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再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜 トルコ・シリア・ヨルダン振返り note

ペトラ遺跡を堪能した, 1983年9月25・26日。25日の夜はベドウィンのテントの脇にシュラフを出し, 信じ難いほどの数の星, まさしく無数の星々の夜空, 文字通りの満天の星に感動しながら一晩過ごした後, 翌 9月26日の午後3時ごろバスでペトラを発ち, ヨルダンの最初の滞在地であった首都アンマンに同6時半過ぎに戻った。

今日の note のタイトル写真はヨルダンの首都アンマンにあるアルフセイン・モスク。1983年-84年の旅 note ではいつもタイトル写真に自分が当時撮った写真を使っているけれど, 今日のこれは例外(ネット上から拝借)。

ヨルダン・アンマン, 1983年9月26・27日 〜 翌28日朝にはアンマンを発って, ヨルダン川を渡りイスラエルによる軍事占領下のパレスチナ, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区へ

旅日記, 以下の写真の下方の頁 1行目までは, 本 note 前説にリンクを付した ペトラ遺跡 旅 note に既出。

1983年9月26日の午後3時ごろ, ペトラをバスで発ち, 「途中, なかなか広大な砂漠」を眺めつつ, ヨルダンの最初の滞在地であった首都アンマンに着いた(戻った)のは同6時半過ぎ。D はヨルダンの通貨ディナール。

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9月27日付の日記に入る直前のところに「ヨルダン内戦」についてのメモ書きがある。何故この時これを書いていたのか(下に続けて写真を掲載する旅日記の次の頁の下部にも再び同様のメモを書いてるんだけど), 細かい経緯は忘れてしまった。他の旅人との会話または現地ヨルダンの人(ヨルダン人もしくはパレスチナ難民)との会話の中で出てきたのかもしれない。ただ, この「一九六九年」というのは誤りで, 正しくは「一九七〇年」つまり 1970年

上掲の頁の「ブリッジ」とは, ヨルダン川を渡って, イスラエルによる違法・軍事占領下のパレスチナ(まずは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, 1948年のイスラエル建国の前までの約30年間はイギリス委任統治領パレスチナ [その前は 16世紀以降 オスマン帝国の支配下] に属し, 第一次中東戦争終結以降はヨルダンが占領し併合するも, 国際社会の殆どはそれを承認せず, 1967年6月の第三次中東戦争以降は同年11月の国連安保理決議に違反し続けるイスラエルが軍事占領, これも国際社会の殆どは承認していない)に入るための「ブリッジ」つまり橋。「明日はいよいよであります」とは, 「明日」から「いよいよ」パレスチナ/イスラエルの旅を始める, という意。

*当時ヨルダンはまだイスラエルとの間に国交を樹立しておらず(後年, 1994年に国交樹立), イスラエルという国の存在を公式に認めていなかった。したがってヨルダン川の向こう, 西岸地区を 1967年6月以来 軍事占領するイスラエルはヨルダンにとって建前上は無いはずの国であって, かつ西岸地区は一時期はヨルダンが占領していた, そこでヨルダンに入国した外国人旅行者が西岸地区に行きたければ特定の手続きを経た上でヨルダン川を渡る「ブリッジ」行き許可証を発行する。しかし西岸地区に入ってしまえばそこはイスラエルが軍事占領・統治しており, イスラエルのスタンプが付き, 当該外国人旅行者はヨルダンには戻って来ない。というわけで, 一方通行の片道切符みたいなものという, 奇妙な越境許可証。その許可証は最初のアンマン滞在時にヨルダン内務省に申請して取得していた。この辺りの事情は, 本 note 次章にリンクを付す, その時のアンマン旅 note にて詳述。

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『アラーとマルクスと石油』とは, そのとき持っていた, 国際ジャーナリスト芝生瑞和(1945年8月15日生まれ - 2005年3月3日他界)の著書(1982年発刊)。パレスチナ問題についての記述や関連する写真などあり, その他も合わせ大事をとって, イスラエルによる軍事占領下のヨルダン川西岸地区に入る前夜, 処分したもよう。

アラブ人はよくしゃべる。(大勢の会話になると特にすごい) 日本人も似たようなものかもしれぬが, テンポがまるでちがう。

上掲頁の旅日記には, 他にもこんな記述が。

アル・フセインモスクでの集団礼拝を たまたま通りかかって見た。男ばかりだ。神の前で 男と女は平等であるはずじゃないか!?

