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古今叙事大和本紀 第二章 明石の怪物 3 完結

 暫く集落の中を散策しながら、吉備津彦の姿を探していると、『明石、そして黄昏の場』と大きく書かれた立て札が、まるで岳達の行先を邪魔するように存在していた。

「明石や黄昏の場はわかるけど、そしてって何よ、そしてって!!!」

 吉備津彦が見つからないのがそんなに腹立つのか、天鈿女は相変わらず肩を怒らせながら、挙句の果てに立て札にまで当り散らしていた。
 とりあえず、触らぬ神に祟りなしと上手い事を言っておこうか。
 その立て札をすり抜けると、悠然と広がる明石の海が広がりを見せていた。我が母である瀬戸内とは確実に違う雰囲気に岳は息を呑ませながらその場へと立ち尽くした。
 遠くに沈む太陽の光がやけに眼に染みる。水面に映し出されている光と影、煌びやかさが何とも美しく思え、確かにこの場所が黄昏の場と語られても可笑しくないと岳は思った。
 海に浮かぶ島や、それよりも小さく浮かぶ近しい漁船。海辺で騒ぎながら釣りをしている童。そして広がる明石海峡。
 話に聞けばこの国は窮地に起たされているらしいのだが、この景色を眺めていると、結局は安寧ではないかと思った。

「岳ぇ…、この景色。何だか素敵ね…。」
 同じ景色を、同じ視線で見えている。民と神が同じ描写を浮かべている。そう思った瞬間、岳の瞳から涙が零れ落ちてくる。
「岳ぇ…。何で泣いてるの…?」
 あめたんの言葉で自分が泣いている事に気がついた岳は、即座に腕で頬を伝う涙を拭い、出来るだけの笑顔を浮かべた。
「否、何でもない。吉備津彦を探そうっ!!」
「ふーん。そう…?岳がいいなら私もいいけど…?」
 含みがある言葉はもう慣れている。それに突っ込まず、夕日に照らされている影を長く伸ばさせながら路を進ませていると、深い帳のそばに大きい三人の影が、息を潜めるように佇ませていた。

 何かを企てているように張り付く三人の影をよく見てみると、その中にまさかの吉備津彦の姿があった。
「何やってんのかと思いきや、こんな所で何日和見かましてんの?私達がまるで馬鹿みたいじゃない…。」
 吉備津彦を探し求め、彷徨っていた筈が、見つかった瞬間何故かそんな言葉を浮かべた天鈿女を少し不思議に思えた岳は、思わず窘めるような口調で促した。
「否、あめたんよ。どこか雰囲気が緊迫しておるぞ…。少しだけ様子を見ておこう。」
 どこかヒソヒソと会話している大人の三人の姿は、辺りから見ると確かに奇怪に映る。それを気づいてないのかは露知らず、身を潜めるおっさん達。多分、吉備津彦は地理からして知らぬ民なのだと思うが、それにしても真剣な面持ちで男達の話を聞いていた。

「岳…、私、とてつもなく嫌な予感がするのよね…。」と、天鈿女。
「いや、私も実はそんな気がしなくもないのだ…。」と、やはり岳も思ってしまうのはどういう因果なのか…。

 暫く二人は、そんなおっさん三人が結託している姿を、呆然と見尽くしていると、ふと三人が散っていき、こちらの姿に気がついた吉備津彦は、三人といた時の表情と打って変わり満面の笑みを浮かべ、手を振りながらこちらへと近づいてきた。
「やや、暫く、暫くっ!!!」
「貴方っ!!何結託するように怪しい談話してんのよっ!!」
 やはりこの男にだけは厳しい言葉を掛ける天鈿女は、まさか過去に何かの揉め事でもあったのではないかと思わざるを得なかった。
「いや、そうではござらぬのじゃ…。実はというと…。」
 吉備津彦が徐に語り始めた話は決して不埒な事ではなく、この地の民が今、切実に心痛めている話で、それはそれは重い内容である事から全く興味のない天孫、五課係長も聞かざるを得ない状況になった。

