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僕は薄っぺらい

 今日、Amazon プライムビデオで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 」を観た。1969年5月13日、東大駒場キャンパスの900番教室での、東大全共闘率いる1000人を超える学生と三島由紀夫の討論を、当事者たちにインタビューを行う形でまとめたドキュメンタリー番組である。
 約1時間50分のそのドキュメンタリー番組を観て思ったのは一言、「何を言ってるのかさっぱり分からない」だった。全然話についていけなかった 。この時代はサルトル がブームだったということもあり、人とは何か、物とは何かという、いわゆる哲学のような話がこの討論では終始展開されていたように思う。僕は哲学をあまり学んでこなかった。哲学の本も、読んだのはデカルトの方法序説くらい(「序説」なのでかなり短い)。サルトルの本なんて読んだことない。そんな人間が、安田講堂を占拠したことについて、空間の創造だの、時間の持続だのという議論をされても理解できないのは当然だ。彼らと僕は文字通り「次元」が違った。動物が人間の言葉を理解できないのと同じように、僕もまた彼らの言葉を理解できなかった。彼らは、安田講堂を占拠したという「行動の事実」を「人間の原初の形」、「人の本来のあり方」にまで落とし込んで話していたのだ。しかも当たり前のように。あの厚みはなんだろう。あの時代に僕も生きていたら分かるのだろうか。あの厚みになれたのだろうか。はたまた今の時代でもあの厚みのある人間になれるのだろうか。
 僕が理解できない次元にいる人を見ると、とても嬉しくなる。全部理解できてしまったら世の中面白くない。そして、あの次元を目指そうと思える。この向上心だけは持ち得ている。
 彼らが生きた時代を僕もこの目でみたいと思った。できれば動画ではなくて、この目で彼らの目を見て、この耳で話を聞き、この舌で彼らが食べているものを食べ、この鼻で時代の匂いを嗅ぎ、この手で実際に触れてみたい。あの熱気を直に感じてみたい。あの熱気は今の若者にはない。明治大学教授の齋藤孝さんは著書「知的生活のすすめ」で、今の若い人たちのことを「整っている」と表した。教育者ならではの適切な表現だと思った。「今の若者はダメだ」などと揶揄するわけではなく、かといって過大評価する表現でもない。非常に腹落ちする言い回しだと思った。もちろん整うことは良いことなのだが、それが行き過ぎると整理したものを壊したくなる、ぐちゃぐちゃにしたくなるのが衝動というものではないか。そして、その衝動の波が少しづつ、若者の間で起きている気がする。
 今の時代の若者にも、「熱」というものは内在的に備わっていると思う。内側にあるので見えないだけだ。村上春樹の著書「ノルウェーの森」では、1960年代の学生運動が制圧されると、次学期からは学生運動を主導した者たちも普通に講義を受けていたと言う。これはかなり不思議な現象だと言える。(もちろん小説の中の話なので、事実とは違うかもしれないが、多くの人がこれに共感したのではないか)つまり、学生運動に意味なんてなかったのではないか。戦争で負け、自己が生きる意味を失い、自分の中にある「熱」の放出先がなくなってしまった。その熱を逃がすためにしかたがなく学生運動をしたのではないかと思う。ただ、今の若者にはその熱を放出しようにも、良くも悪くも多様化が進んでしまったせいで、みんなが違う方向を向いているため、力が大きくならない。自己の中で止まってしまっている。そしてその「熱」にすら外部からの刺激がないので気付けないでいる。心への刺激を獲得するには自ら求めにいかなくてはならない。昔は、その刺激が生きてるだけで、外部から心に刺さってきた。
 昔に戻りたいわけじゃない。ただ、浮いてしまっている気がするのだ。共感してくれる人がいたら嬉しい。そんな人がいたら是非話がしてみたい。

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