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パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年「建国」)支援のもとで

ナクバとは、1948年5月14日のイスラエル「建国」に伴い、その数ヶ月前から始まっていたシオニストの民兵によるパレスチナ人に対する民族浄化(1948年4月9日、イスラエル「建国」前のパレスチナのディール・ヤシン村でユダヤ人のシオニスト民兵たちが女性や子どもを含むパレスチナ人村民107人以上 [犠牲者数は当初より254人とされてきたが, 近年の研究で107-120人と推定, 前者が流布した背景には加害者側が虐殺を「成果」として宣伝しパレスチナ人に恐怖感を植え付けようとしたという思惑があったことが指摘されている] を虐殺した事件をはじめ、数々の虐殺行為があった:因みにディール・ヤシン村虐殺の首謀者, そのリーダーであったメナヘム・ベギンは後にイスラエルの首相になっている)とイスラエル・アラブ諸国間の戦争により、翌1949年にかけて 500以上のパレスチナ人の村が破壊され70~80万人(75~90万人とする説もあり100万人近いとする見方もある)のパレスチナ人が、故郷の土地と家を失って難民となったことを言い表わす言葉である。

ナクバはアラビア語であり(النكبة‎, al-Nakbah, Nakba)、直訳すれば、大破局、大災厄、大惨事、破滅的な状況、極めて大きな不幸といった意味合いになる。先に書いたイスラエル「建国」前後の期間に起きたことを指すのが一般的だが、一方でその後の70年余にわたり今現在も続くパレスチナ人の苦難をも含めて「ナクバ」と呼ぶ、すなわち「今もナクバが続いている」という文脈で使われる、広義の言い方もある。

また、ここでいうパレスチナ人とは、紀元前からの歴史があり16世紀以降その地を支配していたオスマン帝国が第一次世界大戦の敗戦国となって以降は戦勝国となった大英帝国、イギリスが 1918年から占領を開始、1920年からは「イギリス委任統治領パレスチナ」となっていた土地に、当時人口の上でも土地所有率の上でも圧倒的多数派として居住していたアラブ系住民を指す。

*1 1947年のパレスチナ(当時はイギリス委任統治領パレスチナ):本章のテキストはこの地図の下にさらに続く。 

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パレスチナ(英語 Palestine, アラビア語では فلسطين ‎[Filastīn], ヘブライ語では פלשתינה ‎[Palestina])という言葉は紀元前からあった呼称だが、16世紀以降その地はオスマン帝国の支配下、そして同国が第一次世界大戦で敗戦国となった後は1918年からイギリスが占領、1920年から1948年までは Mandatory Palestine (British Mandate for Palestine) つまり「イギリス委任統治領パレスチナ」となっていた。

1918年にイギリスが行なったパレスチナにおける人口調査によれば アラブ人(ここで言うパレスチナ人)の人口は 700,000人、ユダヤ人のそれは 56,000人と前者の 1/12 以下だったが、その後、ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別の歴史を背景に(直接的きっかけは1894年のフランスにおけるドレフュス事件)前世紀 19世紀末から始まっていた シオニズムによるユダヤ人のパレスチナへの移民の動き [シオニズムの「シオン」は 旧約聖書に出てくるエルサレム地方の呼び名] が急速に拡大した結果(その原因の一つは1917年のイギリスによるシオニズム支持表明と言える「バルフォア宣言」[イギリスの三枚舌外交:1915年10月のフサイン=マクマホン協定で中東地域におけるアラブ諸国独立を約束, 1916年5月のフランス・ロシアと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定で同3ヶ国による中東地域の分割支配を目論み, 1917年11月のバルフォア宣言ではイギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアがイギリス政府によるシオニズム支持を表明] 、そして更に加速度的に拡大つまりユダヤ人のパレスチナへの移民を急増させたのは ヨーロッパを席巻した ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・弾圧・ホロコースト であった)、1947年11月29日の「国連パレスチナ分割」案決議の際の報告書によれば、その時点でのパレスチナにおける人口は、アラブ人とその他(その他とはアルメニア人やギリシャ人などの少数を指し、したがってこの大半はアラブ人 = パレスチナ人を意味する)が 1,237,000人と全体の 67%を占め依然として多数派であったものの、一方でユダヤ人は 608,000人にまでその人口を増やしていた(それでもイスラエル「建国」当時のパレスチナにおけるユダヤ人の人口は全体の 1/3 程度に留まっていたことになるわけだが)。

