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「いささか」と、凄い小説のこと

さきほどの掌編小説の自己解説(反省)に少し書いたことなんですが・・・

小説を書き始めて思ったことがあります。読んでいるだけの時にはそんなに気づいていなかったのですが、書いていると、「説明がつかない」ことへの恐怖感みたいなのが出てきます。「この登場人物はどうしてこんなことを言ったのか」とか、全部説明しようとしてしまう。説明文として地の文に書いてるわけじゃなくても、なんか全部読んでたらわかるように書いてしまうんですよね。全てが計算し尽くされて書かれていて、それで面白い作品も当然あるわけだけど、私ごときがとても小さいスケールでつまんないアイデアでそれをやると、全部わっかが閉じられて全部塗りつぶされた、なんの余韻も残らないものになる、そんな気もするのです。

余韻。余白。もやもや。そういうものが残る小説を、ある時から好んできました。ミステリや歴史小説も好きなんですけど、ミステリでも全部説明のつくものよりは、恩田陸さんの作品みたいになんか余韻が残る方がよかったりします。

それに、人の行動って説明がつくことばかりじゃない気がします。私も、衝動的にやってしまってあとで言い訳をしているようなことがたくさんあります。感情的になったり、そんなこと忘れる?ってことを忘れてしまったり、こころが疲れて何も受け入れられなかったり。普段感じたことのない怒りに全身が包まれて言葉も無くなってしまったり。感情に支配されると、語彙なんか簡単に消えます。

特に恋愛が絡むと、あとから考えたら「なんであんなこと言った!!」と、赤面してもんどりうって後悔するようなことも多々やらかしますよね。普段の自分じゃ絶対やらないのに!的な。

そういう、「なんで?」って心の動きを、「なんで?」のまま、そのどろっとした感覚を提示したい。説明したくない。そんな気持ちが芽生えてきました。とても難しいことだと思っています。

小説を書き始めてから本を読むと、明らかに読み方が変わってきています。良くも悪くも、でしょうが、今は良い方に捉えています。気づかなかったことに気づけます。その「どろっとした」「説明のつかない」パートがどこなのか、読んでいて気付くようになってきました。その手法とかを説明できるわけではないのですが、「あ、ここは説明していないな」ということに気づくようになった、ということです。

最近は、短編集を続けて2つ読みました。

川上未映子さん大好きです。特に「すべて真夜中の恋人たち」が、生きづらい人たちの恋愛を描いていてとても好きです。

それはいいとしてこの短編集、短い中にもはっとする展開、でも異様な不条理な展開についても説明なんか何もしてないのにものすごく自分のなかに「落ちる」感覚があり、全編素晴らしかった。語彙がないのがもどかしい。表題作と「シャンデリア」が特に良かったです。

歌もとても好きです。(川上さんについては、語り出すと長くなります)

もう1作、村上春樹氏は私は短編集の方が好きだったりします。

(読んだのは単行本のほうでしたが)

「木野」という作品がすごかった。主人公が自分でも自覚してなかった自分のなかの「なにか」に迫られていくその感覚がすごかったです。それまで説明がついていた物語が、急に暗礁に乗り上げる感じがゾクゾクしました。

「独立器官」という作品にもあるのですが、それは文字通り「恋煩い」の物語なのですが、人には自分では説明のつかない「独立器官」があってそれが人を動かしていくんだ、というニュアンスのことが書かれていて、そうなんだよなあ、と、まさに自分が考えていたことだったので、しみじみと腑に落ちました。

そういう「何か」を書ける人になれたら、とてもいいんですけどね。

さて、タイトルの話。村上春樹さんの小説を読んでいると文体の感覚が伝染してしまいます。私だけかなあ。なんか、日常の思考回路でも「そんなふうにいささか思わないこともなかった」みたいな感じになってしまいます。わかるかなあこの感じ。

前は「やれやれ」が目についていましたが、最近は「いささか」が多いことに気づきました。

「君は僕にはいささか美しすぎたから」と僕は言った。

すごい「いささか」だなあ、と思いました。

まあ、今回感想を書いた小説はすごすぎて「いささか」どころじゃないんですが、ちょっとタイトルにしてみました。




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