 それは、いつの日か、いきなり大きい蛸の怪物が海峡に現れて、海産物然り、その他建物まで破壊しながら暴れつくしていて、いつかはこの街も壊滅状態になる事必死という話であった。
 何とも切実で、困窮した話である。しかしながら、我が身の方向は大和に向いておる訳で、冷たいようであるが全然関係のない話である。
 そんな訳で、岳も天鈿女も吉備津彦が語る熱も何となくとしか感じる事もできず、ぼんやりと促していた。すると…。
「二方共っ!!!何をぼんやりと聞いておるっ!!この地の民が瀕しておるのだぞっ!!今こそ我らが天孫、立ち上がる所ではないのではないかっ!!」
 はらはらと涙を頬に伝わせながら、まるで誰かに伝えるように、拳を突き上げながら天に叫んだ。
 聞いていたら確かに困った話なのだが、感極まる吉備津彦の口調からどこまで切実な話なのか全くもって伝わってこなかった。只、この男が無駄に熱いと初めから分かっているこの二人だから尚更である。

「我々は先を急がなければならぬのです。この地の問題はこの地の民が解決せねば、未来を紡ぐ力にならないのですよ?我々が賜う話でもないでしょうが。汝は吉備だけを護っていればいい。分を弁えよ、吉備津彦…。」

 心に巣食ったこの女神が、我が心中を悟る描写のその又逆も然り。
 岳も大分天鈿女の心情描写が分かってきたのだった。こんな仰々しく言葉を発しているのだが、実はというと関わり合いを持ちたくないと言っているに等しいと分かってしまい、ちょっとほくそ笑んでしまった。
 その姿はさておき、天鈿女の言葉に吉備津彦の目の色は暗くなり、落胆するように膝を割り、腕を前に大きく広がせては、やはり誰かに伝えるように大声を上げた。

「嗚呼…、狭野尊大先生…。我をお許し下さい…。この者達は何も知らぬのです…。」

 その叫び声に天孫、五課係長は焦るに焦り、それに叫び声で返した。
「あああっ!!これ、やめなさいっ!!!。分かったわ、行くわよっ!!たくっ…もうっっっ!!」
「流石は天鈿女様っ!分かって下さりましたかっ!?では、参りましょうぞっ!!いざ、海峡へっ!!!」
 何故か足を軽く弾ませながら、吉備津彦は嬉しそうに駆け出した。仕方がなくそれについていくようにとぼとぼと歩き始めた天鈿女に、岳は言葉をかけた。

「あめたんよ、大きなタコとは如何なるものじゃ…?」
「猪に熊、何にしたって大きいって事は邪な神よ、結局…。嗚呼、ホント嫌な予感が的中しちゃたわ…。」

 その言葉に只ならぬ雰囲気を感じ、岳は思わず短剣の柄を掴みながら路を暫く進ませていくと、前方に大きな島が現れた。というより、播磨に入ってから幾度と見え隠れしていたのだが、海峡を目の当たりにしたこの地で、その島がまるで横たわる巨人のように思えた。

「得っ…?」

 ふと視線の左側に何やら激しく蠢く影が目に飛び込んできた。
 気になってその影の場所へ駆けていくと、言葉なのか、奇声なのか…、全くもって理解できない叫びを発しながら暴れ踊る、馬鹿でかく気色の悪い軟体生物がそこにいた。
 それは眼から邪悪な黄色い光を放たせ、口と思わしき大きな穴を、広げては縮め、縮めては広げながら荒々しく発する気が次元さえも歪ませていた。

『オゥッッッ、イエッ!!!カモン、シャケナベイベエエエエエエッッ!』

 耳を塞ぎたくなるような唸り声と、生まれてこの方初めて見る禍々しい神の姿に恐れ戦慄いていたが、流石の洞察力であると言えよう。多分触手のような物だろうか、その影が八本蠢かせている事に岳は気がついた。
 触手が岬の岩に当たり、木っ端みじんに砕け散った。
「アウチッッッ!!!」
 そう叫ぶや否や、違う触手で海を弄り、泳ぐ魚を捉えてはその口のような穴に放り込む。すると…。
「オウッッッ!グッドッッッ!!!!」
 再び違う所に触手を当てると、「アウチッッッ!!!」そして、又もや魚を頬張ると、「オウッッッ!グッドッッッ!!!!」と、その繰り返しであった。
 その元で逃げ惑う民衆と、荒れ狂う海。雲泥の影がその先に見えている島と同じぐらいの邪神をより邪悪に映し出していた。
 しかしながら、岳は思った。『只、食い散らかせているだけではないのか?』、と。
 やはり逃げ惑う群集の中、只一人、抜き身の剣を手にして仁王立ちに構える男の姿があった。付き合いはまだまだ短いのだが、あの男だと瞬時に分かった。