因みに上記の「国連パレスチナ分割」案は、アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教, うち後二者は仏教とともに世界三大宗教に数えられる)の聖地があるエルサレム市については国連を施政権者として信託統治とするとしたうえで、その時点でなお人口でアラブ人(現在言うところのパレスチナ人)の半分もしくは半分に満たず、また土地所有率に関しては全体の 8%にも届いていなかった(上記の通りもともと人口のうえで絶対的な少数派だったユダヤ人が30年ほどの短期の間の大規模な移民によって人口を増やしたのだからこれは当然の数字ではあった)ユダヤ人の側の新国家(後のイスラエル)にパレスチナの土地の 56%を与え、多数派であったアラブ人(同、パレスチナ人)側のものになるとして予定された国には 43%の土地しか与えないという、極めて不当・不公平・不公正なものだった。

結局、イスラエル「建国」前から始まっていたシオニストのユダヤ人によるパレスチナ人に対する民族浄化キャンペーン(虐殺など)、そしてイスラエル「建国」とイスラエル・アラブ諸国間の戦争結果(パレスチナ人にとっては「ナクバ」)、1948年「建国」当時のパレスチナにおける人口において全体の 1/3 ほどだったユダヤ人シオニストたちの新興国家「イスラエル」は、パレスチナ全域のほぼ 8割の土地を獲得することになった。

そしてその後、イスラエルは残ったパレスチナ人の土地、すなわち以降はヨルダンが占領・統治・併合していた東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区(ただしヨルダンによる占領, 併合は国際社会の殆どが承認していなかった)およびエジプトが占領し統治していたガザ地区(エジプトによるこの占領・統治も国際社会の殆どが承認していなかった)の全てを 1967年の第三次中東戦争により占領することとなり、「歴史的パレスチナ」全土がイスラエルによって支配されることになったわけである。

なお, 1967年6月以降のこのイスラエルによる占領(上記の他にシリアのゴラン高原の一部, およびエジプトのシナイ半島; 後者のみ後に返還)も当然ながら国際社会は承認していない。そもそも1967年11月22日採択の国連安保理決議242号を含む複数の安保理決議が、1967年占領地からのイスラエルの撤退を要求し続けている。

ともあれ、上記のイスラエル「建国」当時のアラブ系住民 = パレスチナ人の人口などを踏まえ、あらためてイスラエル「建国」が引き起こしたパレスチナ人にとっての大惨事・大災厄 = ナクバによってどれだけの人数のパレスチナ人が自らの故郷・土地・家を失ったかを見れば、その悲惨さがなおいっそう伝わってくるであろう。

以下の *2 は 先に掲載した(1947年当時のパレスチナ)地図 *1 を補足するものとして、その後の「パレスチナにおけるイスラエル側の占領地・入植地の拡大, その変遷」を表わす地図、*3イスラエルが「ナクバ」の歴史的事実を隠蔽してきたことに関する Haaretz (イスラエルのメディア) の記事、さらに *4, *5, *6, *7 も本章に関連する同じく Haaretz の記事(*7 に関してはイスラエル「建国」後のイスラエル領内のアラブ人 = パレスチナ人たちに対する弾圧とその隠蔽に関する 2021年1月9日付の記事)。*8 以降は本章に関連する筆者の過去の note へのリンク。

また, 本章の見出し「2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇 『ナクバ』 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年『建国』)支援のもとで」の後半部すなわち副題的に添えた「アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル(1948年『建国』)支援のもとで」に関しては、以下 *8-2), *9, *10, *11 などに詳述。

*2 パレスチナにおけるイスラエル側の占領地・入植地の拡大, その変遷

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右端の "Present" は2年程前, この間にイスラエル・ユダヤ人による国際法違反の占領地(西岸地区)内・違法入植地はさらに増えている。

*3 「ナクバ」を埋める: イスラエルはいかにして体系的に・組織ぐるみで・手際よく、1948年のアラブ人(パレスチナ人)追放に関する証拠を隠してきたのか

Haaretz, 2019年7月5日付の記事

*4 Haaretz, 2020年10月4日付の記事

記事のヘッド(見出し)にある Ben-Gurion (David Ben-Gurion) とは、1948年に パレスチナの地(本章のテキスト内でも言及した通り、パレスチナという名称は遥か昔の紀元前からあったが、この当時、直前 1920年から1948年までの正式名称は「委任統治領パレスチナ」, Mandatory Palestine もしくは「イギリス委任統治領パレスチナ」, British Mandate for Palestine で、その直前に関しては 16世紀以降の長い支配が続いた「オスマン帝国」の統治下にあった地域)の上に「建国」された「イスラエル」という名の新興国家の「建国の父」であり、初代イスラエル首相であった人のこと。

