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〜客観性の落とし穴から考えるケアのあり方とは〜

医療や福祉、教育などの職業について客観性とケアのバランスについて考える1冊。クライアントの声や表現が大切であることを忘れずに評価を行う必要性- 客観的指標の限界を認識し、個々の質的な内面に向き合う重要性について教えてくれる。

  • ・そもそも、客観性とはどのようなプロセスを経て誕生したのか?

  • ・客観性が及ぶ世界はどのように変化してきているのか?

  • ・客観性を踏まえどう考えていけば良いのか?

このようなことを教えてくれる書籍でもあります。

その中で、本書を読んで学んだ3つの問いは下記。
①そもそも、現実の現場においての評価とは?
②客観的指標の現実と限界をどう考えるか?
③表現できる機会が多い社会は優しい社会

①そもそも、現実の現場においての評価とは?

私たちは、普段クライアントの状態を評価するのに、評価と呼ばれる行為を行う。それらは、一般的に行われるものであればあるほど、盲目的に単純作業となりやすい。本来であれば、クライアントのニーズに合わせ行うことであり、その一つ一つに意義が宿る。

医療でいえば、たとえば歩行能力の指標や、バランス能力の指標、栄養状態や嚥下状態の指標、病気の状態や改善度合いなど、あらゆるものが数値化され、それをもとに報酬が決まってくる。
それが極端に進むと、クライアントを置いていき、数字が一人歩きをしていきかねず、なんのための医療なのか見失われかねない。

だからこそ、クライアントの声や表現が量的なデータ同様に大切である。教育も同じことが言えるのではないだろうか。

”客観的な視点から得られた数値的なデータや一般的な概念は、個別の人生の具体的な厚みと複雑な経験を理解するときに初めて意味を持つ。”

客観性の落とし穴

②客観的指標の現実と限界をどう考えるか?

現在の社会・経済システムにおいて、客観的指標が必要不可欠な場合が存在する。たとえば、学校の入学における学習能力。また、社会における給与や昇給を判断するための客観的な指標は、ほとんどの場合において必要不可欠ではないだろうか。

しかし、その限界やリスクを認識することが少なくなってきていると感じられる。
人を合理性や効率性、生産性だけで判断すると、それは優生思想につながっていく。

だからこそ、個々の質的な内面にどのように向き合っていくのかが問われているのが現在である。また、それと同時に客観的な情報をもとにしたコミュニケーションにおいて、政治や行政などあらゆる場面でリテラシーが低いのが日本だと思う。

個々の質的な情報とリテラシーの教育が大切ではないだろうか。

”数値化・競争主義は人間を社会にとって役にたつかどうかで序列化する。その序列化は集団内の差別を生む。その最終的な帰結が優生思想。”

客観性の落とし穴

③表現できる機会が多い社会は優しい社会

言葉、絵、詩、歌、遊び、それぞれに合った表現方法がある。
特に、悩みや困難を抱えたときに、表現する機会があるかどうかは、その人にとってとても重要となる。医療や福祉職は、その機会の一つであり、そこでクライアントの力や支えになれるかどうかが、試される仕事でもあると言える。

もっと言えば、誰もが表現できる機会や場が日常にあり、その人にとって表現しやすい環境にアクセスできる暮らしが一つの理想かもしれない。

そこには、専門家と呼ばれる人がいようがいまいが関係ない。一緒に表現を感じ、応答してくれるのであれば。

その個別の過程が大切にされる社会が人に優しい社会になるのではないだろうか。

”経験の重さは言葉にならないものであり、それゆえに不完全にでも語ることを通して私たちは経験の生々しさに対して応答しようとする。不合理で意味を持たない現実に対して、かりそめにせよ意味を与えることで生き延びる試みが物語るという営みだ。
個別の経験が生む『概念』が、誰にとっても意味がある共通の『理念』として、倫理的な『普遍』を指し示す。
この倫理的な普遍は『人権』と呼ばれるものと重なることになる。個別的経験を尊重することは、あらゆる人を尊重することを意味する。”

客観性の落とし穴


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