誰の声を聴いたのか?
自らの心情を直接的に吐露し、不安を訴えたライバー。それに対して支持の声と、いわゆる「RP剥がし」に対する批判とが混じり飛んでいます。あの配信で私たちは誰の声を聞いたのでしょうか。
わたし=ライバー
まずは配信タイトルの通り、あれはライバーとしての一つの顔である、とする捉え方です。VTuberが直面する現実の厳しさと、悩める魂への共感にうちふるえる、大変ナイーブなものの見方です。このように聴こえた方は、そのままの君でいて。
ここには、また別のメタな見方も存在します。以下の視点を引っくるめて、すべてRPであるという考えです。筆者は無限後退的な棚上げと断じて、これを無視します。公式はこの「全部ライバーのRP」という立場しか取りえないと思います。
わたし=「声優」あるいは中の人
「声優」としての待遇の悪さを、Twitterなどで書いてしまう騒動は、VTuber界隈で多く見受けられます。にじさんじにもいよいよ来たか…。
ライバーの存在とは切り離された、「わたし≠ライバー」のリアルな人間像。「ずっとあのテンションの奴がいたら頭オカシイ」それはその通り。でも、やるなら別枠でやってよね。と、比較的ドライなあたり口です。
わたし=魂
ここでは、ライバーと中の人の不可分な結合(またはその関係性自体)のことを、魂と言っています。批判している人の多くは、この捉え方をしたのではないでしょうか。
要するに、中の人がライバーを私物化して話をしとる、けしからん。極端な話、「〇〇はオフでも声が変わらない」などと言うのは、他のライバーの魂を人質にしているも同じ。あーけしからん。
この見方の方を悩ますのは、「わたし=ライバー」と「わたし≠ライバー」の二重性です。
本人はどう思っていたのか?
結局あれは、どの立場でモノを言っていたのでしょうか?。多分、本人の中でも定まっていなかったのです。それを社会は「幼さ」と呼びます。舞台裏的なトピックを話すのも、語り手が幼いなら恐ろしいと感じます。
突き詰めれば、批判されているのは、自らの立ち位置を明確にせず、信頼感がない状態でセンシティブな配信をしたため。その証拠は、見る人によって、一人称の意味がバラバラという、そのこと自体です。
一方で、受け手側の「幼さ」にも様々度合いがあるので、先に見たように多くの捉え方が生まれます。また、元から実態のないものにはバラバラの評価がつきます。時には、言い知れぬ不気味さや不快感を与えられてしまうこともあります。
箱が結論を出す
推しのRPを剥がされるのが怖い。内部から崩壊してしまう、という恐慌については、冷静になって待っていれば箱が答えを出してくれます。もし本当に危ないならコラボを避けられて孤立してゆくし、そうでないならコントロール出来ているということです。頼政*を信じろ。
おまけ (警句)
君もわれも、やがて身と魂が分かれよう
塚の上には一揃いの瓦が立とう
そしてまた、われらの骨が朽ちたころ
その土で新しい塚の瓦が焼かれよう
ルバイヤートより
注
* 源頼政は鵺退治に定評のある武士で、ここでは例の二期生ライバーのメタファー
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