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映画感想「シン・ウルトラマン」…昭和41年の疑似体験

本日、AmazonprimeVideoでシン・ウルトラマンが配信された。
今年の一押し映画について拙文を書きたい。

80年代生まれのウルトラファンが持つ「渇き」

まず自分は、ちょうどウルトラシリーズが過去のものになっていた時代に生まれ、再放送、ビデオレンタルで観てウルトラ大好き、な少年だった人間。雑誌や怪獣図鑑をボロボロになるまで読み込んでいた事もあり、映像を観る時は大方内容を知ってしまっていた。それがつまらなかったか、と言えば決してそんな事はないのだけど。
常々、もっと早く生まれていればこの素敵なテレビ番組を新鮮な気持ちで楽しめたのにな、という思いがあった。
ティガが始まった頃は思春期さ中で特撮番組からは離れており、所謂平成ウルトラマンをリアルタイムで視聴するのは一周回って特撮が趣味に戻ってきた頃の、ネクサスが初めてだったのである。
新しいウルトラマンも魅力的だったが、やはり幼少期に惹き込まれたウルトラシリーズは自分の中で別格で、この世に生を受けた時期により叶わない「リアルタイム体験」への渇望が満ちる事はなかった。

偉大な先輩、庵野秀明&樋口真嗣

シン・ウルトラマンはエヴァでお馴染みの両雄が手掛ける、初代ウルトラマンのリブート作品。この二人がリアルタイム世代であり生粋の特撮オタクである事は周知の事実。6年前にシン・ゴジラで一世を風靡した事も記憶に新しい。
言わば私にとってはウルトラファンとしての先輩、格上のオタクおじさん達になる。私生活で知り合えば楽しいか鬱陶しいかの話し相手にしかならないであろうがこの方たちは作り手側でかつ、実績の確かなプロである。そんな方たちが届けてくれた映画により、私の夢はいくらか実現することになった。

空想特撮映画という本質

ウルトラマンは元々、前番組ウルトラQを引き継ぐ特撮番組であり流れとしては怪奇ものの色がある番組だった。最初はヒーロー物として作られていた訳ではないが、当時の爆発的な人気がウルトラマンを確固たるヒーローにしていったのであろう。その風潮は特撮としての先駆者であるゴジラにも伝播し、かつて人類の敵だったゴジラをヒーローに変えてしまった程である。だが、ウルトラマンの本来の趣旨は地球にやってきた宇宙人、怪獣が日常を変えていく「空想」、それに憧れを抱かせる「浪漫」だったと思う。
シン・ウルトラマンはその本質を捉え、正しく現代に初代ウルトラマンを登場させた。冒頭がウルトラQの再現であったのがその証左である。

ファーストコンタクトと牧歌的な空気

シン・ゴジラと同じく、現代の日本に「初めて」ウルトラマンが現れた場面を描いているこの映画。だがその後はゴジラと違い、比較的あっさりウルトラマンを受け入れ馴染んでしまう所に緩さを感じる。
思えばオリジナルのウルトラマンも、第一話から科特隊はウルトラマンの存在を「怪獣を倒してくれた味方」としてしか認識していないお気楽さがあった。だがそれが39話というエピソードを重ねて作品のカラーとして一貫していた事で観る側も受け入れていたように思う。
特撮番組のリメイクとなると、やたらリアリティ重視で深刻な雰囲気を作りたがる作品が多いが、初代ウルトラマンはこれが正解なのだ。
2戦目のガボラで、船縁さんの「今回はウルトラマンは来ないのかしら~?」というダルそうな物言い。渦威獣の名前が命名と同時に浸透する部分も含めて、異様な順応力を見せるウルトラマンワールドの人々である。

外星人との価値観、見解の相違

ガボラ戦でウルトラマンが人間の見方だと確信したものの、それ以降は渦威獣ではなく外星人による侵略計画が始まる。ザラブ、メフィラス共に官僚に取り入って人間社会の破壊や支配を目論む。ウルトラマンが同僚の神永新二だと知った後は渦特対とウルトラマンは連携を取り、侵略者を退けていく。しかし、人間の進化を危惧した光の星の監視者、ゾーフィが地球そのものの滅却にかかり、地球は最大の危機を迎える…。

5つのエピソードがオムニバス的に連なっているので映画としての盛り上がりに欠ける部分はあるが、通してみるとウルトラマンと人間の関係性が進展し、双方の力を合わせ最終決戦に挑む流れはしっかり映画的だったと感じる。津田健次郎氏、山本耕史氏、山寺宏一氏といった名優の力で恐ろしくも魅力的な外星人達が見どころ。特にメフィラスは全ウルトラシリーズの中でも白眉の敵役ではないかと思う。

最終回「さらばウルトラマン」

初代ウルトラマンは、40%前後の視聴率を叩き出す超人気番組ながら制作状況の逼迫により39話で終了する。その最終回はご存じゼットンに敗れたウルトラマンが地球を去るというものだが、これが随分とあっけない。ウルトラマンもすぐやられてしまうし、そのゼットンもペンシル爆弾一発で終わる。しかしここから、「ゼットンはとても強いが、倒される時は一瞬」という不文律が後の作品にもあるような気がしている。
そしてそれは、シン・ウルトラマンのクライマックスにも反映されるのだが…

誰が考えるかこんなこと

ウルトラマンは今年で56周年。シリーズも数知れず、ではあるが「ベーターカプセルによって変身する」のメカニズムを解いた作品はこれが初めてではないかと思う。もちろん高次元領域なるファンタジー要素をもっての解明であり「なるほどわからん」な話ではあるが、誰もが「そういうもの」として流していた部分に切り込んだ庵野監督、いかに日頃ウルトラマンの事を考えて過ごしていたのかがもう判ってしまう。やはり偉大な先輩なのである。そしてそれが最後の戦いにおける決め手にも繋がる。ウルトラマンは変身に時間をかけない、一瞬である。その一瞬の輝きを以て、令和の「さらばウルトラマン」が描かれた時この映画に惚れ込んでしまった。
無意味を無意味と思わず取り組んだ先に、「好きな気持ち」が感動を呼び込む。56年間、誰も考えなかったことを表現した革新的な作品である。

2022年に叶った「原体験」

勿論、昭和41年にタイムスリップしなければ不可能であることは理解しているが、初代ウルトラマンを初めて観て、それを他の人間と共有するという体験が、令和4年に出来たという感慨がある。
これは新しいウルトラマンであり、初代ウルトラマンなのだ。
別記事で触れたように、世間でウルトラマン人気が高まっていくのも目の当たりに出来た。生まれた時期のために叶わなかった夢を叶えてくれたシン・ウルトラマン。お世辞抜きに「自分の為の映画ではないか」と感じる程のフェイバリット作品になった。もはや、好きな要素しかない。
初見時は受け入れがたかったゼットンも今や問題ない。プラモデルなど出たなら買ってしまうかも。

ウルトラマンを好きで良かった。
今年まで、生きてきて良かった。

「だからエヴァンゲリオンを推していたのか、賢しい選択だ」
「そうではない。だが結果的にはそうだとも言える」

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