見出し画像

El Viento

【注釈】この物語は2022年7月27日公開の northernbleu (IG: @blue_bleues) の楽曲「El Viento」をモチーフに 齊藤ゆずか が執筆したものです。


 風が吹いたのだろうか。
 前髪が微かに浮き上がり、馬に乗る若い男の伏せた瞳を露にした。まだ太陽も昇らぬ薄暗い朝。青い影の立ち込める湖のほとりで、イヴァンは馬上の兄――アロンを見上げていた。
 アロンは濃紺の衣に臙脂えんじ色の甲冑をつけていた。初奏の儀を終えていないイヴァンは、戦に出ることが許されない。弓矢を背負ったアロンを見て思う。兄には、笛を構えた姿の方がずっと似合っているのに。
 草原の楽士ベルデ・ソニアは古くから、都や街道で、あるいは招かれた貴人の邸宅で音楽を奏で、金品を得て暮らしてきた。旅をしながら暮らし、文字ももたない楽士たちは、時の権力者から常に自由であった。しかしその自由は、荒れ狂う弾圧の炎に追われ続けることを代償としていた。
 200年前、集落を築いて定住し、支配を受け入れることを条件に、キール帝国の保護下に入った。帝国は楽士たちを特別な存在として扱った。しかしそれが搾取や差別に結びつくものだと気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
 アロンとイヴァンの祖父で、草原の楽士ベルデ・ソニアの棟梁であったアブラハンは、帝国への蜂起を企てていた。それは慎重に、時間をかけて用意されたものだった。弦を震わせるための弓ではなく、矢を番えるための弓を教えた。皮や鐘を叩くための棒ではなく、敵を突くための槍を教えた。
 アブラハンの息子は、都に出仕していた若い頃に亡くなった。娘は、小貴族に嫁いだ後、いわれなき疑いをかけられて家に帰された。幼い子どもの手を引いて歩いてきた彼女は身籠っており、イヴァンを産んですぐに果てた。手を引かれてきたアロンは、いまや次代の棟梁と目されていた。その座は決して世襲で決まるわけではないが、軍事訓練に時間を割くにつれて音楽をおろそかにする若い者も多い中で、アロンはできうる限りの全てをかけて笛に向き合っていた。
 篠笛と角笛。アロンは2つの異なる笛をかわるがわるに吹く重吹かさねの奏者だった。
「吹くんじゃない。うたうんだ」
 笛を始めて3年がたった頃、8歳のアロンが呟いた言葉をイヴァンは今でも覚えている。イヴァンは胡弓を始めたばかりだった。楽器は棟梁が見繕って決めるのだが、イヴァンにはなんだかしっくりこなかった。練習は投げ出したいほど辛い日もあったが、アロンが生き生きと笛について語るのを見ていると、なぜだか自分の楽器も愛おしく思えてきた。
 アロンは15で初奏の儀を終え、街へ出て演奏をするようになった。軍事訓練と舞台で日中は忙しくなり、夜更けまで集落のはずれで練習をして、音を磨くようになった。イヴァンは寝床の中で、アロンの笛の音が磨き上げられていく様子を音の響きから感じ、胸を高鳴らせていた。音の粒が喜んでいる。どんなに哀しく切ない旋律であっても、音のまあるい粒の中に、今にもあふれ出しそうなほど、何かがいっぱいに満たされているのだ。触れた瞬間、弾けるようにそれは散り、どこか懐かしい暖かな輝きをもたらす。アロンは笛とひとつになろうとしているのだ、とイヴァンは思った。人と楽器、その越えられない境界をなぞるような演奏は、時に鋭く、時に優しく、聞く者の心を抱きしめて離さなかった。あとすこし。そこにいるのに。
 どんなに遠くからでも、アロンの音はすぐにわかった。その心まで白い月に照らされたかのようにはっきりと見えた。アロンは初奏の儀以降だんだんと寡黙になり、イヴァンとは言葉を交わす機会を殆ど失くしていたが、兄の演奏を聴くだけで満足だった。
 蜂起をすることが決まったのは、ひと月ほど前のことだった。皇帝が代わったばかりだった。
 突然、アロンのもとに帝国政府から出仕命令がくだった。他の若者たちにも徴兵令が出た。
 息子を都で殺されたと信じているアブラハンは、その知らせに怒り狂った。命令に従わなければ女子どもを拐し、集落に火を放つとも書いてあった。新帝は、帝国の大部分を占めるキール人のみの国をつくろうとしているようだった。
 アブラハンは理性を失ったわけではない。どのみち楽士の男たちが兵士として完成されたところだった。しかしアブラハンは「蜂起した者たちはどうなるのか」という一点においてのみ、完全に理性を失ったままこの10年を歩んできた。
 兵士たちは、訓練にはもう飽き飽き、と嬉々としてこの知らせを受け、戦の支度を始めた。戦の前夜まで毎晩音楽を奏でるその様子は、イヴァンの目には異様にすら映った。アロンは白い顔でうつむき、ただ笛を布で擦っていた。彼は笛を吹かなかった。