これも本章のテキスト内でも触れたが、当時の「パレスチナ」地域におけるユダヤ人の人口は、それ以前の数十年間にわたるシオニズムによる移民の(ナチス・ドイツによるホロコーストの影響をも受けた)結果としての急激な人口増加の経緯があっても、依然として同地域に住むアラブ人 = 今いうところのパレスチナ人 = の人口の半分ほどに留まり、そうした歴史的経緯があったため土地所有率に至っては実に 8% にも届かなかったにもかかわらず、イスラエル「建国」前年の 1947年11月29日に当時まだ欧米諸国が支配的だった設立間もない国際連合の総会で採択された「国連パレスチナ分割」案は、その案において国連の信託統治下とするとしていたエルサレム市を除いて「パレスチナ」全域の土地の 56% をユダヤ人、つまりその案が新たに建設されるものと内定していた「イスラエル」という名の「新興国家」に与えるという、極めて不当・不公平・不公正な内容のものだった。

そして、その「イスラエル」という名の「新興国家」は、1948年5月14日の一方的な「建国宣言」(一方の当事者であるアラブ系、現在いうところのパレスチナ人たちの意思を無視したわけだから一方的、イスラエルはこれを「独立宣言」と呼ぶが、上にも書いたように、それ以前にそこにあったのはオスマン帝国の支配が終わった後のイギリス委任統治領パレスチナ = その人口の圧倒的多数はアラブ系、いま言うところのパレスチナ人 = であって、その地において当時「イスラエル」という名の国やあるいは名前は別としてもユダヤ人の国がイギリスの植民地下にあったというような事実は全く、文字通り全く無い)と第一次中東戦争の結果によって、パレスチナ地域において、前年1947年採択の「国連パレスチナ分割」案における不当・不公正・不公平な内容のものよりも 更に広い土地を得ることになった。

記事のヘッド(見出し): Even Ben-Gurion Thought ‘Most Jews Are Thieves’

本文の冒頭は 〜 The quote in the headline wasn’t uttered by an antisemitic leader, a Jew hater or a neo-Nazi. The words are those of the founder of the State of Israel (David Ben-Gurion), two months after it was founded (on May 14, 1948) ... ( ) は筆者が加筆(May 14, 1948 は "it was founded" の日として、上記のイスラエルの一方的な「建国宣言」の日を付した)。

*5 Haaretz, 2020年10月3日付の記事

*6 Haaretz, 2020年10月5日付の記事

*7 イスラエルが、イスラエル「建国」に伴って難民となって故郷を去る他なかったパレスチナ人たちだけでなく、イスラエル領内に残ったパレスチナ人たちに対しても、どれだけ酷い仕打ちをしたのかについての記事

記事のヘッドを丁寧に訳すならば、「イスラエルはその最初の数十年間において、いかにしてアラブ人(ここではイスラエル領内に住むアラブ人、彼らも当然ながら 1967年以降の被占領地に住むアラブ人やその他 イスラエル「建国」に伴いパレスチナの外の「世界」に離散した元パレスチナの住民であったアラブ人と同じく「パレスチナ人」ということになる)を肉体的・精神的にひどく苦しめ続けたのか 〜 そして いかにしてその事実を隠したのか」。

Haaretz, 2021年1月9日付の記事

*8 上掲テキストは、本 note 筆者の以下・以前の note 2点 に掲載した同趣旨の章のテキストに、より正確を期すため、イギリスの三枚舌外交に関する記述、また1948年イスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争終結から1967年のイスラエルによる侵攻・第三次中東戦争までの間のヨルダンによる東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の占領・併合と同期間のエジプトによるガザ地区の占領・統治も国際社会の殆どから承認されていなかった旨の記述部分などの加筆・編集をして、本 note 本章に掲載したもの。

1) イスラエルの高校生60人が兵役を拒否し、1948年イスラエル「建国」に伴うナクバ(7, 80万人のパレスチナ人が故郷を失う)に言及

2) 終わらないパレスチナ人の悲劇 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル支援のもとで

*9 アメリカのイスラエル愛 〜 バイデン政権になろうが変わらぬその愚かさ

*10 アメリカ合州国のお気の毒なまでに「一途な」イスラエル「愛」 〜 その度し難い非合理

*11 アメリカが加担し続けるイスラエルのパレスチナ人弾圧を止めさせようとして イスラエルに殺されたアメリカ人女性 Rachel Corrie

では 長い前説を終えて, 1983年9月28日からのパレスチナ/イスラエルの旅へ。

パレスチナ, 東エルサレム 〜 1983年9月29日(写真 7枚)

