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[考察]自動化のカウンター
まったく無意識にやっていること。
心臓を動かす。
食べたものを消化する。
髪の毛を伸ばす。
これらのように、意識しようとしてもできないものもあれば、
息を吸って吐く。
ご飯を口に運ぶ。
自分の名前を書く。
このような、しようと思えば自分でコントロールできるものもある。
コントロール可能なものたちは、ふだんは自動化されているので、コントロールをしなくても勝手に稼働させておくこともできるし、あえてハンドルを握りコントロールすることもできる。
なんだか最近の車のようだ。
しかし車もそうだが、人間というのは本当にわがままな生き物で、このように自動化が進んでいけば行くほど、そうではなかった不便な頃に戻ろうとする。
深呼吸や瞑想、ヨガのように呼吸法を意識してみたくなるし、
ご飯を口に運ぶのも、あえて食器を使わず素手で食べてみたりしたくなるし、
自分の名前とまっすぐ向き合い直して一文字一文字を書道してみたくなったりする。
きっと自動化していくことによって、そういうものたちから無意識に受け取っていた「出来るという価値」が消えていってしまうのを惜しむからなのだろう。
伝統文化の喪失みたいな感覚にも近いのかもしれない。
せっかく築いてきたものへの執着。
こうしてみてみると、「自動化」とは前に進むことなのだけど、
見方を変えると、前に進むからこそそこには置き去りにされる過去が生まれてしまうということであり、
我々人間には、都合が良いのか悪いのか、そうして置き去りにした過去を「忘れていく」という機能がついているのだ。
そうした「自動化」による忘れ物を拾い集めて再度価値をつけ直すリサイクルショップみたいな行為のことを「ていねいな暮らし」とか「不便益」などと呼んでいるのかもしれない。
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