 イヴァンは、兄の顔を正面から見つめた。薄紫の空にほんのりと染められた端正な顔を見る。聞きたいことがたくさんあった。いま、何を考えているのか。戦は怖いか。大丈夫か。
 必ずここに、帰ってくるか。
 アロンはおもむろに背中に掛けていた笛を外した。イヴァンは小さくうなずいた。兄がそれを吹いてくれさえすれば、答えはすべてわかるのだ。
 しかしアロンは、笛に口を付けなかった。
 目の前に差し出された2本の笛。イヴァンは意味が分からない、という顔で兄を見返した。
「わかっているだろう」
 久々に緩んだ口元から、穏やかな言葉が出てくるまではほんの一瞬だった。兄の掌の上、篠笛と角笛の並んだ孔の向こうにぽっかりとした闇がある。小さな孔の数をなんとなく数える。
そうでもしないと、わかってしまうから。
「これを持っていてほしい」
 なぜ15になった自分が、兄のように初奏の儀をすぐに挙げられず、ずるずると引き延ばされていったのか。
 アブラハンも、アロン自身も、彼はもうここに帰ってこないだろうということを受け入れている。
 イヴァンはその場にへたり込んで、首を振った。
「アロン、このまま逃げて」
アロンは少しはっとした表情になったが、馬から降りた。
「どこに逃げるっていうんだい」
 顔をのぞきこまれるのは久しぶりだった。幼いころは転んでイヴァンが泣くたびに、こうして瞳を見て、諭すように励ましてくれた。でも今のイヴァンが望んでいるのは兄のそんな説得めいた言葉ではなかった。
「最初は、逃げるつもりだった」
アロンはイヴァンから視線を逸らし、そう呟いた。張りつめた弦を一本一本つまびくように、言葉は静かに、でもはっきりと紡がれていった。

 僕たちが使う楽器は、誰がつくっているか知っているかい。楽器をはじめて与えられる幼子は、それを棟梁から受け取るけど、棟梁が自分であんなにたくさんの楽器をつくることができるわけじゃない。
 僕もそのことにずっと気が付かずにいたんだ。草原の楽士ベルデ・ソニアの楽器は、谷の楽師バリエ・ソニアと呼ばれる人々がつくっている。棟梁になるために知っておかねばならないこととして、おじいさんから直接伝えられた。
 知らなかっただろう? 谷の楽師バリエ・ソニア草原の楽士ベルデ・ソニアは、あるときから対立しているように見せなければならなくなってしまった。帝国にとって、両者の関係が良いというのは都合が悪い。下手すると双方つぶされてしまう。だから棟梁が、谷の楽師バリエ・ソニアの方でも選ばれた、あるひとりと取引をする。
 棟梁から取引を任され、村はずれの丘の上で待っていると、夜更けにひとりの楽師が現れた。名を聞くことはついになかったけれど、彼女が僕の出会った唯一の楽師だった。
 