「やあやあ、我こそはぁぁぁぁぁぁあっっ!!!第七代孝霊の天皇の御子にしてえええええっ、今の天皇の大叔父、彦五十狭芹彦也いいいいいいいっ!!!」
 得意げな顔を浮かばせながらもう一度息を吸った。
「人はまたああああああっ!我を、吉備を護りし男…。即ち、吉備津彦と呼ぶっ!!!!この地の安寧の為、我が武功の為、その首を…貰い受けるっ!!いざっ、尋常にっっっ!!!!」

 そう叫び終えると、巨神の影へと飛び込みながら、又もや叫び声を上げた。
「秘剣っ、三本足っっっ!!!」
「えっつっ!?吉備津彦っ、それ、できるのっっっ!!?」
 天鈿女の唐突たる反応に、隣にいる岳は『それは何だ?』と、驚きつつも、それよりもこの巨神に首はあるのか?という疑問の方が勝っていた。
 吉備津彦の飛ぶ影が、触手辺りに差し掛かると、一本の刃がまるで三本あるかのように見え、そして、巨大な一本の触手に迫った。

「ホワッツ、ハプン…。オオウ、シットッッッ!!!ユウル…ダァイ…。」

 素早くその刃に触手を絡ませて、吉備津彦の影を天高く弾き飛ばした。その影はこちらの方へと迫ってきて、天鈿女の横へとまるで藁人形のように落ちてきた。

「何とおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」

 吉備津彦は即座に起き上がると、膝をつき、両腕を広がせて、天を仰ぎながら吠えるように叫んだ。
「何とっっっ!!大先生より賜わりし、秘剣が破られるとはっっっ!!」
 その姿に天鈿女の冷たい言葉が降り注ぐ。
「アンタ、何言ってんの…?二撃しか出せてなかったじゃないの…。」
「否…。そんな筈は…。」
 信じられない矛盾と、切り刻まれたこの心身。吉備津彦は目の前に広がる描写と、横に佇む女神の姿にこう思った。

『これでは…前門の虎、後門の狼ではないか。』

 我に味方はいないのかとそう思った矢先、肩に人肌の温もりを感じ、その方へ視線を向けると、そこには表情を赤黒くさせて、興奮している岳津彦の姿があった。
「吉備津彦よ、我も助太刀するぞ…。」
 その言葉にどこか救われたような、歓喜に満ちた感情が湧き出てきて、今こそと力強く立ち上がる。そして、穢れ無き瞳を爛々と輝かせ、お互い一つだけ頷かせた。
「岳…、共に行こうぞ…。」
 吉備津彦のその言葉を合図とするかのように、二人は天高く雄叫びを上げながら巨神へと突っ込んでいった。

「貴方達っっ!!ちょっと待ちなさいっ!!!!」

 天鈿女の押し留める言葉も二人の耳には見事届かず、本当は一なのだが、まるで八対二である乱戦の火蓋が切って落とされた。
 重なる影。迸る殺意。無駄に漲る熱気。剣より放たれる閃光。そして、雄叫び…。躍動する魂と、穿った激情が交錯する刻。それは荒れ狂う海よりも、吹き荒ぶ風よりも、大きなうねりを生じさせていた。
 激しい戦いを繰り広げている中、呆然と見守るしかない天鈿女は、ふと、ある事に気がついた。吉備津彦が溌剌と剣を振るわせている横で、珠の術を繰り出す岳の動きがやけに重い。

