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なぜ旅に出るのか

 2022年8月1日。今日、私は欧州へ発つ。1か月半程かけて欧州各国を周遊するつもりである。

 現在、世界はインフレの嵐の真っ只中にある。欧米各国ではインフレと景気後退の同時進行、所謂スタグフレーションの懸念がささやかれ、大規模なストライキとデモが頻発している。ウクライナにおける戦闘は泥沼化し、終わりが見えない。世界は今、不安定化の局面にある。それに加えて、急激な円安によって日本人旅行者はさらに厳しい状況にある。

 なぜ私は「このご時世に」欧州へ向かうのだろうか。その理由をはっきりとさせておきたいと思い、今パソコンに向かっている。

旅の意義

 私は以前から世界を旅するのが夢である。見たことのないものを見て回り、聞いたことのない音を聞いて回り、触れたことのないものに触れて回りたい。世界中にこれほど多様な文化が存在するということ自体非常に価値があるが、それを体験し、理解し、咀嚼しながら世界中の土を踏み歩くというのは何物にも代えがたい経験であろう。

 なぜか。それは、自分や自国を相対化することができるようになるからである。人はしばしば自分が考える「常識」にからめとられ、自分が置かれている環境や状況に疑問すら抱かなくなり、硬直して面白味を失う。自己の相対化は、そのような状態を避ける手助けをしてくれる。

 18世紀の代表的哲学者であるイマニュエル・カントは、他者の立場に仮説的に身を置いて思考することで、自己の視点の主観的制約を脱することができると説いた。「視野の広い思考様式 Erweiterte Denkungsart」 である。

 主観的制約を脱することができれば、創造力を得ることができ、革新的アイデアを生み出すことがより容易になるだろう。また、自分自身をより深く理解できるようにもなる。なぜなら、他者と自分の考えとを比べ、共通点や差異に気づくことができるからだ。

 このグローバル化した世界において視野の広い思考様式を獲得するには、様々な国の文化や経済、社会について、知識はもちろんのこと、感情や感覚すらも伴う理解が必要となる。それなしには、他者の立場に身を置くことは不可能である。

 従って、いろんな国を見て回ることは、視野の広い思考様式の獲得に資するという意味で人を大きく成長させる。そして、より創造的な人間になることにつながるのだ。

なぜ今なのか

 誰もが知る通り、この2年間私たちは非常な苦労と不自由を強いられた。多くの人がコロナによって職を失い、差別に苦しみ、命を落とした。ほとんどの人々が経済的に苦しくなった一方で、ごく少数の億万長者たちは保有資産を爆発的に増やした。あらゆる格差が拡大し、社会は疲弊した。また、人々の病原体への恐怖と鬱屈とした感情は不寛容と憎悪の種となり、社会の分断はさらに深まった。

 ようやくワクチンが普及し、感染が落ち着きを見せてきた頃、ウクライナにロシア軍が侵攻した。ロシアによる前時代的な武力行使は、世界中を驚かせた。兵士だけでなく一般市民も多く犠牲になり、ウクライナの戦場は惨憺たる状況である。

 また、環境破壊に伴う異常気象や森林火災が連日のように報道され、改めて現在の人間社会・経済の持続不可能性を思い知らされる。他にも、就職を考えるに当たって、日本経済の出口の見えない停滞を以前に増して自分のこととして捉えるようになった。最近では、安倍晋三元総理が凶弾に倒れるというショッキングなニュースもあった。これらの一連の出来事から、私には強く感じたことが1つあった。

 それは、「この世に常なるものはない」ということである。

 以前から、世の無常については頭の中にはあった。しかしこの2年間、今までのあらゆる「当たり前」が壊される様をまざまざと見せつけられたことで、「無常」を実感した。つまり、私がとかく当たり前だと思いがちなこと、例えば自分や家族の命、住んでいる家、自分の家族や日本全体の経済状況、日本の平和など、全ては次の一瞬に崩れ去っても何らおかしいことはないのである。すべてのことは、それほど危ういバランスの上に成り立っているのであり、それらが当たり前だと錯覚できるほどに安定して感じられるのは、ほとんど奇跡と言って差し支えないだろう。