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4) 岩のドーム。イスラームの宗教が生まれてまだ間もない時期に当たる, 紀元7世紀後半期, 688年の着工。692年に完成。外部は大理石と瑠璃色のトルコ製タイルなどで装飾(1554年のオスマン帝国支配下の時代の貼り直し)。ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀の再建によるものだが, デザイン自体はほぼ創建当時のデザインを踏襲しているとのこと。

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6) ダマスカス門。エルサレム旧市街の複数ある城門のなかで最も美しいとされる門。城内のアラブ人地区のスーク(市場)の端にあたる。かつてはこの門から城外へ出る街道が(現在のシリアの首都)ダマスカスに通じていたということで, それが「ダマスカス門」の名前の由来。紀元2世紀のローマ時代の様式の名残を留めるということだが(パレスチナだけでなくシリアでもヨルダンでもそうだが, ローマ帝国に関係する建物・遺跡などが各地で見られる; やはりローマの栄華は相当なものだった), 筆者がこの写真を撮った1983年当時はもちろん, 現在も見られるこの姿は, オスマン帝国支配下の時代, 1537年に建造されたダマスカス門の姿。

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7) ダマスカス門の前を歩くパレスチナ人たち(右の奥に見えるのは欧米中心のツーリストたち)。

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さてさて, 次章は, 

パレスチナ/イスラエルの 3週間の旅, その最初の2日間の見聞録。

パレスチナ/イスラエル 〜 東エルサレム滞在, 1983年9月28・29日(旅日記より)

本章後段に写真で載せる1983年9月28日付の旅日記の冒頭部分に書かれている「パミッション」とは, 以下の note(ヨルダン, アンマンで パレスチナ難民キャンプを訪ねて 〜 アンマン 1983年9月19-23日)のなかで書いていた通りで,

同年9月21日, 滞在していたヨルダンの首都アンマンでヨルダンの Ministry of Interior, ヨルダン内務省に申請し, 翌22日に取得していたもの。この「パミッション」は, アンマンから陸路, ヨルダン川に向かい, イスラエルが1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号にも違反して軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区(前章で書いたように1948年のイスラエル「建国」前は イギリス委任統治領パレスチナの領内, その後はイスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争後1967年のイスラエルによる占領の前までは東エルサレムを含んでその地域をヨルダンが統治, ただし1967年6月以降のイスラエルによる占領同様, 20年近いヨルダンによる占領・統治・併合も国際社会のほとんどは承認しなかった)に行くことを, 事実上許可するヨルダン側の「パミッション」。当時のヨルダンは国としてイスラエルを承認しておらず(したがって外交関係なし; 因みにヨルダンとイスラエルの国交樹立は1994年), となるとイスラエルによる占領という実態とは異なり依然としてヨルダン川の向こう側つまり西岸地区もヨルダン領という建前が導かれ(元々それ自体, イスラエルによる占領同様, 国際社会の殆どが認めていなかったことだが), その建前の下, 当時のヨルダン政府は, 同国滞在中の外国人旅行者がアンマンからイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区に入ることを(手続きを経た上で)事実上 黙認していた。要するに, ヨルダン政府の許可を得てヨルダン川に向かい, 「ブリッジ」を渡ってヨルダン川西岸地区に入り, しかし一度入ってしまえば, イスラエルのスタンプがある以上, 当該外国人旅行者はヨルダンには戻れないという, 事実上の一方通行・片道のみの越境「許可」。入ればそこはイスラエルによる違法軍事占領地となっていて, "Welcome to Israel" のプロパガンダ看板が旅人を迎えるという構図(で, イスラエルに占領されているのは, 西岸地区のパレスチナ人の土地なのだが)。

さて, ヨルダンではアンマンに滞在(上掲 note)した後, アカバ(からは西隣りの都市であるイスラエル領エイラートが見え, ボーダーに向かって歩いてみた)とペトラ(古代都市の遺跡)を旅し, ペトラからアンマンに戻って, 

1983年9月28日の早朝, アンマンを発って, いよいよパレスチナ/イスラエルの旅を始めることになった。

ヨルダン川を渡る手前, ヨルダン政府側の役人にパスポートとパミッションを見せ, 幅4-5m程度のヨルダン川を渡って, 西岸地区に入ると, そこで直ぐに視界に入るのが, 1967年6月の軍事侵攻以来 同年11月の国連安保理決議242号を含む複数の安保理決議に違反しながら同地区の軍事占領を続けるイスラエル側の「ボーダー」管理事務所に掲示された, "Welcome to Israel" という恥知らずなプロパガンダのメッセージ。