「た、岳っ…?」

 天鈿女が言葉を発した刹那、岳津彦は短剣を地に落とした。横で奮戦する吉備津彦がその姿を横目に叫ぶ。
「如何したのじゃっっっ!!?」
 しかし、その言葉に否応なく、既に顔から生気は失われ、泡を吹きながら後ろのめりに倒れていった。
 こうなってしまうと、八対一になった吉備津彦は、声をかける暇もなく、触手からの攻撃をかわすのに必死。最早どうする事もできない。
 尋常ではない痙攣を起こしている岳の粟に塗れた口から何かが呟かれていた。その口の形から何を発しているかと悟ると、この巨神と同じような言葉を呟いていた。

「アイム、デエモン…。アイム、デビウ…。アイム、サタン…。オウ、シット、アイル…ダアイ…。」

 天鈿女はその姿に慌てふためいた。

「ちょっ!!!!あの子、何気に呪われてるじゃないっっ!!!しかも、海外の呪われ方っっっ!!!」

 焦る天鈿女に乱戦の吉備津彦。そして謎に呪われた岳津彦…。戦う術はこれ以上なかった。
 流石の吉備津彦も八対一では歯が立たなく、次第に押されていき、剥ぐ剣で触手を受ければ脇腹を刺され、同時に頭へと力が落ちてきて、はたまた顔面へと衝撃が走る。正しく四面楚歌の状態であった。
 岳は白目を剥きながら、相変わらず訳の分からない言葉を発していてどうしようもない。   
 圧倒的にやられている吉備津彦の命さえ危うくなってきた今、嘗て高天原で一度はこの世を救った伝説を残した天鈿女は、意を決して、徐に身に纏う衣を剥ぎ始めた。そして…。

「さあ、たこちゃんっ!!これが大和撫子の妖艶な踊りよっっ!!特と御覧なさいなっっつ!!!」

 まるでどこからか放たされている一つの光に輝かせ、放漫な乳房を揺らせながら、腰を激しく上下左右にくねらせ踊る。
 そこには堂々たる天鈿女命様の姿があった。

「ホワッツ、ハプン?オウ、イエイッッッ!!イッツ、ナイス、ファンタジアッッッ!!!!」

 どこの国から来たのか分からぬ邪神も、世界三大美女の選考前に存在しているホワッツ、ハプンな天鈿女の姿に、目の形は心の蔵そのものに見惚るというより、恋焦がれてしまった。

「アイ、オンチュー、アイ、ニージュー。アイ、ラビュー…………。」

 もしかすると茹で上がってしまったのかと思う程、たこちゃんは全身を赤らめさせ、動きを収縮させていく。
 その反応にその気になった天鈿女は、まるで寄せては返す波動のように、乳房と腰をうねらせながら、右腕を自身の首に絡ませ、左腕を扇のように広げながら叫ぶ。

「あらあら、たこちゃんっ…私に惚れちゃだめよ?…ふふふっ。だって、私は、世界中の男の為の天鈿女だものっっっ!!!どうっ?今は貴方の為だけに踊って見せてるだけなのっ!」

 まるで口づけを投げるような仕草を見せ、右目を瞬時に閉じると、次の瞬間、背姿を見せながら、尻の肉をわざと揺らすような踊り…。
 ええい、もういいっ!!ひらがな語だけでは表現方法に限界があるのだっ!
 ここは著者である私が、適切に、そして的確に。艶めかしく、妖艶に。そして美しく、その描写を語らせて頂こうか。
 あめたんのダンスは正しくポールダンサー其の物で、赤やピンクの暖色や、青や緑の寒色の光。時折眩い黄色に照らされながら、そしてストロボ炊かれた演出がニクく、その真っ赤なルージュがセクシーに瞬間を映し出し、それが更に妖艶さを増した。
 長い睫毛を幾度と瞬かせながら、ピンクの舌先をペロリと見せ、忌々しいこの邪神を段々と虜にさせていった。
 今がこの刻だ思った天鈿女は、すぐさま吉備津彦へと言葉を投げた。
「今よっ!吉備津彦っっっ!!!!奴の脳天へと、あの人から賜った術を存分に施しなさいっっっつ!!!!」

『これで終わる。岳の為に恥ずかしい想いを投げ捨て踊るこの描写もやっと終焉を迎える事ができる…。まさか、ぱぱらっちされてないかしら…?そうなっちゃうと、本当に世界の天鈿女になっちゃうのかも。そうなればそうなったで、まあ、手っ取り早い話なんだけどね…。うふふふ。』
 
