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論語と算盤~第1章 処世と信条~

 論語と算盤、大河ドラマ「青天を衝け」の時期に流行った、渋沢栄一が書いた本です。渋沢栄一は民間と官僚、二つの職を経験して、二つとも大成功を納めた人物です。(私の知る限り、もう1人大成功した人物はDCMダイキの創業者・大亀孝裕氏です。一度お会いしたことがあるのですが、とても気さくな方で、笑顔で手を振ってくださったことを覚えています。)
 私も一公務員として、渋沢栄一にものすごく興味があり、本も持っています。なかなか内容も難しく、読み応えがあるのですが、頑張って読破しようと思います。

第一章 処世と信条

ソロバンは「論語」によってできている。「論語」もまた、ソロバンの働きによって、本当の経済活動と結びついてくる。だからこそ「論語」とソロバンは、とてもかけ離れているように見えて、実はとても近いものである

現代語訳 論語と算盤

 論語は、人としての道理や徳などを説いた本であり、商売の本質である利益の追求とは考えがかけ離れている、という考えが当時一般的でした。
 そこに白羽の矢を立てたのが渋沢栄一です。渋沢氏は、論語によって商売を成功させる、お金稼ぎは卑しいもの、という考えを真っ向から否定して、商売によって、人の生活や心を豊かにする、ということを証明してみせようとしました。
 公務員を退職する時に、同僚の玉乃世履(山口県岩国市出身。最高裁判所長官)に大いに反対を食らったそうですが、上記の理論で自分の意思を貫き通し、退職してしまいます。

士魂商才

現代語訳 論語と算盤

士魂商才は、和魂漢才から造語したもので、武士の魂と商売の才能、という意味です。
その両方を「論語」によって養える、というのが渋沢氏の考えです。

また、家康公の「神君遺訓」(前に記載した、家康公遺訓のこと)も論語の引用がされている、と渋沢氏は説きます。

争いは何があってもなくすべきものではなく、世の中を渡っていく上でもはなばた必要なものであると信ずるのである。

現代語訳 論語と算盤

 私はこの章の中でも、この文章が今の自分に最も刺さりました。今の自分には争うだけの気概があるのだろうか…、いやとてもじゃないが争いは避けたい、と思うタチの人間です。
 しかし、私も大学を出てから社会に10年以上身を置いています。言い争ったり、仲違いに陥ったりすることもザラにあります。要は争いごとを何度も経験してきました。
経験をした中で言えることは、争いはあるべき、ということです。
 もちろん、争いは自分は大嫌いです。言い争いも正直大嫌いです。できる限り人には幸せに生きていてほしいと願っています。顔をしかめて、人の愚痴を言うのは避けたい。
 しかし、渋沢氏のいうとおり、自分が「こうする!」という道を決めた以上は何があっても曲げるべきではないと思います。また、「こうする!」と決める機会というのはそうそう多くはないのかな、と思っています。
 渋沢氏の人生に置き換えると、渋沢氏は、若い時は明治維新の志士でした。討幕運動にも参加したりと、なかなかの過激派。しかし、平岡円四郎氏との出会いをきっかけに、幕府に仕える身となります。この時、渋沢氏は明日を生きるのに必死だった時期です。大きな決断ですが、逆に言えば、流れに身を任しても支障はない決断でしょう。
 私が思う最も大きな決断だったんだろうな、と思うのは官僚(公務員)を辞めた時。渋沢氏の仕事ぶりは周囲が認めるほどで、将来は大蔵大臣になるだろう、と言われていました。それにも関わらず、官僚を辞任し、目標にしていた民間の会社を設立するのです。
 これは、何の支えもなく、野に出るようなもの。ある意味博打に近い行動です。そんな渋沢氏の心にあったのが「論語」。論語を実践して、経営を成功させてやる!という気概でした。
 人は、出会いで人生が決まる。しかし、人生の大きな決断は人に委ねてはならない。誰に何を言われても自分の信じた道を行く時は行かなければいけない、ということでしょう。
 渋沢氏の顔は温厚さの中に、真剣さがある気がしています。それこそ、この人の前では嘘をつけないような面構えといいましょうか。
 私は、人との言い争いがとても苦手で、すぐ言い負けてしまう。ダメとわかっていても、引いてしまうのです。紛れもなく自分の弱さに尽きる、と思っています。争いはなければならない、そして、争いに勝つために気を引き締めなければならない。この言葉は、今の私にとても刺さりました。

論語と算盤、自分にとってなかなか難しいので音読をしながら読み進めています。
また、第二章を読み進めたら、noteを書こうと思います。

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