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マンションを売り払ったことを「慧眼ですね」と褒められて

成田空港で僕は一人だった。

晴れた空の下で、点線の雨が降っていた。
前が見えないほどの霧雨で覆われた心は、僕が進むべき道を隠していた。
しかし、皮肉にも、クレジットカード会社のポイントと溜まりまくったマイルってやつで、成田から六本木を手放しで進めるほど、僕は人生を持て余していた。

車庫で余っていたからと配車された僕に似合わないほどの高級外車は、僕がこれまでの人生を僕自身に不釣り合いなほどにうまく渡っていたことを知らしめるかのように豪奢で静謐な装いを見せていた。
車の名前は、ファントム。
僕は、きっと幻想を見ていた。この人生で最高の幻想を見ていたんだ。

僕が空港で一人、誰とも話さず、雑誌に目を落としていたように、この車も、もしかすると車庫の端っこで、役割が来るはずもないと安心しきっていたのだろうか。
今の僕に、わかりやすい役割が無いように、この車も僕がいなければ、役割を持たないままだったのだろうか。少なくとも今日に限っては。
それは、確かに、彼女を失ってから、役割を失った僕そのもののように映った。

少し年式を経ているのも、僕にそっくりだ。

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いくつのものを捧げてきただろうか。
お金や時間、それは確かに捧げてきた。けれども、愛や信用みたいなものを本当に捧げられたかは疑問でもある。

「かたちのないものは存在しないのと一緒」と僕の中の唯物論者が叫ぶ。
その意味では、僕は誰よりも、彼女を愛してきたはずだ。
しかし、自ら信じることができないものは、自分の人生において、存在しないのと同じだったのだ。
僕は、ずっと愛の存在を信じてきたし、それ以外のものなんてこの世に存在しないのと同じと軽んじてきた。
まるで、唯心論者のように、これまで生きてきた。

例えば、僕が彼女のマンションの家賃や洋服代、携帯代、そして、デート代に到るまで、全ての会計を担当していたことは、他人から見れば、不釣り合いなカップル(騙されている可能性すらある)に映るほどの行為だが、しかし、僕からすれば、より彼女に愛してもらうための手段であり、僕の役割であった。
端的に言って、人の愛し方を知らなかった。僕はこれまでずっと。

自分が心から信じることのできないお金や時間に、僕は彼女への愛を、もしくは、その表現を仮託していたのだ。

騙して貢がせたな、などとバカなことを言っていて、微笑ましく思われるのは、童貞の高校生までである。
僕は、僕が一番心地良いから「そうしてきた」のだ。たった、それだけのことである。
愛以外には、何ものも信じなかった僕は、けれど、その難解さから逃げ出して、愛を捧げることに失敗したのだ。

心の底では、思っていたのかもしれない。
お金や時間を捧げたところで、僕が愛される訳ない、と。
捧げたものが有形であるが故に、僕以外の誰かも、全く同じものを彼女に捧げることが可能なのだ。
それは、愛や信用を捧げられる人間がお金も時間も捧げた時、きっと僕は、いやほとんど確定的に捨てられることを意味していた。
振り返れば、愛や信用だけを捧げる人間にさえ、この僕は打ち勝てないかもしれないのに、あまりにも不利な戦いをこれまで続けていたように思える。

思い出のほとんどは、笑顔だった。僕には、それが、それだけが生きる希望だった。
それは、彼女が愛らしかったことに加え、おそらく一つの条件によるものだった。
僕が、議論を避け、彼女の意見を必ず採用していたからだ。
人間は、自分を愛して欲しい、自分を認めて欲しい生き物らしい。
彼女と僕では、その欲求の発露における方法が違っただけだろう。
そう、互いに「愛して欲しかった」だけなのだと思うことくらい、許されてしかるべきではないか。
愛されていると思って、彼女が笑っていたのだと信じていても、誰も怒らないだろう。
僕は、僕なりに彼女を愛していたのだから。

彼女とは7年ほど付き合った。交際途中で別れ話に発展しても、結局、元の鞘に収まるところを確認し、僕の未来は約束されているのだと安心していた。
僕は、曇りなく、信じきってしまったのだ。
彼女との未来とその生活を。

僕は、少し背伸びをして、家を買った。
もちろん、ローンでだ。
つまり、彼女のために、大きな大きな借金をしたことになる。
何も考えずに、DINKSにぴったりな大きなタワーマンションを買った。
四角い箱から見る夜空は、どんな満点の星空にもかなわなかった。
彼女と一緒にいられれば、それだけでよかった。

僕らは、愛を表現するためにこそ、まずは自らの冷蔵庫を満たす必要がある。
愛は素晴らしいが、愛で貧しさを覆い隠すような心の貧しさは、貧困そのものよりも、病理になりうる。
不幸な金持ちはたくさんいるが、幸福な貧乏人を探すことは、きっと、砂漠の砂の中からダイヤモンドを見つけるよりも難しい。
少なく無いオアシスが、蜃気楼の作り出した紛い物であるように、貧しさの中に、愛や幸せを見出すことは不可能だ。
貧しいから幸せだということはありえないのだ。
例えば、ブサイクだから幸せだという人がいないように。
僕は、人の愛し方も知らない不幸な金持ちになってしまったようだった。

