 1983年9月25-26日(写真7枚 および 旅日記) 〜 流石に夜空の写真は撮れてないけれど, あの晩見た満天の星が, これまでの60年余の人生で見てきた星空のなかで正真正銘, 最も美しい星空だった! 以下の

アカバ(ヨルダン), 1983年9月23, 24日 〜 西に見えるイスラエル領エイラートに向かって

アカバ湾を横目に, 国境近くまで歩いてみたのは, 1983年9月23日。警官も兵隊も OK と言うので歩いてみたのだが, どうなったかは後で! .. なお, タイトル写真は同年9月25日朝, アカバをローカルバスで発ってペトラ遺跡に向かうその前に, 泊まっていた宿から撮ったアカバ湾。向こうに見えるのはイスラエル領エイラートの街。 1983年4月26日に日本を発って ソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ, そしてヨルダンの隣国シリアを旅するまでソ連・ヨーロッパ諸国, トルコのそれぞ

ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日

1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ・トルコ・シリアを旅し, 同年9月19日にシリア・アラブ共和国の首都ダマスカスを発って陸路, ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンへ。ヨルダンではアンマンの他, アカバとペトラに行き, ペトラからアンマンに戻り, その後, アンマンから陸路, というかヨルダン川を渡って, イスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下ヨルダン川西岸地区に入り, そのままパレスチナとイスラエルを旅した(以降はやはりイスラエルによる国連安保理

シリア, ダマスカス 〜 括弧付きながら「平和」だった, 1983年9月12-19日

1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ・トルコを旅した後, 9月5日からはシリア・アラブ共和国(アレッポ, パルミラ)ソ連・ヨーロッパ・トルコ 旅 notes に関しては, 以下リンク先 note *1 の最後から3番目の章 1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ) にて。*1 はアレッポ 旅 note, *2, *3 はここでは脱線 notes(同年9月11日にシリアで23歳の

ボブ・ディランのイスラエル支持ソングは, 1982年のイスラエルのレバノン侵攻と同年9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた

タイトル写真の左は, 当時イスラエル軍が包囲したベイルートの難民キャンプでイスラエルの同盟者キリスト教右派民兵たちに無惨に虐殺されたパレスチナ難民らの遺体(1982年9月)。右はボブ・ディランのイスラエル支持ソング "Neighborhood Bully" が収録されたアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)のカヴァー写真, 同アルバムは 1983年4-5月録音, 同年10月リリース。 ボブ・ディランの恥ずべきイスラエル支持ソングと, サブラ・シャティーラ難民キャン

パルミラ(シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日(ISによる破壊の32年前)

写真は, 西暦紀元32年に建造され, 2000年近くこの姿を保ちながら, 今から6年前, 2015年に "宗教" 原理主義者 IS「イスラム国」がこの地域を制圧した際に破壊された, パルミラのベル神殿(1983年9月11日, 筆者撮影)。この写真を含む 1983年のパルミラの写真は 本 note 第2章にて。 謎の東洋人, パルミラに現わる1983年4月26日に「極東」日本を発った怪しげな東洋人(以下 note 1つ目タイトル写真の右から2番目!), 「現代」のシリア・

トム・ウェイツ "Ol' '55" 〜 ラジオで誕生日リクエストがオンエアされた ♫

自分の誕生年は '55 じゃなくて '60 だけどね。昨夜放送のラジオで, 一昨日 9月11日 の自分の誕生日祝いのリクエスト曲, オンエア(ってこの趣旨で使うのはたぶん和製英語かなと思うけれど)。その記念 note ♫ 誕生日は 911InterFM897, 日曜日 18:00-20-00 Barakan Beat 2021年9月12日(生)放送でオンエアされた, 自分の誕生日祝いのリクエスト曲は, 上掲リンク先 note 最終章 2021年9月11日 〜 人は生まれる時

911 を振り返る 〜 1960年, 1965年, 1973年, 1983年, 2001年, 2019年, 2020年, そして 2021年

911 って聞いて直ぐに 2001年のあれを思い浮かべる人は当然ながら多いだろうけど, 911 は自分の誕生日なんだよっていう人だって, 世界には 2,000万人ぐらいいるという計算になる(どの日も同じくらい人間が生まれるという大胆な仮説の上でのめっちゃくちゃ大雑把な計算)。俺はその「2,000万人」のうちの一人なんだ。 タイトル上の写真の右から二人目, どう見ても「怪しい東洋人のおっさん」にしか見えない(と我ながら思う)人物は, 「我ながら」と書いた通りで, シリア・アラ

シリアが括弧付きながら「平和」だった時代 〜 最初の訪問地 アレッポ, 1983年9月5-10日

1983年4月26日に横浜港で当時のソ連・ナホトカ行きのフェリーに乗って日本を発ち, その後, ソ連とヨーロッパを旅し, 7月11日から 1ヶ月はギリシャ, 8月11日から 1ヶ月弱はトルコを旅し, 9月5日にトルコ側国境の街アンタキヤを出て, 陸路, 初めて訪れるアラブの国, シリア(シリア・アラブ共和国)に入国した。21世紀に入って内戦に陥る時期よりもだいぶ以前の, 曲がりなりにも, 括弧付きながら「平和」だった時代のシリアだった(因みに当時のシリアの独裁大統領はハーフィ

シリア入国前に滞在した トルコ側国境の街 アンタキヤの飯屋で見た吉永小百合(の額縁入り写真!) 〜 1983年9月3, 4日

1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパを旅し, ギリシャからトルコに入り(8月11日), その後 イスタンブールとカッパドキアに滞在, そこまでの 130日 以下, 前説的なざっくり説明の後に, 過去 note 一部へのリンク。日本をバックパックひとつ担いで出たのは 1983年4月26日。横浜港から 2泊3日の船旅で当時のソ連・ナホトカに着いて, それから先はソ連・北欧諸国を旅し, さらに南下しながらヨーロッパ諸国の旅を続け, ギリシャにはアテネとサントリーニ

カッパドキア(トルコ) 〜 1983年9月1, 2日

1983年4月26日に日本を出て, ソ連・ヨーロッパを旅し, ギリシャからトルコに入ったのは同年8月11日(アテネからイスタンブールへの2泊3日, 列車の旅)。イスタンブールには3週間滞在し, 8月31日夕刻6時にバスでイスタンを発ってユルギップ(ユルギュップ, Ürgüp)へ。夜行バスは進み, 夜明けの大地を走り, 乗客は「最高に美しい」(と38年前の日記に書いてあった)日の出の光景を眺め, そしてネヴシェヒルからはミニバスに乗り換え。当地に着いたのは, 9月1日朝8時ごろ