この件, 今日のところはこれ以上突っ込まない。なお, 「アル・フセインモスク」(アルフセイン・モスク)は, 本 note タイトル写真に写っているモスク。アンマンの旧市街にあるモスクで, 歴史はかなり長く, まだイスラームの宗教が生まれて間もない頃の紀元7世紀半ば, 東ローマ帝国のキリスト教の大聖堂跡地に建造したもので, 20世紀になってからオスマン建築様式に改装されたものらしい(ググって調べた程度の記述!)。

「イスタン」つまりイスタンブールに言及したメモが書かれているのは, ヨルダンの後のパレスチナ/イスラエルの旅の後にやはりイスラエルによる軍事占領下のパレスチナ・ガザ地区から陸路エジプトに行き, エジプト・カイロに滞在した後に 2度目のイスタンブール滞在を予定していて, そのときにその時点で「不要なもの」を日本に送った方がいいなぁという備忘録。

ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

1. トルコ 6編

1-1) イスタンブール 3編 + 番外編

イスタンブール番外編(タイトル写真は 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都テヘラン市街, 筆者撮影)

1-2) カッパドキア

1-3) アラブ世界に半歩 足を踏み入れた シリアとの国境に近い街 アンタキヤ

2. シリア 3編 + 番外 2編

2-1) アレッポ

2-2) 1983年9月11日, 23歳の誕生日を迎えた場所, パルミラ遺跡

* 911 に因んだ番外編

* 911 思い切り番外編(笑)誕生日記念 ♫

2-3) ダマスカス

3. ヨルダン 3編 + 今日の本 note 1編

3-1) 郊外のパレスチナ難民キャンプを訪ねた, アンマン

3-2) アカバ, 西隣りのイスラエル領エイラートに向かって歩いた..

3-3) ペトラ遺跡

3-4) そして今日のこの note, ペトラからアンマンに戻った 旅 note .. 

1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国

「中東」というのは西洋から見た言い方だから, 括弧して別の表現を入れたけれど, しかし「北アフリカ」で行ったところは実は, ヨルダンの次に旅したパレスチナ/イスラエルの後でイスラエルによる軍事占領下のパレスチナのガザ地区から陸路行った, エジプトのみ。.. と 章見出しを補足した上で, 

1. 1983年4月26日 に日本を発って, ソ連から北欧を旅し, さらにヨーロッパを南下, イタリアの旅に至るまでの各国各都市の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の 第3章以降に

2. ギリシャ

2-1) アテネ 5編

2-2) サントリーニ 1編 + 番外 1編

時系列で並べると, 上記 アテネ 5編のうち上から 3編の後, サントリーニ 旅 note, その後 アテネ の残り 2編

* 番外編:Summer '83 (イタリア, ギリシャ) 〜 "Summer '68" by Pink Floyd

2-3) アテネ から イスタンブール への列車旅 〜 1983年8月9-11日

さてさて,

例によって最後に音楽 〜 "Fearless" from Pink Floyd 1971 album "Meddle" ♫

サッカー・スタジアムで観衆が歌う "You'll Never Walk Alone" 

が, イントロ [0:26-0:34] とアウトロ [4:40-] で挿入されている(後者の方がよりはっきりと聴き取れる), Pink Floyd 1971年のアルバム "Meddle" 邦題「おせっかい」に収録された "Fearless" ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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