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僕のヘソは現代アート

小学生の頃、通学路で友達4人とヘソの見せ合いをした。
何がきっかけで始まったのか覚えていないが
子供の考えることだ、特にその行為に深い意味は無い


1人ずつヘソを見せあう
1人目、普通、2人目、ダサい、、、普通、なんか変、
最後に僕がヘソを見せる

一瞬の間をおいてみんなが口を開く、

ダイチのヘソカッコいい!

その頃は特に何も感じなかったが
今思うと不自然だ、

カッコいいヘソとは?
顔がカッコいい、髪型がカッコいい、、など
人に対して「かっこいい」を使う場合は
ほとんどは容姿に対してだ

稀に腕がカッコいい、脚がカッコいいと言う筋肉に対する「カッコいい」のパターンも存在するが、
ヘソがカッコいいとは聞いたことがない
そもそも日本語として正しいのだろうか?

僕のヘソを見た4人の小学生は本来かっこよさという尺度で測れないヘソを、揃いも揃ってカッコいいと判断した。

カッコいいと言う言葉はここまで多様性を持ったのだ



あれから16年が経った今、なぜ僕のヘソはカッコいいと言われたのか考察してみよう。


①生まれつき本当にヘソがカッコよかった

手相がそれぞれ違うようにヘソの形も当然違う
しわ、穴の深さ、大きさなどがうまくかみ合い
界隈でもカッコいいヘソであった説


ただこれにはカッコいいヘソの基準が必要だ、
マイナーなヘソ界隈で同じ価値観を持ち合わせた小学生4人が揃う、確率としては限りなく0に近い

さらに手相ですらカッコいいと言う言葉は使わないのだからこれは適切でないと思われる。



②宇宙人に洗脳されていた

友達達は宇宙人に僕のヘソをカッコいいと言うように洗脳されていた。見えない圧力がかけられており逃れることが出来なかった説

日本では雷が鳴ると雷様と呼ばれるUMAにヘソを取られると言い伝えられている。

ヘソの利用方法は謎だが何らかの価値があるのは確かだ。カッコいいヘソを独占利用をするために洗脳せざるを得なかった


この説は明らかに現実離れしている。
正しいとは言えないだろう。



③アートとしてのヘソ

一見どこにでもあるようなヘソであるがその絶妙な形状が友人達の理解衝動を駆り立て
カッコいいヘソという新しい概念を作り上げた。
僕のヘソは現代アートとして価値があった説


これが1番有力な説である。

ヘソをかっこいいと言っている時点で意味がわからない、だが、そもそも現代アートはよくわからないものだ

バナナを壁に貼ったり、キャンバスを破いたり
仮に美術館に「カッコいいヘソ」が並んでいても
それらをアートではないと決めつけることは可能だろうか?



僕のヘソは現代アートだ

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