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そちらの日本語の方、マナー違反の形になりますがよろしかったでしょうか

 昨年の4月、会社でマナー講習というものを受けさせられた。いわゆるマナー講師と呼ばれる人が来て、一通りのことを教えてくれた。まずマナー講師が実在することに驚いた。インターネットが生み出した仮想敵みたいなものだと思っていた。私の聞き違いでなければ最初に「脳にマナーを刷り込んでいきましょう」と言っていて怖かった。
 講習の中で、正しい日本語を使いましょうという話があったのだが、その例として出てくる「間違った日本語」が個人的に興味深かった。使いたくなる気持ちもわかるものだったからだ。挙がったものは4つある。それぞれについて、新明解国語辞典を手掛かりに規範的な語義を示したうえで、なぜそのような用法が広まったのか、私なりになるべく好意的に理解してみようと思う。


①「形」


 「いったん会員登録していただく形になります」とか「こちらで指定させていただく形なんですけど」の「形」だ。辞書を引くと以下のように解説されている。

(二)物事の表に現われている様子。「形の上では/欠勤の形〔=表向きは欠勤という体裁〕 を取る/わびを入れた形〔=という体裁〕だ」

新明解国語辞典 第七版

 これを好意的にとらえるとどうなるか。私見だが、中身の議論に立ち入らない姿勢が慎み深い。「いったん会員登録していただく形になります」は「会員になったからと言って、別にあなたに何らかの義務が発生するわけではないです。無料ですし、常連として通わなくてもいいです」を含意する。「こちらで指定させていただく形なんですけど」は「でも本当はあなたの自己決定を尊重したいと思っているし、その可能性が微塵でもあれば自由意志発動チャンスをあげたい」というニュアンスを付与する。本音と建前の使い分けと言ってもいい。ここには「あなたや私の本音は置いておいて、社内の決まり的にそうなっている」という留保がある。この留保を留保たらしめているのが、「形」という言葉である。だから目くじらを立てるような誤用ではない。

②「よろしかったでしょうか」


 サンドウィッチマンの名作コントに登場する「ご注文、バナナシェイクでよろしかったでしょうか」の「よろしかったでしょうか」である。問題は「た」にある。断じて「バナナ」の発音ではない。「た」は過去のことを表すときに使うからおかしい、というのがマナー講師の主張である。本当か。助動詞の「た」を辞書で引くと以下のように書いてある。

(一)その事柄がすでに実現し、結果が現われているものと認められる(見なす)という主体の判断を表わす。「きのう雨が降った/新聞はもう読んだ/この辺は昔は寂しかったろう/私がやったら出来なかった/今度会った時に話そう/済まなかったね〔=本当に済まないね〕/あしたは月曜だったっけ/帽子をかぶった〔=かぶっている〕人/絵にかいた〔=かいてある〕ような景色」

新明解国語辞典 第七版

 どこにも過去とは書いていない。そして注目すべき用例は「今度会った時に話そう」「あしたは月曜だったっけ」の二つである。いずれも「今度」「あした」と未来のことを「た」で受けている。この点について辞書はちゃんと解説している。

「今度の企画会議は明後日の三時からだったね」「今日は夜、木村君と会う約束があったな」などの「た」は文脈から明らかに未来に関する事柄を表わすのに用いられている。この種の「た」は実現していない事柄であっても(恣意的な変更の許されない)確定的だと判断されることを表わしており、多く、既成の事実だと思われていることを確認する意を含意する表現に用いられる。

新明解国語辞典 第七版

 また「よし、これで勝った」や「そこにいては邪魔だ。どいた、どいた」「用のない者は帰った、帰った」などの「た」についても同様の解釈を指摘している。

 マナー分野における私の分析を述べよう。「よろしかったでしょうか」の「た」は、相手の発言を既成事実とすることで、相手が追認するのに必要な精神的エネルギーの消費を抑えさせてあげる、あるいは相手の発言を一発で聞き取っているということを無意識にアピールするなどの効果がある。では擁護したいかというと、個人的にはしたくない。厚かましいからだ。私は「よろしかったでしょうか」を言われると、「いえ違います」と訂正・変更できなくなる。なんか申し訳ないから。相手が想定しているペースをかき乱してしまうような気がする。それはまさに「た」が持つ「恣意的な変更の許されない」ニュアンスに他ならない。ただこれはあくまで私の性格に起因する問題であって、日本語としてはこれまた目くじらを立てるほどではないという評価になる。

③「方」


 「ご注文の方繰り返します」の「方」。これは二つの語義にまたがる。

[一](二)大体その方向に当たる所。〔直接指すのを避けた言い方に用いる〕「中野の方に住む/日銀の方に勤めている/方面・遠方(ポウ)・先方(ポウ)」
(三)物を幾つかに分け(て考え)た場合に、条件に合うものとして選ばれた一つ。「もう一つの方が大きい/先に着いた方が勝ちだ/好きな方を取れ/食べる方〔=ことに関して〕では負けない」

