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不定詞をたったの4時間で終わらせた話

こんばんは、ダイチです。しばらく投稿がなくてご心配おかけしました。
診察は受けていませんが、おそらくコロナになっていたような気がします。
というのも、先週末に参戦したビヨーンズ徳山のライブハウス会場で、コロナ陽性者が出たそうで、そこから移ったのか。
そもそも徳山でコロナが流行っていて、その方が移されたのか。

どちらかは分かりませんが、私ももらってしまったようです。
まあ私は苦しんだだけなのでいいんですが、ビヨーンズはメンバーの卒業公演を控えています。
どうか、全員で無事に行われますように、と柄にもなく善いことを言っておきます。

さて本題ですが、中学英語の最難関とも言える「不定詞」をたったの4時間で終わらせた話です。
これは私の話ではなくて、とある中学校(以下、A中学校)でのお話。

進学塾は週1の授業ですから、こんなことをされたら学習進度に追い付けません。
ですが、それ以上に問題なのは、不定詞ほどの難しい単元をたったの4時間で終わらせてしまったこと。

今日はそのことについて書いていきます。


「不定詞」は中学最難関の単元

私は個人的に、そう思っています。
ですが、中にはそう思わない人も多いようです。

理由は、「だって、『to』付けるだけじゃん」

確かに~、と思いました。

学校のワークを見てみても、本当に「to」を付けるだけ。
例えば、以下のような問題です。

彼はテニスをするために学校へ行った。
He went to school (      ) (      ) tennis.              答: to play

このように、カッコを埋めるだけの問題であれば、「to」と、あとは不定詞っぽい部分を担っている動詞を続けて書けばいい。
そして、その形はいつだって原形。

そう考えと簡単だなと思いました。

4用法を4時間で一気に

私が不定詞を難しいと思うのは、逆に形が定まってしまうからだと思っています。
日本語を読んで不定詞を作る作業は、先程述べた通り誰でもできるレベルに簡単です。
ですが、その逆は難しい。
なぜなら、同じ形で4種類の意味が存在するからです。

例えば、「to play」というカタマリを使って以下の4文を作りました。

I like to play tennis.  私はテニスをすることが好きだ。
I went to the park to play tennis.  私はテニスをするために学校へ行った。
I am happy to play tennis.  私はテニスをして幸せだ。
I don't have time to play tennis.  私にはテニスをする時間がない。

テニスまで被らせましたが、これらはそれぞれ違う用法です。
不定詞とは、英語の形は定まっている分、それを含む1文が完成して初めて日本語の意味が定まるという意味で「不定詞」と名付けられているわけです。

4つの例文はわざと簡単に作ってあるので、容易に訳出できますが、用法の見分けは初学者には難しいものです。
ですので、学校の教科書では4パートに分けて、1つのパートには同一の用法しか登場させないようにしてあります。
学校の教科書は、実に緻密に作られていますからね。
まずは一つずつ「型」を覚えてもらい、1年くらいかけて不定詞というものが分かればいいというスタンスだと思います。

ところが今回のA中学校は、このようなわざと分かりやすく仕切られて作られたパート分けのユニットを一気に終わらせてしまったんです。
不定詞の本当の難しさは教えずして、簡単なものとして教えた。

生徒たちがかわいそうとすら思いました。
例えるなら、鬼滅の刃のサイコロステーキ先輩です。
実力上位である十二鬼月の鬼に対し、「見た目が幼くて、このくらいの鬼なら殺れる」と思いナメてかかって、瞬殺された。
あんな風に、不定詞に殺られる中2が多く出てきそうな気がしています。

中1も中2も、夏休み後に難敵がいる

全ての教科書を見たわけではありませんが、おそらくこれは確かです。
中1の最難関単元である「3単現のS」は、例えば東京書籍「NEW HORIZON」ではUnit0からUnit11の全12ユニットのうちUnit6で登場します。
全体でも中央やや後ろに配置されていることから、おそらくは夏休みを終えた9~10月初頭にぶつかるようになると思います。

これには大きな狙いがあると思います。

一つは今までの学習内容を夏休み期間で完璧にしてもらい、その後スッキリした気持ちで難関単元に向かってもらう、そしてもう一つは―主には進学塾のような予習させる機関に対してですが―、夏休みという膨大な時間の中で取り組んでもらえるように、という点です。

Are you ~? なのか Do you ~? なのかが曖昧なまま、3単現のSに突入させない配慮。教員や講師に、出来ない生徒に対するモラトリアムを付与しているような感覚です。

さて、それの中2が「不定詞」なのです。
そのくらい、やっぱり不定詞って難しいんだと思います。

それを分かっている中学校では―というかほとんどの学校がそうなんでしょうが―、1学期の期末テストの範囲に不定詞を入れません。
不定詞は期末テスト後に教えるだけ教えて、夏休みを挟ませ、そして9月後半から10月中盤にかけて行われる2学期の中間テストで出題するのです。

中間テストというのも、ミソ。
期末テストでは技術・家庭科、保健体育、美術、音楽のプラス4教科も試験が行われるため、中間テストよりも負担が重くなります。
そこで、「3単現のS」や「不定詞」といった重たい単元は、テストが5教科だけで済む中間に回すほうが、より効率的なのです。