手続きや所持金・荷物検査, 両替など終え, タクシーでエルサレムへ。

 エルサレムまでの間, よくソルジャーを見た。

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「師匠」(はニックネーム)というのは, シリア・ダマスカス note から時々, 言及していた日本人のバックパッカーでカメラマン。トルコ・イスタンブールで同宿。その後, ダマスカス滞在中にばったり会い, そこから次の滞在国ヨルダン, さらにパレスチナ/イスラエルの旅の途中まで同行していた旅人。

嘆きの壁。

壁には 男女の礼拝を区切る仕切り(あみ)あり。

元祖アブラハムの宗教であるユダヤ教も, その延長上のアブラハムの宗教イスラームと同じく, 礼拝は男女別, 神の前でみな平等とかいっても, とにかく男女別なのかね。 

アル=アクサー・モスクと岩のドームについては, 「午前中のみということで」その日は「入れなかった」。

しかし 中には ソルジャーが ずいぶんと見えた。

以下の旅日記からの引用は, 上掲の前頁の終わりから, 下掲の次頁の初めにかけて。

アルメニア地区とクリスチャン地区の中間あたりで, 小さな店でジュースを飲んだ。店の主人はギリシア人。

以下の旅日記にある通り, このギリシャ人の店主から興味深い話を聞いた。エルサレム旧市街(東エルサレムにある)には様々な民族や宗教の地区がある。当然ながらアラブ(パレスチナ人)が大勢住む, あるいは店を構える地区も。いろいろと歩いてから, いったん宿に戻った。 

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「ホリさん」とは, ギリシャ・アテネに滞在していた時に知り合い, その後, トルコ・イスタンブールの宿で同宿となり再会, ヨルダンを旅してる間も再会した日本人バックパッカー。旅の後, 帰国してからも親しくお付き合いさせていただいている, 3歳年上の人生の先輩。

その後, 「師匠」「ホリさん」と共に, 「聖墳墓教会」や「ゴルゴダの丘」など歩いた後, 店に入ってシャイを飲む。

店の若いパレスチナ人, イスラエル・ファッキングと叫んだり, 前を歩くユダヤ教徒(正装してる)に向かって くしゃみにかこつけて ファッキング と言ったり。相当ふてくされてるフンイキ。オレたちにはフレンドリーだった。

まぁしかし, 彼の気持ちがどんなであるか, 想像に難くない。

旅日記の次頁で一箇所 青塗りにして名前をカヴァーしたのは, ギリシャ・アテネ滞在時に知り合った, パレスチナ支援の市民団体の日本人。パレスチナ問題に詳しく, いろいろと当時の最新情報など教えていただいたが, アテネを発って以降は連絡が取れておらず, またここはニックネームでもなく本名なので, 名前は伏せることにした。

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上掲の頁の左下にある「イスタン」はイスタンブールのこと。パレスチナ/イスラエルの旅の後, イスラエルによる軍事占領下の(パレスチナ人の土地である)ガザ地区から陸路, エジプトに行き, その後, カイロから飛行機で(再び)トルコ・イスタンブールに行く予定にしていたので, その関係の備忘メモ。

48年からのパレスチナ人は(つまり WEST BANK 外)はイスラエルのパスポート持ってるとのことです。

助詞「は」がダブった。ここは正確に書くと「WEST BANK とガザ地区以外の地域」(WEST BANKは 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区のこと), つまり1948年の「建国」以来 1967年6月以前までイスラエルが統治していた範囲, 言わば「48イスラエル」。イスラエル「建国」に伴って全パレスチナ人が難民化したわけではないので, その「48イスラエル」域内にも同域内では少数派ながらアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が居住している。

みやげもの屋に おもしろい Tシャツのためのプリントあった。ベギンとサダトが にやついて 2本のストローで 1本のコカコーラのんでるところ。皮肉ですね。

ベギンとサダトはもちろん, イスラエルとエジプトの国交樹立時(1979年)のイスラエル首相とエジプト大統領。

旅日記, 次の頁からの引用。

GIVE PEACE A CHANCE の英語 ヘブライ語 併記のプリントもあり。占領してから 平和に機会を与えよ とは何か!? 売ってるのが パレスチナ人だったりして これも皮肉。