新明解国語辞典 第七版

 さらに項目の最後に以下のような解説がある。

[運用][一](三)の意で、例えば、料理店の卓上にいくつか皿が並んでいる場面で、「空いたお皿のほうお下げします」と用いられるのには違和感を感じないが、一枚しかない(それしか選択の余地がない)のにそう言われるのは、「方(ホウ) [一](二)」の乱用だとされる。「お代金のほう一万円になります/以上でご注文のほうはよろしいでしょうか」なども同様の例。

新明解国語辞典 第七版

 余談だが、「違和感を感じる」って辞書の解説で使うんだなと驚いた。「違和感」を新明解で引くと用例は「~を与える」「~を覚える」「~を受ける」「~がある」しか載っていない。別にそしるほどの話ではないが、同じ漢字(「感」)が続くのは避けたい。

 余談はさておき、「方」についてあくまで「乱用」と表現するにとどめており、誤用とは言っていない。しいて乱用者の肩を持つならば、具体的な言動を「方」で受けてちょっと距離を取っているのが奥ゆかしい。たとえばあなたがSM趣味を有していたとして、趣味を尋ねられれば「趣味はSMプレイの方を少々……」と言うだろう。決して「趣味はSMプレイをたしなんでいます」とは言わないはずだ。同様に、お客様を神様とするある種の業態の店員にとって、代金とか注文とかの俗事にはっきり言及するのははばかられるのだろう。

④「になります」


 「こちらご注文のお品物になります」の「になります」なのだが、これは事情が違う。明確に誤用だ。敬語ではない。「お代金のほう一万円になります」(上記③の[運用]の引用箇所の用例)の「なります」を「です」のさらに敬意高いバージョンと勘違いしているのだ。たしかに「になります」が高めの敬意を表す用法はある。でもそれは動詞の連用形と合わさって「お~になる」の場合だ。

(四)〔「お+動詞連用形+になる/ご…になる」の形で〕立場の上の人の動作を述べることを表わす〔=尊敬表現〕。「先生がお帰りになる/ご覧になりますか」

新明解国語辞典 第七版

 「全部で1万円になります」の「なります」は「及ぶ」と同義である。「なる」自体に敬意はない。「なる」と言われた時に真っ先に思い浮かぶ語義だ。辞書は以下のようにたっぷり用例を用意していた。

[三]〔「為(ナ)す」の自動形〕〈なにニ—〉(一)今までとは違った状態に変わる。「古くなる/水が湯になる/年ごろになる〔=達する〕/男になる/三時になる/全部で一万円になる〔=及ぶ〕/お金になる〔=金もうけが出来る〕/おもしろくなって来た/じれったくなる〔=感じられる〕/役人になる〔=身分が変わる〕/苦労が薬になる〔=…として役立つ〕/ためになる〔=有効である。直接役立つ〕」

新明解国語辞典 第七版

言葉とマナー


 マナー講師が問題視する日本語は、「になる」を除いて、語彙・文法的には辞書で定義されている域を出ない。でも私はマナー講師に反旗を翻したいわけではない。これらの用法はたしかにあまりよろしくはないのだ。「方」は新明解国語辞典の言葉を借りるなら「乱用」だ。「形」と「よろしかったでしょうか」も乱用されている。

 マナー違反とされる理由の核はここにある。つまり、特定の言い回しを使い回せば距離感を演出できる、ひいては敬意を表せると思っている、その浅ましさこそが減点対象なのだ。すぐに「今の時代はこういうのもセクハラになっちゃうんでしょ(笑)」とか抜かすジジイと一緒である。頭で理解していない規範をとりあえずインストールしてアリバイ作りをしている様は見るに堪えない。だから私は結論においてマナー講師と違わない。「形」や「方」の乱用はマナー違反であり、慎むべきである。でもそれは間違った日本語だからではない。

 ちなみにそのマナー講師は本筋と関係ない雑談の中で「短気で、卑屈で、胃に穴が4つ開いていたけど、マナー講師を始めてから順調」という旨のことを述べていた。この分析は物足りない。マナー講師という、短気で卑屈であることが肯定される身分になったととらえるのが正しい。私はその日一日、「講習」という名の救済の物語を見ていたのだ。

 「短気で卑屈」。この自己分析は、正しい日本語の本質を突いている。これがルールの思想である。卑屈になりつつ、他者にも卑屈であることを求め、それに応じない者がいたら、人の中身を見る前に軽蔑して排斥する。マナーやルールとはそうやって拡大再生産されるものである。

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