 天鈿女の妄想、約二秒。
 衣を剥いで踊り始めた刻から数えると、随分刻が過ぎているのだが、ある意味意気消沈させている目の前の邪神から、断末魔の叫びは聞こえてこない。まさか、既に吉備津彦が息絶えているのかと思い、焦って戦いを交わしていた方へと視線を向けた。
 そこには、直立不動で、目を見開いてこちらを、というよりも確実に天鈿女の身体を直視しながら堂々と佇んでいる吉備津彦の姿が見えた。
 その横には全身まっ赤のまま、青春吐息を常に漏らしながら明後日の方角へと切ない視線を向けるたこちゃんがいて、そんな姿から戦意など全くもって醸し出されていなかった。
 それはそれで安心し、ほっと息を撫で下ろしたが、しかしながら遺憾ともし難いその男に、天鈿女は粟を生じる想いに苛まれていった。
 全身、名誉の負傷に塗れて、腕や腹から血が滴り落ちている筈が、眼からはまるで少年のような生気溢れる力のようなものが漲っており、その相反した様子が余計に気持ち悪さを醸し出している。
 普段、男のイヤらしい視線に慣れている天鈿女も、次第に我慢できなくなってきて、これまで自身でも浮かべた事がないと思う程冷ややかな視線を吉備津彦に向けた。

「アンタ…いつまでこっち見てんのよ…?」

 その声に全身をビクつかせて、我に返り、まるで感心したような声を発した。
「いやあ…、これが高天原に伝わる天鈿女命様の御神体…。いやあ…、素晴らしい…。この日のこの描写は私の一生の家宝に致しますよ、ええっ…。」

 何のフォロにもならない言葉を幾度浮かべられても、どの足しにもならないと思い、想いのまま叫び散らした。

「アンタの為に脱いで踊ってんじゃないのよっ!!!何で私が叫んだ時にトドメ刺さないのよっっっ!!!!」

 その声が吉備津彦の耳に届いたのか届かなかったのか、暫く天鈿女の身体を見尽くすと、いきなりおどけて見せるように、肩をしかませて、両腕を軽く胸の横へと開かして、両手を上に向けた。

「ほわっつ、はぷん…?」

 その言葉はあやつの真似か?それともノリなのか…?
 額に三本の皺を寄せさせて、基本髭に覆い尽くされた顔なのだが、まるで喜劇役者のような剽軽な表情を浮かばせて、らしくないおどけた姿を見せる吉備津彦に天鈿女は殺意を抱いた瞬間だった。

「お姉さんに私が耳打ちすると、立場どうなるか、わかるわよね…?ホント調子に乗ってると、ガチでアンタの査定に響くわよ…。」

 身体をゆら揺らしながら静かにそう呟く天鈿女の背後。何もかも吸い込んでいきそうな暗黒の中に、幾千と細かく迸る雷が激しい音を轟かせており、次第と空間諸共を浸食させていく。
 今や思春期の少年のような表情を浮かべる横の巨神が姿を現した刻よりも、それはそれは邪悪…もとい。殺伐とさせた雰囲気を辺り一面に噴出させていて、吉備津彦の額にどっと冷ややかな汗が滝のように流れ始めた。

『査定…。まずい、これはまずい事になったぞ…。この立場を逆転するには、横にいる巨神を逸早く倒さなければならなくなった。しかしながら、今のこやつは…。』

 そう思い横を見ると、黄昏の光に暮れなずみ、邪神と思わしからぬ表情を浮かべては、その瞳の端からは何故か白い涙が薄く零れ落ちていた。
 それはまるで、男女問わず恋に落ちた者が醸し出す雰囲気そのものであり、そんな少年のような頭上に剣を突き立てるなどと、敵ながら吉備津彦の良心は痛んだ。
 剣の柄を握れば離し、査定という言葉を思い返しては又もや握りと躊躇しては、上司の顔を窺うと、そこには先日我が社が催す勉強会議、『世界の神々と大和の備え、隣国の儒教に負けるなっ!330』で教わったばかりの鬼神のような出で立ちの天鈿女があった。