GIVE PEACE A CHANCE は ジョン・レノンの歌のタイトル, そのまんまかな。

引き続き, 旅日記の次頁, 「ケトー」とは完全に "放送禁止" レベルの差別語。日本人を Jap と呼ぶのと同類。まぁもともと公開を前提にしてない旅日記の殴り書きメモの中の表記で実際は蔑視など勿論ないのだが, パレスチナ問題が生まれたことの大きな原因と責任の問題は特にイスラエル「建国」前はイギリス並びにヨーロッパの歴史の中にあり, それ以降はアメリカ合州国の対「中東」外交政策にある。エルサレム旧市街を闊歩しているかに映った欧米のツーリストたちになんとなく苛立ちなり不快感なりを一時的に抱いて, こんなことを書いたんだろうと, 38年前, 23歳当時の自分の気分を推測。

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ソルジャー 聞いてたとおり, 銃をせおってない。横にして 持ってますね。

向こう 1週間余 程度のプランを思案してた時のメモ。

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続いて, 1983年9月29日 の旅日記。

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ユダヤ人の「嘆きの壁」。

老人もいる。彼らの若いころは大へんだったろう。ユダヤ人は やっと安住の地をつかんだ。パレスチナ人を追い出して。

他民族を犠牲にして手に入れた「安住の地」とは。

パレスチナ人(にはクリスチャンも, そして無神論者もいるが, 多数派の)ムスリムはじめ全世界のイスラーム教徒にとって聖なる「アクサモスク」(アル=アクサー・モスク), そして「岩のドーム」。

岩のドームは 全くすばらしい。カテドラルが美しい。ドームの裏側は黄金の模様。真中に ムハンマドが昇天した岩。

2文目の「カテドラル」は何か誤って旅日記に書いたもよう。外部の大理石や瑠璃色のトルコ製タイルなどの装飾について書く時にうっかり言葉を間違えたかも。最後の文はしっかり正確に書くと, 「ムハンマドが昇天したと信じられている岩」。本 note 筆者は全くの無宗教・無神論者。したがって, 全く信じないので。

それはともかく,

入口を 1つにしぼってることと合せ, イスラエルは 相当 神経質になってるようだ。

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再び ユダヤ人側。

老人の若い頃を考えると 正直言って ジーンとくる。

しかし, それでも, 彼らの「安住の地」は他民族の犠牲の上に成り立っている。土地を奪われ, 抑圧された側は抵抗する(そもそもパレスチナ人の側には, ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別や20世紀のナチス・ドイツによるホロコーストなどに関する責任など全くない, 当たり前のことだが)。当然, パレスチナ人の側には抵抗する権利がある。一方のパレスチナ人が土地を奪われ, 基本的人権を蔑ろにされるこの状況が続く限り, 結局ここはユダヤ人・イスラエル人の「安住の地」にはなり得ないだろう。

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キリスト教徒の地区に足を運ぶ。聖墳墓教会のなかで,

パレスチナ人母子(母さんは民族衣装, 子どもは3~4人いた)が 牧師に追い払われてた。なぜだろう。彼らはきれいな身なりだったし。いい気しなかった。彼らはクリスチャンだったと思うし, たとえそうでなくとも ...... ! 

上にも書いたが, パレスチナ人は多数派はムスリムだが, 彼らの中にはクリスチャンもわりといる。土地柄あってか, レバノン以外のアラブ諸国と比べて, クリスチャンの比率は相対的に高いと思う。因みに筆者が理解する限り, エルサレムやベツレヘムなどのクリスチャンたち(多くはパレスチナ人)は, 当然と言えば当然のことだが, 基本的にイスラエルによる支配に対して批判的。

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途中 ガキにからかわれて もめごと。アラブ(つまりパレスチナ人)のおじさんが なだめてくれた, 我々を。いい人だった。あの子らは アラブかユダヤか とためしにきくと, 彼は it doesn't matter と言った。子どもらは アラブ人(つまりパレスチナ人)だとのこと。

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「アラファト」はもちろん(2021年の)今は亡き, 元PLO議長ヤーセル・アラファート, 「ハバシュ」は同じく今は亡き 元PFLP議長ジョージ・ハバシュ, 「カナファーニ」は『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などで知られる同じく今は亡きパレスチナ人作家で PFLPスポークスマンだったガッサン・カナファーニー(1972年にイスラエルにより暗殺された), そして「ライラ・カリド」は2021年今現在 健在のパレスチナ民族評議会員で元PFLP活動家ライラ・カリドのこと(ハイジャック闘争で名を馳せた元PFLP「女性闘士」)。「ゲバラ」はもちろん, あのアルゼンチン出身でキューバ革命の立役者, 故エルネスト・チェ・ゲバラ。

