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【あれから10年】地域とブランドについて。


皆さま、こんばんは。
(2021年3月11日の夜に書いているのでこんばんは、です。)

静岡県裾野市で小さな家具工場の3代目として働いている鈴木と申します。
ソファ専門D2Cブランド【MANUALgraph】を運営しながら、【一般社団法人 南富士山シティ】と言う、まちづくり団体を運営しています。


僕の人生にも、そして恐らく多くの皆さまの人生にも大きな影響を与えた東日本大震災から10年が経ちました。

あれから10年。
忘れちゃいけない事を忘れない為に今夜noteにしようと思いました。
よろしければ最後までお付き合い下さい。

石巻で出会った人々。

当時川崎に住み、都内の会社で働いていた僕は、社内にいた時に震災が起こりました。

その時の経験によって地元静岡に帰った経緯は、以前の記事に書いたので、もしご興味がございましたら是非お読み下さい。

2011年震災の直後に会社を辞め地元に帰り家業を継ぐ決意をして、会社を退職したのがその年のゴールデンウィーク直前。

このnoteには書かなかったのですが、GWに川崎のマンションを引き払い静岡に引っ越してすぐに、2週間ほど石巻市にボランティアに行きました。

ネットで調べて石巻市の大川地区の公民館に拠点を構える【RQボランティアセンター】に身を寄せ、毎日近くの海岸沿いの地域で瓦礫撤去の作業をしていました。

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その公民館は多くの小学生が津波で亡くなった大川小学校の近く。
そこへはお子さんを亡くしたご家族の方々が頻繁に通ってらっしゃっていて、お話をさせていただく機会がよくありました。

皆さん悲しみにふける中でも、ボランティアの段取りなど地域の活動を当然の様に真剣に取り組まれている姿は、このボランティアが終わったら地域での新しい生活が待っていた僕に、大きな影響を与えました。

ある意味ある部分自己を犠牲にしても、地域は皆で守るんだ、そして自分にできる事をするんだ、と言う姿勢を学ばせて頂きました。

新たに始まった地元での暮らし。

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地元に戻ると、震災の影響により非常に苦しい状況であった家業の立て直しの為必死になり働きました。
そして同時に、石巻で出会った人々から学んだ姿勢を実行しようと、地域の活動に積極的に参加をする様になりました。

勝手に出て行って勝手に帰ってきた僕を、地域の人々は暖かく迎え入れてくれ、自然と地域に対する思いと感謝の気持ちが醸成されていきました。

地域を代表するブランドを目指して。

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静岡に帰って3年目。
ようやく会社も多少軌道に乗り、さらなる成長を目指し自社の強みを活かす為、ソファ専門の自社ブランドMANUALgraphを立ち上げました。

ブランドを立ち上げた理由の一つに、地域を代表し発信するブランドになりたい。と言う思いがありました。

様々な地域活動を行う中で、

・この地域には富士山以外、人々を呼び込むコンテンツが少ない
・外から見て魅力的なモノやコトにみんな気づいていない、活かせていない
・裾野市の認知度が低い
・そして地域の人々はこの地域は大好きだけど、誇りと自信が足りない

と言う課題を自分なりに見つけました。

震災を通じて「こんな自分でも何かやれる事はある」と感じたこと。

東日本大震災の際、誰しもが

「自分にも何かやれる事がある」

と感じ行動した人が沢山いた様に記憶しています。

僕もそう思って被災地にボランティアに行きました。
そして石巻の人々との出会いから、

「こんな自分にも何かやれる事はある。」

と思い信じて、僕がやれる【モノづくり】を通じて地域に対して出来ることを少しずつ実行してきました。

あれから10年。ブランドを始めて8年。

これまでに多くのお客様が、MANUALgraphのソファをお買い求めに、この裾野市に訪れて下さいました。

でもまだまだ、あの頃目指した姿はほど遠く、地域を代表するブランドには全くなれていません。

「裾野市ってあのMANUALgraphの工場があるところだよね!」

と言って人々が認知し訪れてくれる、憧れのブランドになれる様まだまだこれから頑張ろうと思っています。

これからも、「こんな自分でも何か出来る事」を実践し、少しでも地域に恩返しが出来るよう頑張りたいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございました。

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