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何もしない、が案外できないという話

こんばんは、ダイチです。
昨日は高校の同級生が東京から帰省しており、夜通し飲んでいたため、投稿はしていません。
そんな日があってもいいと思っています。

今度、「一日のルーティン」という記事を投稿すると思いますが、そこで決めているのは、毎日行いたいことも、週に1度はあえてやらないということです。
つまりは、意図的に週に6日しか行わないようにするのですが、何事もそのくらいのほうがいいのかもしれません。
フィットネスジムの先生からも、「メニュー消化率は70%でいいんですよ、そのほうが続きますから」と言われたことがあります。
嫌ならやめてもいいかなって感じのほうが案外続きますよね。

ということで、今日は最近仕事で考えていることを書きます。
本当は研修生発表会のまだ書いていない部分を書くべきなんでしょうが、脳内の整理の意味でも、先にこちらを書きます。
思い立ったら先に記しておくのが大事だと思いました。

タイトルで言ってる通り、「案外」のことを書いていきます。


ウソを付いても余計なことはしない

仕事だけではないんでしょうが、何もしない、というのは案外できないことです。
ここで言う「何もしない」というのは、例えば掃除をサボるとか、そんなことではなくて、「余計なことをしない」に近いと思います。
いろいろと頭で考えて、工夫をして良い仕事をしようと思うものですが、何もしないで事を進めるというのができるのもまた、最近では良いと思うのです。

私の仕事は、授業を作ることです。
主には中学生の英語ですが、多くの場合、その日に扱う単元は決まっていて、それがマニュアル化されたテキストもあります。

例えば、「be動詞」みたいな感じです。
その日は、am・are・is の使い分けを教えればいいのです。

私は〇〇です。→ I am 〇〇. 
あなたは〇〇です。 → You are 〇〇. 
(それ以外)は〇〇です。 → (それ以外) is 〇〇. 

テキストにはこのように書いてあるので、こうやって板書を書いて、説明すればいいんですが、これってウソですよね。

まず、それ以外の時は is と are に分かれますよね。
でも、この時点では複数形という概念を生徒たちは知りませんから、この説明でいいんです。
このあたり、教科書って本当に緻密に作られています。

でも後から、先生の言ってることが違ってたよ、となりそう。
だったら、先に「本当は違う」と説明してしまおうか…。

この仕事の初年度には、実際に説明してしまったこともありました。

本質への追求は、最初は必要ない

皆さんはご存知でしょうが、be動詞の意味は「〇〇です」ではありません。
be動詞というのは本来、イコールの記号ですから、イコールになるように日本語を作ればいいんです。

He is Tom. 
He is in the library. 
He is excited. 

彼=「トム」(名前)
彼=「図書館の中に」(場所)
彼=「ワクワクしている」(心情)

このように解釈して、それに見合う日本語を作ればいいんですが、テキストには上記のように書いていないのです。
それは、初学者に対しては難しい考え方だからです。

私立武蔵中・高など、一部の名門校では、本質から教えるというのを大事にしているそうですが、それができる生徒が揃っているというのは実にうらやましいことだなと感じてしまいます。

まず覚えてもらうのが大事、話はそこから深くする

まずは覚えてもらう、という考え方があまり好きではありませんでした。
覚えることに走ると、応用が利かなくなるからです。

例えば私は、何でもかんでも「寿司を食べる」で例文を作ります。

canを教える時は「寿司を食べることができる
willを教える時は「寿司を食べるつもりだ
現在進行形だと「寿司を食べている」になるんですが、

中には、その例文を暗記する生徒もいるんです。というか、それが多数派というのを最近感じています。

なので、「寿司を食べる的な話、先週もしてたよね」みたいな態度を取る生徒もいます。
これら3つの違いが分からないと本当にダメなんですが、彼ら彼女らにとっては寿司を食べる現象は全て同じ文法で書けると思っているのです。
※このへんを助長したのは小学校の英語必修化なのかもしれません。まあその話は機会があれば…

だからテストで、

・テニスをする
・英語を勉強する

このように他の話題で出題されたら、答えることができない。
そして言うのです。

先生が教えてくれなかったから、できませんでした。

まあここまで質の低いことってなかなかありませんが、これに近いとこがあるんです。
だから、「寿司を食べる」でない何においても対応できるように教えるには、

「~することができる」
動詞の前にcan、動詞は絶対に原形

とかって、まずは教えなければいけないと思っています。

けれども、それは初学者には難しいようです。
初学者に戻れない我々は、canを知らなかった時の自分を想像して授業しないといけないんです。

教えたことに疑いを持つ子は賢い

話を一般論に戻します。
どんな仕事でもそうなんでしょうが、相手は案外、事を知らなくて、厳密にまで間違っていない説明というのはかえって不適切なのです。
不適切というより、迷惑なのかもしれません。

ですので、ある程度は分からせてから、正解できる問題だけをやらせて、後日、「実はあの時教えたことはウソで…」とこちらから名乗り出るくらいのほうがいいなと思っています。

というより、彼ら彼女らは勝手に成長してくれます。

先生の言ってることが違ってたよ、と言われたら、「よく知ってるね」、「よく勉強してるね」などと褒める振る舞いができるようになりました。
それは大人になったというのもありますが、ものを教えるという仕事では、ウソを付いても余計なことをしないのが重要だと思えるようになったからです。

点を取らせるためには、ウソも付かないといけない。
いや、ウソではなくて、現時点での本当であって、彼ら彼女らが成長した時に初めてウソになる魔法のようなものなんだなと思います。

この現時点での本当という考え方、皆が横一線で並ぶ学校のお勉強であれば分かりやすいんですが、社会に出て顧客との関係だのの話になると分かりづらいですよね。マニュアルがなくて一筋縄にはいきませんから。
このあたりのスキルが高い人が、仕事ができると言われるんだろうなと思います。

でも、ウソって本当は付きたくないよね

とはいえ、ウソを付くのは嫌なので、出来の良い生徒がいるクラスでは言っちゃったりします。

現在進行形の意味って、実は「~しています」ではないんですよ、とかね。

そういうのも上手い具合に挟めるようになればいいんですが、冷静に考えて挟むという行為がイコール余計なことですよね。
口を挟む、という慣用句は、実によくその実態を表していると思います。

余計なことをしないって、いつになっても案外難しいんだなというお話でした。

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