次頁の旅日記の最初の4行あたりに関しては, 

の第5章 「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日 も参照。

当然ながら, いろいろな考え方がある(いずれにしてもこれは 1983年9月当時のこと, あれから38年経過し, パレスチナ人だけでなく時にイスラエル人・ユダヤ人も巻き込みつつ, 議論は進んでいる; 上掲 note にて最近の動向も紹介)。

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思い出し記。
アルメニア人の商店主にきいたこと。アルメニア人は 500万人がロシア(アルメニア共和国), 100万がアメリカ, 100万がヨーロッパと中東。彼はいいかんじの人だった。

時代は変わったなぁと(既にかなり以前に)。つまり, ここに書いてる「ロシア」は(1983年9月現在の)当時の国の体制でいうと勿論, ソ連のこと。

以下は, パレスチナ/イスラエルにおけるこの後の旅についての当時の思案メモ。最終的には, 1967年以降のイスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下の東エルサレム含むヨルダン川西岸地区, そして「48イスラエル」(1967年6月イスラエル軍事侵攻の前の1948年「建国」以降のイスラエル領), さらにやはり1967年以降のイスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下のガザ地区を, 計 3週間かけて旅し, 1983年10月18日にガザ地区を発って, 陸路, 次の滞在国エジプトに向かった。

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さてさて, 

最後はいつもの通り, 音楽による note 締め ♫

"Border Ctrl." and "Dabke System"♫ 〜 Palestinian Jordanian electronic music group, 47Soul

note の締め括りは例によって音楽。パレスチナ系ヨルダン人の若者たちによるエレクトロ系音楽のバンド 47Soul, 彼らが昨年リリースしたアルバムから 2曲, "Border Ctrl." と 以下 *2 の記事にも出てくる “Dabke System" を ♫

このアルバムのタイトルは "Semitics", これはなかなかに興味深いアルバムのネイミングである。イスラエル一辺倒でパレスチナ人たちの苦難に目を向けようとしないイスラエル「徹頭徹尾」支持者たちは, イスラエルに対する批判に対して闇雲に 'anti-Semitic' とのレッテルを貼り「反ユダヤ主義」だと決め付ける, そしてそれによってイスラエル批判者を沈黙させようとする傾向が強いが(誤ったレッテル貼りによる極めて不当な言論封殺, *1), 実のところ, アラビア語もヘブライ語と同様に Semitic languages の一つであって, 当然ながら, アラビア語を話しあの地域に住み続けてきたパレスチナ人たちも歴とした Semitic peoples に含まれるわけだから。

*1 イスラエル批判、反シオニズム、BDS を 「反ユダヤ主義」 と見做す思考の、度し難い愚かさ

(2020年12月4日 note)

*2 47Soul Brings Palestinian Voices Back Into The Conversation With New Album, ‘Semitics’ 

(Sep 17, 2020)

.. ♫ ♫ ♫ ...

Border Ctrl. 

この曲では パレスチナ系イギリス人の女性ヒップホップ歌手で MC, ラッパーの Shadia Mansour, そして 同じく女性でロンドンをベースに活動しているドイツ人とチリ人を両親に持つ MC, ラッパー, 詩人でもある Fedzilla が フィーチャーされている。

以下, 英語/スペイン語とアラビア語による歌詞も掲載。アラビア語部分の英訳はもしかしたら既にネット上のいずれかの歌詞サイトにでも掲載されているかもしれないが, 筆者は現時点では未確認。

ダブケ Dabke と呼ばれる、パレスチナを含む中東地域に古くから伝わるアラブの舞踊, そのダンス, リズム, ステップが使われていて, 英米のロック等だけに馴染んできた耳には極めてユニークに聞こえるのではないかと思う。

自分自身はダブケについては以前からある程度知っていて何度も観たことがあるし, 機会があってほんの少しだけ練習したこともある。しかしアラブの音楽自体に馴染みがない, あるいはそういったものに全く接したことがなかった人でも, 音楽好きの人, とりわけ「ワールド・ミュージック」と呼ばれるジャンルなど好きな人であれば, わりとすぐに聴き慣れ, 気に入る人も多いのでは。

Lyrics:

دقدق ع المجوز و دقدقنا
ما ضل حدى الا تسلقنا
تقلقنا تنعرف مين إحنا
و احنا مفرقنا الي مانحنا