彼女が出て行った日の夜、スピーカーから流れてきたのは、「何もできずにそばにいる/乃木坂46」だった。
僕は、この曲の軟弱な歌詞が大嫌いだった。
それでも力になりたいなどと言って、そばにいるだけで何もできずにいる彼のことが嫌いだった。
「物語の中の彼」は、彼が自認しているように、「役に立たない」と思った。
何もできずに、そばに立っているだけで許されると思っている、他人思いなようでいて、何もできない自分を正当化している無配慮で無遠慮な彼のことが大嫌いだった。
しかし、立ち止まって歌詞を聴くと、彼の思いの純粋さには、心を持っていかれそうになった。
翻って、無意識の自信を押し売りする彼を眺める僕のスノッブでニヒルな態度は、とても豊かで成熟した平成期の生まれとは思えないほど、アイロニカルなものだった。

電源の消えた液晶テレビに、歪んだ僕の顔と心が写っていた。

もちろん、僕には、そばで寄り添うべき人を失った悲しみがあり、その残滓がそこここに折り重なって、心の澱のように、不気味な谷底を隠していた。
つまり、僕は、僕がかつて嫌った何もできずにそばにいる人にすらなれず、それにひたすら憧憬を寄せる「夕暮れに向かって突き進むだけの人生」を歩み始めてしまったことを、その時、実感したのだ。
それは、ほとんどもしくは全く、僕が社会に触れる必要がなくなったことを示していた。

現代では、コミュニケーションのほとんどがインターネット上で完結する。
けれども、僕にとって、Facebookはもちろん、InstagramやLINEに到るまで全てのアプリケーションは不要になった。
彼女とより良くうまく人生をこなしていく以外の理由で、素手で社会そのものに触れる必要性など、どこにもなかった。

夢見る季節を過ぎたら、できるだけ、うまく人生をやり過ごすほかないのだ。

「やりがいが欲しい」、「大きな仕事をしたい」などという若者でもなければ、海賊でもマフィアでもないから、ともに夢を追う仲間などがいるはずもない。
革命は勇ましくて、見るものを圧倒するが、時に当事者はその熱の中で、若くして、無残にも、その途中で死んでいく。そんなの、まっぴらだ。

本を読み、酒を飲み、可愛い女の子と触れ合って生きていければ、それだけができれば、もう何もいらないとさえ思える。
あとは、欲張りすぎず、ミスが挽回できないような大きな仕事を避け、無傷で人生をこなせればそれだけでいい気さえしている。

正直、社会人として、金を稼ぐだけならば、電子メールと電話さえあれば、もしくはチャットツールなんかがあればそれで十分で、他人と繋がり、コミュニケーションをする必要などなかった。
何故なら、パーソナリティを深掘りするよりも、目の前の議論を深めることの方がよほど重要だったからだ。合理的経済社会では。
実際、彼女と別れた後、事実と予想を伝えるだけで(時に愛想を織り交ぜながら)、仕事は、つつがなく進行した。

高度資本主義社会の中では、思いや情熱と言った不可測なものは、賞味期限のすぎた果物のように、ごく自然に、誰にも気にとめられず、音もなく、くずかごに放り込まれる。
確かに、それらを喧伝する小学校の教師や田舎のガキ大将は、彼ら自身が大きく社会を変革することも、経済的な影響力を持つこともなさそうだった。確かに、彼らの力は、彼らの村でだけ、最大化されていた。

「本当の気持ち」よりも、「わかりやすくてそれっぽいもの」だけが流通する社会で、僕らもまた、そのように姿を変えるべきなのだろう。

僕が他人を知る必要が無いように、他人も僕を知る必要が無い。

僕は、僕の声だけが木霊する一人の部屋で、ブランデーを煽った。
amazonから配達されてきたそれは、宅配ロッカーに押し込められていただけで、僕はそれを誰が作ったのかも、誰が運んできたのかも知らないのだった。
僕は、彼女以外のことをこの世界で何も知らないアラウンドサーティの冴えないおじさんに成り果てたのだ。
それでも、彼女を失ったこと以外は、割と希望通りの順調な人生に思えたことが悲しかった。

彼女が消えた後の僕は、特に豊かな暮らしも綺麗な暮らしも望まなくなり、マンションを売り飛ばした。
買った時よりも高値で売れたそれは、その後のコロナショックで売りそびれることを思えば、幸運としか言いようが無いタイミングに恵まれた。
しかし、高く売れようが安く売れようが、僕にとってあのマンションは、彼女と思い描いた未来そのものであり、彼女との思い出そのものだった。
誰に何を言われても、過去と未来が同時に買い叩かれたかのような思いの去来する取引であることに間違いはなかった。

そして、僕はさながら、ゼロ年代のメンヘラ女子のように、垢消しという所業を成し遂げ、今に到るまで、過ごしている。
悲しいかな、それでも世界は平然と回る。
美貌麗しい妙齢の女性ならば、誰かが心配もするだろうが、人生の折り返し地点が見えてきたアラサー男子の行方など、心配されない。僕が友人や知人の行方を見失っても、同様であるだろうから、不思議はない。
真実と真実の間に、僕の無関心と他人の無関心の間に、乾いた隙間風が吹いていた。

彼女がいればそれだけでいいと、強引に進めた人生は、暮らし向きよりも、むしろ心の貧しさを加速させた。あれほど、金に困る人生を予期したのに、しかし、僕は、愛の不存在に悩むことになったのだ。
一度も使わなかったマンションの奥の部屋の窓にもたれて、ジオラマみたいな東京の街の中に、愛の輪郭を探していた。
けれども、どこにも、僕にしなだれ掛かる彼女はいなかった。小難しいことを考える僕に、わからないことはわからないよ、という彼女はいなかった。

あちこちのビルが赤く光る。規則的な点滅が、僕の人生の残り時間をカウントしていた。

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