宮沢賢治のウェルビーイングはどうだったのだろうか?

3/21にウェルビーイングの専門家である東京都市大学の坂倉杏介さんのお話を聞く機会に恵まれた。
坂倉さんの話はもちろんなのですが、その場がとても素晴らしかった。

ここ数年、さまざまなところで聞くウェルビーイング。

・これは一体、健康や福祉とどういう関係があるのか?
・・日本とアメリカで違いがあるのか。
・ウェルビーイングに影響する要因や構造は?
など、いくつか抱いていた問いを少し理解することができた。

3/10に南相馬で参加した、武井浩三さんの東洋と西洋の考え方とも通じるし、和田さんにお聞きした南相馬の起業家の特徴や生態系にも通じる内容だった。

そして、この12年の311や災害支援、ひいては(社会)課題解決という考え方の可能性と限界についても改めて考える機会になった。

文化的差異と幸福感については、こちらがとても学びになりました。

・「陰と陽」「個人と関係」「独立と協調」といった,いくつかの文化的幸福観にまつわる理論的枠組みが浮かび上がる。

・他文化で作成された幸福度指標のみを用いて比較を行い,その背後にある他文化の価値基準を目標と見誤り,幸福感の質的な差異・共通性に議論が踏み込むことがなければ,本来的な意味での幸福感の理解が困難になってしまう。

Japanese Psychological Review2012,Vol. 55, No. 1, 26-42文化的幸福観―― 文化心理学的知見と将来への展望 ――内田 由紀子・荻原祐二

「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
と書いた宮沢賢治のウェルビーイングは、世界全体が幸福ではないからそう述べているだろうから、個人としての幸福感は低そうだなと感じる。
しかし、その場その場の洞察や言語化など、社会だけではなく宮沢賢治自身、「イマここ」にフォーカスしてて、その感性は言うに及ばず、この振れ幅がとても大きいなーと感じる。

そして、この言葉こそもしかすると、日本的な幸福感の本質を表しているのかもしれない。

いずれにせよ、個人も社会もどちらも重要で、社会のために自己犠牲が過ぎるのも問題で、かつ個人ばかりで社会も考えないのも問題。

社会的な仕事につく人ほど、社会の課題や歪みへの接点があり、そうでない方に比べ結果的に、バランスを崩しやすいのではないだろうか。

だからこそ、自分の好きなことや楽しいことをすることが大切であり、社会性を内包していればそれは、いずれ誰かと繋がり社会を形成または社会に届いていく。

楽しむことに罪悪感を持つ必要はない。どんどん、楽しんでいけば良い。好きなことをして良い。

とは言っても何をしていいか分からないという方は、子供と遊ぶと良いと思います。それも難しいや遊べる子供がいない方は、ぜひ我が家に遊びに来てくださいww

子供の楽しむ力と問う力は天才だ。
どんな時でも遊ぶことや楽しむこと、好きなことを全身で考え行っています。そして、誰もがその時期を過ごし大人になっている。

おーいお茶がの段ボールがいつの間にかに太鼓に。
なぜか、RADWIMPSの正解を流しながら太鼓を叩いている様子。

という訳で、ワクワクしよう、楽しもう、好きなことしようと改めて感じた機会でした。

それにしても、宮沢賢治はどうだったのだろう??

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