و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية

يابا طلبوا طلبواالهوية

إجا يرمح و يقنعنا بصفقة
وانا واقف و بتصدى الصفعة
يا شعبي سمعني الصفقة
ولا تفتح و لا تقلب صفحة

و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبوا الهوية

This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all

we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call

هذا الصف كراهيتهم
صف همجيتهم
صف بشاعتهم
يصف إستقبال يوسف إذا جاء
بوصل على باب مغلق
بنوا اقفاص للاطفال لإثبات إنسانيتهم
لو بشوف الجمل حردبته بيوقع وبفك رقبته
بإختصار مش احنا عبرنا الحدود لا
يابا بلعكس الحدود عبرتنا
من غزة الضفة القدس للمكسيك، حنسقط
جدار الخرساني ونبني محله جدار بشري

This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all

we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call

Bienvenido a la fila,
que definirá tu vida
Que separa tu pasado de un futuro sin hawiyya
Condenado sin la visa, esta línea no se pisa,
Dicen jueces arbitrarios con razones imprecisas

و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبواالهوية

Documento estampado, permiso rechazado
Juntos enfrentamos injusticias del Estado
Palestino Latino Andino no será callado
Palestino Latino Andino no será callado

و تفضل على الصف
الكل يتفضل على الصف
هاي طلبوا الهوية
يابا طلبوا طلبوا الهوية

This border control
Congesting our soul
Taking its toll on us all

we gonna dissolve
this Mexico Bethlehem wall
If you hear us heed the call

Dabke System

Dabke とは上にも書いた通り, パレスチナを含む中東地域に古くから伝わるアラブの舞踊の名前で, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区においても, ガザ地区においても, 今も多くのパレスチナ人の若者に親しまれている伝統的なダンスのこと。

47Soul は, Dabke のダンス, リズム, ステップを 彼らのエレクトロ系の音楽に巧みに使って, 現代風にアレンジしている。

Lyrics:

Turn up the sound of the galilee loud
you hear it now stomp on the ground

Dabke system we coming to town
Pick up your keys at the lost and found

Hold on Look what we Created
Refugee overseas still I’m a Native
Call back the kids to remain
Don’t Question the land she tell you her name

رسالة ما بعثتلي ، رسالة ما بعتلك
رسالة ما بعثتلي ما بعثتلي ما بعثتلك
رسالة ما بعثتلي ، رسالة ما بعتلك
وهسا جايي تلمني وانا من قبلا ياما حذرتك
لا بكتبي ولا بكتبك
لا بشرعي ولا بشرعك
دخلك هالحتشي كله
بيرضى فية ربي ولا ربك؟

يا منوقع تحت ...تحت ...تحت ..
يا منطلع فوق ... فوق ... فوق

احنا جسد واحد ..احنا نفس العصب ..
مرة فلقوا الأرض .. مرة اكلنا العصا ..
هاد الحل لاقوا غيره اعلنوا النفير
في الأرض سيروا ..مش مستاهلة سفير

مش شغلي آجي أغير صورة نمطية
بنقش فكرة بيتي فراسك زي النبطية
اليمن سعيد يمن بلوز ديزيرت فنكي صوتو
دانس مونكي مونكي دانس مونكي

يا منوقع تحت ...تحت ...تحت ..
يا منعلى فوق .. فوق .. فوق
بس إحنا ولاد بلد.. ولاد شتات … ناس زوء
مالنا رسالة من الي بتحكي انت فيه بنوب

فيا منوقع تحت منضل في الوحل
او مننجن منهنج الجهل .. بس لأ
شوية روق حجاب الحلم مخزوق
ضلك معنا سوق منضلنا نطلع فوق …

يا منوقع تحت ...تحت ...تحت ..
يا منطلع فوق ... فوق ... فوق

Turn up the sound of the galilee loud
you hear it now stomp on the ground

Dabke system we coming to town
Pick up your keys at the lost and found

Not clear run back the tape
Everyone claiming that they got the label
Too cool no fuelling the flame
Don’t Question the land she tell you her name

رسالة ما بعثتلي ، رسالة ما بعتلك
رسالة ما بعثتلي ما بعثتلي ما بعثتلك
رسالة ما بعثتلي ، رسالة ما بعتلك
وهسا جايي تلمني وانا من قبلا ياما حذرتك
لا بكتبي ولا بكتبك
لا بشرعي ولا بشرعك
دخلك هالحتشي كله
بيرضى فية ربي ولا ربك؟

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