『いやいやいや、あれ、こないだ習ったばかりの夜叉ってやつだよ…。女って怒ればやっぱこんなんなるのかよ…。怖えな、マジで…。つか、これ、横の馬鹿の命を庇っても仕方がねぇよな。どこから訪れたのか分かんねえけど、この場所にいるのが悪い訳だし…、うん…。よし…、やるかっっっ!!!』

 意を決した吉備津彦は、自身の血に塗れた手に力を宿して、柄を力強く掴み、暫く祝詞を小さく唱えた。そして、徐に剣を天に翳しながら叫び声を上げた。

「いくぞ、忌まわしき邪神よっっっ!!!今こそ我が力の真髄をくらえっっ!!!」

 そう叫びながら、巨神の頭上の傍へと跳ねていった。あの調子のまま、その吉備津彦の影に気づかぬこのタコ(笑)
 生身の人間とは思えぬほどの脚力で跳ねた事により、この時代にはまだまだ発見されていない重力という理がその力を倍増させる。

「覚悟おおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!」

 雄叫びと刃が鮮やかに巨神の頭上へと突き刺さると、次の瞬間、吉備津彦はまるで引導を渡すように剣を横一線に走らせた。

「ふぁあああああああっくううううああああああああああぱぱ!!!!」

 巨神の断末魔の叫びが、まるでこの地を呪うように辺り一面に響いた。

「やったあああっ!!流石は吉備津彦っ!!。たこちゃん…。他教の言葉だけど、来世で愛し合える間柄になるといいわね…。お休みなさい。」

 そうとだけ言い、天鈿女は半ば笑顔を浮かべながら、片目を瞬時瞑る仕草を見せた。
 すると、今こそ死地へと旅立とうしているこの巨神から、最後の力を振り絞るように、苦しくも切なく、しかしながら誇らしげな叫び声が発せられた。

「センキュウ、マイハニイイイイッッッ。マイ、ネームイズッッッ、クラアアケンッッッ!!!ユア…マイ…フォオエバッ…。」

 そう言いながら即座に後ろ向きに倒れていった。
 暫くは激しい津波が辺りの海岸を襲い、全てを包んでいく。
 もしかすると、その余波で吉備津彦まで…。
 そう思う矢先、天鈿女の側へと又もや藁人形のように落ちてきては即座に立ち上がり、そして天へと雄叫びを上げた。

「何とおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
「だから何よっっっ!!!」

 雄叫びの意味合いが理解できなかったが故思わず突っ込んでしまった。何故かはらはらと涙を零しては、大きく腕を広げながら跪かす吉備津彦にはその言葉は届いていなかった。

「嗚呼…、神よ。我をお許しください…。この者は何も知らぬのです…。」
「だから、それやめなさいって言ってんじゃないのっ!!第一、意味が分からないわっっっ!!!」

 先ほどはすぐ反応を示した吉備津彦だが、今回は何を思っているのやら、天鈿女の叫び声は届いていない様子で、滴り落ちる涙は頬を伝い、顎から大地へと落ち続けていた。
 吉備津彦はもう一度叫んだ。

「おお…、狭野尊大先生っっ!!!」
「ちょっと、アンタッッッ!!!!」

 天鈿女の叫ぶ声もやはり虚しく、何か、どこか劇的に傷心姿の吉備津彦。クラーケンは多分男の子。それだけ言えばあの描写の意味も理解して頂ける筈…。
 ま、岳津彦の命を護るには致し方ないと判断した吉備津彦に罪はない。男の視線にはめっきり慣れていると豪語する天鈿女も、そんな淡い男心まではどうやら理解できていないらしい。
 知らぬまま呪縛され、そして知らぬ間に解かれて眠る少年、岳津彦。
 運命に翻弄され、意味不明、理解不能な事ばかり起こる最近に戸惑いを隠しきれない事は確かではあるのだが、何もない生き方よりもこんな方が愉快だときっと思っているような表情を浮かべてすやすやと眠っていた。
 さてさて、とんちんかんな旅はまだまだ続く。
 岳津彦よ、今だけはお休みなさい…。

 明石の怪物 3 おしまい    第三章 服部一族の秘密に続く

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