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方法を教えるのではなく

何の気無しにことわざ辞典を開いて、目に留まったのが「釈迦に説法」だった。

設計部内で月に一度、自分が行った案件の共有や、実際に足を運んだショールームの体験談など、まぁ仕事に関われば何でもよいのだが、発表の場がある。
さっきのことわざを前にして、2年ほど前に行った発表が「釈迦に説法」つまりは「大先輩達
に対して上から目線の教え」だったかもしれないと、ふと思ったのである。
その発表というのは過去にやった案件の紹介という名目で「僕はこんな方法でコンペをとれるようになってきたよ」という話であった。
ただ2年前のことなので、ちゃんと反省したり深掘りしようという気にならなかったのだが、とある日、ある本の、ある一節に出会う。
それは終わり際に添えられた言葉であった。

この本の話を最初僕は、文芸批評についてのテキストブックを執筆してほしいという形でもらいました。 しかし、文芸批評理論についての本なら、いくつもありますし、僕が用意することもないだろうと思い、その代わりこういうものなら、書いてみたい気がする、と自分から言い出したのがこの本ですが、ある意味で、これは、僕にとっての文芸批評の本でもあるかもしれません。僕は、デカルトの「方法は理論よりもむしろ実習のうちに存する」という考え方が好きです。ここにあるのは言葉を書く経験を深く受け取る方法ですが、しかし、そこでも、僕はこの本でその「方法を教える」よりも、その「方法について語る」ことを、めざしました。

*加藤典洋『言語表現法講義』岩波書店、1996年、p239

あぁ、なるほど。
方法が明らかに存在しないものに「これが方法だよ」と教える感じで伝えてしまうと「この人は頭が凝り固まってるな」と思われてしまうかもしれない。
「”僕は”この方法だよ」とあくまでも自分の方法を語る、紹介のように伝えるのは、たとえ達人じゃなくても教授じゃなくてもハーバード大卒じゃなくても、誰がやってもいいことだと思った。
あの時の発表で「あくまでも皆さんに方法を教えたかった訳ではなく、ただ語りたかっただけなのです。」と最後に添えていればよかったかな。

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