 私は、大学の間たくさん旅をして世界を見て回りたかった。しかし、私が大学に入学してからは、海外はおろか自分の大学にすら行けない日々が続いた。すべての授業はオンラインで行われ、毎日自室にこもりっぱなしになった。友人もできず、また私も作る意欲を失っていた。

 この2年間自由に動けず、コロナも収まる気配がないため、最早私は大学時代に世界を旅することを諦めかけていた。

 しかし、今年に入ると多くの国々は徐々にコロナとの共生へと方向を転換した。私自身も3回目のワクチン接種を無事に終えることができ、以前よりも安心して生活ができるようになった。大学の授業もキャンパスで行われるものが増えた。ニュースでは、各国のコロナ規制撤廃を目にすることが増えた。

 そこで思ったのである。もしかして旅に出られるのではないか?

 調べてみると、3回のワクチン接種を終えていれば比較的容易に入国ができる国が多いことが分かった。また、タイミングよく返済不要の奨学金を受けることもでき、経済的にも行くことができる状況にあった。これはこの夏行くしかない。私は決断した。

 いつか行きたいと思っていたが、その「いつか」が無事に訪れる保証がどこにあるというのだろう。私がこの先、大きな旅をする体力的・時間的・金銭的余裕を同時に持ち合わせることはもう二度とないかもしれない。平和が損なわれて、旅に行けない国が増えるかもしれない。

 実際、私の両親は20世紀終盤に世界を旅したが、その時彼らが訪れた中東諸国は、今ではとても旅行などできる状況にない。

 古代ローマのストア派哲学者セネカは、人生それ自体が短いのではなく、我々がそれを短くしているのだと説いた。明日があるからと今日を蔑ろにすることで、人生はどんどん短くなっていく。

 今できることも、明日にはできなくなるかもしれない。やりたいことがあって、今できる状況にあるなら、今やるべきなのである。何を待つことがあろうか。何を躊躇うことがあろうか。

 大学3年の夏といえば、今の大学生にとっては就活の正念場の1つである。多くの学生がインターンシップや選考対策に勤しむ。だから、私は旅に出ることによって就活においては遅れをとるのかもしれない。

 企業から選んでもらえるような人材とは何かを学び、自分が社会でどのように活躍できるのかをイメージすることはもちろん重要である。また、さまざまな競争に勝って自分の思い浮かべる将来を掴みに行くことも大事だ。

 しかし、それに忙殺されて自分が本当にすべきだと思うことを後回しにすることは本当に得策なのだろうか。私はそうは思わない。少なくとも長期的に見れば、私の大学3年の夏は就活ではなく旅に費やした方が、はるかに有意義なものになると確信しているからである。できる時にすべきことをする、それが人生を「長くする」ことにつながるのである。

 確かに今は旅行するには非常に厳しいご時世だし、普段の旅行にはないような困難に直面することもあるだろう。しかし、私は幸運にも今、旅に出られる状況にある。私は今、旅に出るべきなのである。

 このような理由から、私は旅に出ることを決断したのだ。

なぜ欧州か

 では、行き先はなぜ欧州にしたのか。もちろん、医療の発展度合いや入国規制の緩さ、シェンゲン協定や統一通貨による旅のしやすさも大きな理由である。

 しかし、1番大きな理由は、その文化と歴史の豊かさである。

 私が大学で学ぶ政治学や経済学を始め、人権や法治、民主主義という考え方、近代国家の形態などは、全て欧州において生まれた。欧州が近代日本の形成に与えた影響は、言わずもがなである。

 どのような文化的・地理的条件のもとでこれらが形成されてきたのか。欧州と一括りに言っても、国によってどのような違いがあるのか。なぜ欧州は欧州なのか。

 たかが1ヶ月半の旅で分かることなど知れているのかもしれない。しかし、私は多くの国を周り、その気候や風土を肌で感じ、車窓から地勢を観察し、人と話して文化や習慣を知りたいと思っている。そうすれば、1ヶ月半の旅からも非常に多くを得られると確信している。また、勉学においても理解の幅が広がるだろう。

 今回の旅を通して、自分の思考様式をより「視野の広い」ものにし、創造性を高め、自己に対する理解を深めることができたら、それほど嬉しいことはない。この貴重な機会が豚に真珠にならないよう、たくさん学んで来たいと思う次第である。

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