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実は映画『PERFECT DAYS』はミステリー!?

 映画『PERFECT DAYS』に感じた違和感の理由を考えていたら、ヴィム・ヴェンダース監督がしかけたかもしれない物が見えてきたので、みなさんにも話したくなりました。
 きっとこんな観かたをしている人は、ほとんどいないと思うので、あくまでも個人的な視点だと思って読んでいただければ幸いです。

○『実は、この映画はミステリーなのかもしれない』

 そう思ったのは、映画の途中で違和感を感じるところが所々にあって、あるときそれがふとつながって、『ああっ!』てなったのです。
 その流れを書いてみます。

 違和感(ハテナ?)を感じた箇所。

○アパートが異様に整頓されていること。

○ヒラヤマはルーティーンを頑なに守っていること。

○トイレの掃除に完璧をもとめていること。

○撮影して、現像した写真を、あっさりビリビリ破って捨てたこと。

○ときおりヒラヤマの夢のなかに、謎の映像が現れること。

○カセットテープをアヤに盗られたのに黙っていたこと。

○そのカセットテープを、アヤがいきなり返しに来て、ヒラヤマにキスして去ったこと。

○ママが男に抱きついているのを見てしまって、あわてて逃げ出して、遠くの橋の下まで行ったのに、そこにいきなりその男(友山)が現れたこと。

○友山といきなり影踏みをやろうと言い出したこと。

○妹に父親が弱っているので一度帰って来てと言われたのに拒否したこと。

○家出してきていた姪のニコが実家に帰ってしまったあとに、朝のルーティーンの缶コーヒーを二本買ったこと。

○最後に、一人で車を運転しながら、泣いたり微笑んだりしてたこと。

 以上が映画を観ながら、僕が『ん?』ってなったところです。
 なんで? となったわけです。

 映画を見ているときは、そう感じていても、どんどん進んでいくので、その理由を考えることはありませんでした。

 家に帰ってきて、違和感を感じた理由はなんだったんだろうと考えた時に、一つの仮説を思いつきました。

 もしかしてヒラヤマには障害を持っていて、幻想と現実の区別がつかない人物なのかもしれない。
 そう考えると、疑問をもった箇所がしっくりくるのです。

 異様に整頓された室内や、ルーティーンをかたくなに守る生活をしているというのも、人とのコミュニケーションを極端に避けているのも、そういう性質だからだ。
 トイレ掃除に完璧を求めていることも。
 木漏れ日の撮影にこだわっているのも、自分の見ている幻想が写真に写るのではと思っているから。

 幻影として見ているシーンは、アヤがカセットを返しにきてキスしてさるところ。スナックのママの元旦那がいきなり現れて、ママを頼むとヒラヤマに頼むところ。
 その二つのシーンは、あきらかに違和感がありました。

 一度しか会っていないアヤが、なぜヒラヤマにテープを返して、キスまでするのか?
 友山が川岸に現れるのが、あまりにも早すぎるし、ヒラヤマに都合のいいことばかりを話すのか?

 この二つのシーンが、ヒラヤマが自分に都合の良いように、幻想を見ているのだと仮定したら、するっとなっとくできるのです。
 ヒラヤマは現実で嫌なことがあると、自分の都合のいい幻想を見て、幸せな気持ちになるのだと。
 ここには、辛い現実の中でも、自分の視点しだいで、それを幸せに転換できるというメッセージもあるのかもしれません。

 その証拠が、ラスト近くの二つの違和感のあるシーンでした。
 ヒラヤマが、自動販売機で二つの缶コーヒーを買ったこと。
 運転をしながら、突然泣いたこと。
 これは、何を意味していたのでしょうか?

 ヒラヤマの幻想の中では、自分のかたわらにニコがまだいたのです。
 運転をしながら、それが自分の幻想でしかないことをヒラヤマは知っているので、思わず涙がこみあげてきたのだと。

 こう仮定して、映画を反芻していくと、あちこちにヒントが散りばめられているのがわかりました。

 冒頭でヒラヤマが最初に読んでいた本は、ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』でした。
 これは二つの物語が交錯する小説です。
 この意味するところは、この映画には二つの世界が交錯しているよと、監督が示唆していたのではないでしょうか。つまり現実と幻想の二つの世界です。

 二冊目の本、幸田文の『木』
 木々をめぐるエッセイです。
 幸田文の父は、やはり作家の幸田露伴です。
『樹木を愛でる心の養い、何よりの財産』というのは、幸田露伴の想いをついだものだと言うのがパンフに書かれてました。
 ヒラヤマの父との関係にもつながるものかもしれません。
 ヒラヤマは、実の父親には会わないと決めているのです。

 三冊目の本、パトリシア・ハイスミスの11の物語の中の『すっぽん』
 これは母親に殺意を抱く少年のお話です。
 母と軋轢を起こして家出してきた姪のニコの物語の比喩となっていました。
 そしてヒラヤマ自信の父親との関係にも重なるものかもしれません。

 以上が、僕がこの映画『PERFECT DAYS』が、ミステリー物だったと思った理由です。

 ヒラヤマの観た幻影というのは、映画作家が映画を作る前に自分の脳内で観ている空想の物語ともかぶります。
 ヴィム・ヴェンダースは『ベルリン天使の歌』で、ふつうの人には見えない天使を可視化することで、見えないものを観るということに意味を持たせました。

 この映画は、幻影を観ている者に、観客を同一化させるという、監督の密かな目的があったのではないかと、僕は推理したわけです。

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