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”もらいすぎている感”がコミュニティを豊かにする

「私ばっかりもらいすぎてて、申し訳なく感じるんだよね」

夜中に友人と2人で散歩しているときに彼女が言い放った一言。
自分は人から助けられてばかりで、自分から与えられているものがないんじゃないかということらしい。

確かに、たくさんもらうより、たくさん与えるほうが良いことをしている気はする。ぼくも、与えることは素敵なことだと思う。

 でも、与えて"あげた"ことばかり考えていると、ちょっと心が狭く(貧しく)なる気がする。

ぼくが住んでいるようなシェアハウスを例に出してみる。

シェアハウス住人の1人は
共用のリビングを掃除してあげた。
誰かがシンクに残したお皿を洗ってあげた。
悩んでいる人の話を聴いてあげた。

対して他の住人は
共用のリビングを掃除してもらった。
洗いそびれたお皿を洗ってもらった。
悩んでいるときに話を聴いてもらった。

お互いに、してあげたり、してもらったりしながら暮らしを営んでいる。

仮に数値化したとして、リビングを掃除してあげた人の”してあげた感”が100あったとする。
リビングを掃除してもらった他の住人の”してもらった感”が50だとする。

コミュニティ全体で捉えたときに、たくさんしてあげた感があるにもかかわらず、してもらった感はさほど大きくない。という状態。

これが続いていくと、掃除している人にとっては「私ばっかり掃除しているのに、みんな当たり前だと思わないで!」となるわけ。

逆に
リビングを掃除してあげた人の”してあげた感”が100で、他の住人の”してもらった感”が200だとどうなるか。

してもらった人「いつも掃除してくれてめちゃくちゃありがとう!ほんと助かってるよ!」
してあげた人「おぉ、そんなに喜んでくれてると思ってなかったよ。どういたしまして」

みたいなことが起きる。

コミュニティにおいて”してもらった感”の総量が大きくなるほど、よろこびが増え。”してあげた感”が大きくなるほど貧しくなると思う。

ぼくなりの良いコミュニティかどうかの差異はここだ。

もし自分が、他者からしてもらったことに気づいているならば、負い目を感じることなく存分に受け取ったらいい。そしてたくさん受け取っていると伝えよう。

一人ひとりがもらいすぎていると感じるくらいのほうが、コミュニティは健全に育つのかもしれない。


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