 イヴァンは月夜に照らされた丘に腰を下ろし、笛でうたうアロンの姿を思い描いた。

 彼女はひとことも話さなかった。マントについているフードを深くかぶって、楽器を並べ、僕の笛の音を聞いてその調整をする。彼女にはすぐにわかるんだ。どこがずれていて、どこが歪んでいるか。そして、僕の演奏を聴いて目を閉じる。その顔は満たされているようでいて、どこか哀しげだった。
 僕にはすぐにわかった。彼女は、笛を奏でられる。
 棟梁は谷の楽師バリエ・ソニアは人前で演奏をしてはいけないことになっていると言っていた。でも、僕はどうしても聴きたかった。彼女が笛を愛していることがわかっていたから。その愛が奏でる音で、僕は鼓膜を震わせたいと思ったんだ。
 ある晩――僕は1本、角笛だけを彼女の膝の前に置いた。彼女が笛を手に取り調え始めると同時に、僕は重吹かさねの旋律をたどった。彼女は驚いて手を止めたが、僕は続けた。彼女はしばらく僕を見つめてから、笛をくわえ、息を入れた。
 風が音を連れてきた。音よりも先に一陣の風が辺りに漂い、そこに音が染みわたっていくんだ。それは世界に色をつけていくようなことだった。
 僕は谷の楽師バリエ・ソニアが演奏することを禁じたのは、草原の楽士ベルデ・ソニアだったと思っている。遥か昔の棟梁は、谷の楽師バリエ・ソニアの演奏に、自らが貶められるくらいの恐怖を感じたのだろう。僕はそう思ったときに、自分が楽士であることのために戦わなければならない理由を、どこか見失ってしまった。本当は最初から見えていなかったのかもしれないね。でもそのときから、見ようとすることすらしなくなったんだ。

「……だから、逃げようと思った」
 アロンの顔は、先ほどよりもよく見えるようになった。伏し目がちに話す兄が瞼の裏に結んでいるひとの像を、イヴァンは精いっぱい思い描いた。彼女とともに逃げ、生きてゆく道筋は、兄の中でどれほど光って見えていたのだろう。
「でも、逃げたとて、僕はもう、僕ではない」
アロンは苦しそうに、振り絞るように言葉を続けた。
「僕はこれから人を傷つけることになるだろう。殺めてしまうかもしれない。そんなこと絶対にしたくないと思っていても、戦は人を変える」
僕はもう、僕でなくなる。
「だからイヴァンには、逃げてほしい。僕を守って逃げてほしい」
この笛は僕だ。
 アロンがそう言ったとき、そのことにだけは、イヴァンは深くうなずくしかなかった。この笛は紛れもなくアロンだった。でもそれ以外は、アロンが自分を納得させるために築き上げたものとしか思えなかった。アロンがアロンでなくなるなんて。そんなことない。大丈夫だ。棟梁になっても、逃げても、アロンはアロンじゃないのか。
「イヴァン、本当は、きみも笛を奏でられたんじゃないかと思う」
イヴァンは胸を突かれたような思いがした。強く首を振って否定しながら、ぎゅっと目を閉じる。
 笛の音だけは、どんなに遠くにあっても聴き分けることができた。でもそれは自分のためにではなく、アロンの音を聴くためにあったのだと思いたい。アロンに先に笛が割り振られたから、イヴァンの楽器は必然的にそれ以外となった。アロンはいつから複雑な思いを抱えていたのだろう。
 それでも今のアロンは、驚くほど晴れやかな顔をしていた。理不尽に担わされたものであっても、その責を果そうという強い意志が、兄を支えていた。
「笛を届けてほしい人がいる」
最後に彼らが奏でた曲を、イヴァンははっきりと思い出していた。あの夜は真っ暗で、あたたかく、丘の上にはやわらかな風が吹き抜けていただろう。
 あのとき彼女は、きっとうたっていた。彼女の奏でる歌は、透き通った風を連れてくるから。
 アロンは不意に、イヴァンを抱きよせた。幼いころそうしてくれたように、そしてそのときよりもずっと強く。
 2人には涙もいらなかった。真っ白な稜線の輝きが、朝日の訪れを知らせていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?