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恋愛至上主義宣言?

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<恋愛至上主義宣言>
一つの妖怪が全世界に顕現している。

――恋愛至上主義の妖怪が。

全世界のあらゆる権力が、この妖怪に対抗する厳格な同盟をむすんでいる。

物理学や数学、工学、医学。反証可能性の蓋然性が高い自然科学のそれぞれが結託して、その地位に座している。

<恋愛資本主義と素朴な(空想的)恋愛主義>

我々は、恋愛を享受できる程度に豊かな世界を生きている。

それも高度に進化した恋愛資本主義の効用を享受できる時代に。

例えば、本論考の記述されている言語(日本語)の帰属する国においても、その状況は変わらない。少なくない諸外国においても状況は変わらない。

しかし、そもそも恋愛とは何であるか。また、その形質がどのようなものであるのかについて、多くの人は思いを巡らすことはない。

好きなものを指示する名詞がどれであるか理解しているにも関わらず、肝心の指示内容を理解していないという皮肉なシチュエーションの上で、多くの人々はその選好を表明しているのだ。

翻って、恋愛なるものを人々が好んでいるのかどうかにさえも、疑義を挟む余地がありそうに思える。

それが大好きである人々も厳密には、「誰かを好きになること」が好きなのであって、外側を取り囲む「恋愛という構造」については、必ずしも好意を抱いているわけではないのだ。

唯物論というスコープで世界を眺めた時、「人の心」は脳を行き来する電気信号を変数とした処理結果に過ぎない。つまり正確には「人の心」があるのではなく、電気信号が発生させる現象があり、それにまるで「もののような」名前(「人の心」)がついているだけなのだ。

そしてこの科学的パースペクティブは、広く社会に受け入れられている。

科学的見地から考えれば、「あの子」で感じたときめきは、一瞬間のものではない。

カレイドスコープで世界を眺めるような営みは、つまり、あの人だけが運命の人だと言い立てる「賭け」は現代世界において、非実用的だという誹りを免れない。

人口が爆発した現代において、もしくは人と人とがネットワークで繋がりやすくなった現代においては、唯一の存在を信じること、その愚かな危険な行為は唾棄すべきものと成り果てたのだ。

「あの人」と同等以上の人を目の前にあてがってさえくれれば、「あの時のトキメキ」と同じ反応が起こる可能性が極めて高い。

誰かを好きになって恋愛感情を抱く、そのプロセスにさえ、ある種の快楽が存在する限り、条件が合いさえすれば、他の誰かをも好きになり得るのだ。

誰かを好きになるという能力は、閾値以上の人々に対して、コンディションの良し悪しが影響するとは言え、必ず達成される。つまり、目の前にいるのが、AさんであれBさんであれ、自身の好みに一定程度合致しているのならば、恋愛感情は発生する。(取り替え可能性の棄却が不可能)

科学的見地を飛び越えない限りにおいて、有村架純と付き合って得られた効用は、例えば、浜辺美波で得られないとは言い得ないのだ。

どこかの土手で自転車に二人乗りする青春(これが許されないほどコンプライアンスが喧伝される時代であることは別として)と、どこかの国のインフィニティプールで美少女をはべらすことのどちらが、幸福度が高いか(脳の機能的数値に影響があるか)は、もはや選好の問題に帰結するのみとなった。

それは、素朴な恋愛主義市場で勝負を挑むことに忌避のない、自然状態での被選択に自信のある者にとっては、悲報であるが、しかし、そうでない者にとっては、朗報である。

端的にいって、恋愛感情(もしくはそのようなもの)に至るための変数が、見栄えや身体能力、もしくは性格的特性だけによらなくなったのだから。

それを思えば、素朴な恋愛市場の栄華は短かった。

封建時代の抑圧から逃れた自由恋愛は、即座に資本主義と「ある種の悪魔的な合体」を遂げた。

その姿は、一見、家父長制を克服しただけの抑圧的体制、近代的な要素を含んだ封建時代に逆戻りしたようでさえある。

しかし、全ての人々にとっての自由な選好が実現された結果であるから、むしろ人間の本性は素朴な恋愛にそぐわなかったと言えるかもしれない。

例えば、狩りがうまいことは、遺伝的、身体的特性と重なり合っていたが、金儲けが上手いことは一見して峻別できる特性と重なり合っていなかったが故に、結果の出すシグナルを重視しただけのことなのだろう。

つまり、恋愛資本主義と素朴な恋愛はその基本的性格を鑑みるに、腹違いの兄弟どころか、それが第二次性徴以前か以後か程度の違いしか持ち得ないのだ。

モテないからと恋愛資本主義を批判したところで、素朴な恋愛主義に立ち返った世界には、もっと残虐で冷酷無比な現実が待ち構えている。

モテるやつはモテる。モテないやつは、金を稼ごうが地位を得ようがモテない(もしくはモテた気分さえ味わえない)という苛烈な現実だ。

その意味で、思春期にモテなかろうが、青年期以降に巻き返しが図れる恋愛資本主義の方がいくばくか人情味があろうというものだ。

まさか、この時代に封建時代のような生まれた瞬間に不幸が決まる可能性に賭ける必要もあるまい。

必ず幸福になれる保証があれば、その企図も読めないではないが。

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