しかしながら、この度のA中学校。
何を思ったのか、不定詞もテスト範囲に組み込んできました。

ですが、不定詞がテスト範囲に割り込んでしまうだけならまだいいのです。
問題は、不定詞は簡単だからと考えての、範囲に入れ込んでやろうという薄っぺらい魂胆。
一つ一つの用法の説明に実質1時間ずつしか費やしておらず、やっつけ仕事のように終わらせたその姿勢が、英語を教える者として、許せないのです。

「円周率は3」みたいなことが、今後英語でも起きる

英語教育をめぐって、文科省の悪口を叩いてしまうことも多くなりました。
小学5年生からの英語必修化は、英会話を義務教育上でもさせることで、英語話者に対してビビる子は格段に減ったと思います。
ですが、その結果、英語は話せてもスペル通りに書けない子は増え続けていると思います。

余談ですが、我々の頃は、おもしろフラッシュでもミクシィでも、PCのキーボードをいじる必要がありましたから、ローマ字入力というのは、どんな馬鹿でもできていたという記憶があります。
ですが近頃の中学生はというと、iPhone、タブレット等でのネット活動がメインですから、フリック入力は綺麗なんですが、アルファベットを見ての音が想像できない。
例えば、「s」を見て、サ行なんだろうな、みたいな感覚がまるでない。逆に、「know」を見て「ノウ」と発音しても、何も違和感を感じないそうです。
「クノウ」って読んでしまうくらいがいいのに、逆に「ノウ」としか読めないことにこちら側が違和感を覚えます。なんだか老害みたいな着眼点ですが。

話を戻しましょう。
現在、小・中学校では、文法を教えることが事実上不可能となっているそうです。
ですが、定期テストは作らないといけません。
その結果、教科書の例文がそのまま出題されますので、ルールに基づくた文章作成能力―これこそが、日本人が「外国語である英語」に向かう姿勢であり、能力として測られるべきもの―は問われません。

そして、教える側の人員不足は深刻です。
ここでいう人員不足とは、単に先生の人数が少ないことも昨今取り上げられていますが、それ以上にキモイのが、まともに教えることのできる人数が極端に少ないということです。
特に小学校教諭は、よほどの若手ではない限り、英語を教える前提で教員免許を取得していませんから、無理もありません。

そのような人たちの中には、「ルールを教えない」のではなく、「そもそもルールを分かっていない」という事態に陥っている方もいるのではないかという邪念を覚えるようになりました。

極端に言うと、be動詞の「is」は、「I」、「you」以外の主語の時に使うなんて、言っちゃうんじゃないかということです。

授業のテクニックとしてそれもアリだ、と以前このnoteで述べたことがあるんですが、それは子供たちの成長後にフラグ回収できる前提で述べています。(詳しくはリンクから、どうぞ)

ここで言いたいのは、本気でbe動詞の「is」は、「I」、「you」以外の主語の時に使うというふうに思っている人間が義務教育での英語に関わっているのではないかということです。

もちろん、この例は極端ですから、余程のことがない限りさすがになさそうですが、少し難しくなると、ボロがボロボロッと出てくる。
そうして気づけば「円周率は3」みたいなことが教科書に明記されたり、なんてことになるんではないかと思っているところです。

先のA中学校英語科の不定詞への向き合い方を見て、そこまでの未来を想定してしまいました。

何年か経てば、今とは違う英語の姿がある、はウソ

英語を身近に据えて、息を吸うように使えるようになる。
その時には3単現のSなんか気にしなくていい。
そんなのに目くじらを立てているから、日本人は一生英語が話せないんだ。

文科省が喜びそうなメッセージを並べてみました。

ここからは私の持論ですが、英語が小さい頃から身に付かなくてもよいほどに、我が国では確立された「日本語」という言語があり、日本語以外を用いる方にも半ば強制的に合わせてもらうこともいとわなかった国であり(文化や宗教にも出ている面ですね)、そういうものがグローバル化の足かせになっていると言われがちな世論がいつまでもあるだけといった具合です。

ヨーロッパ諸国では、例えばドイツ人(ゲルマン民族)であればドイツ語が母国語ですが、向かい来る相手を、あ?違う民族かもしれないな?、と思った矢先に、(勉強で身に付けたわけではない)反射で最低限の英語が使えるというだけのことだと思うんですね。

母国語が2つあって、一つは世界共通で使える英語という感覚。

日本って、そんな感覚がない国だと思うんです。
ですから、そちらに危機感を抱く、といった考えのもとに英語教育を考えるのであれば分からなくもないんですが、

結局待ち構えているのは、18歳時の大学受験ですよね。

その際の英語への向き合い方は、多くの人間にとっては、点を取るための試験です。
自動車の免許を取る時に、「オレンジの線を越えると違反だ」と習うから、実際にそのような走り方はしないのであって、最初から、多少こんな場面では越えてても許されるんだ、ってのは、それは公道で乗り始めてから、やりたい人がやればいいと思うんです。

英語への向き合い方は、英語という科目からのアプローチでは変えるべきではないと思います。ルールとしての英語が、本来の言語としての機能より、この国では重要であると思いますからね。

このあたり、むしろ世界史の必修化とか、そんなのを考えたほうがよっぽど良いと思ってます。何?歴史総合って。

明日話したいこと忘れた

そのうち思い出すと思いますので、またお楽しみにしていて下さい。
それにしても、コロナつらかったな。

では、また。


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