スポーツウォッシュと資本主義についての備忘録

「人新世の資本論」著者である斎藤幸平氏による論考が素晴らしかったので、それを受けて思ったことの備忘録です。


今回のオリンピックにおける忌避感

自分はスポーツ業界に10年以上在籍しています。が、特にスポーツが好きだったわけではなく、スポーツシューズという道具のカテゴリーが好きなので在籍しています。なのでそれほどオリンピック自体に興味があったわけではありません。
(用具や衣装のチェックするのが楽しいね)

とまあそれほどオリンピック自体に熱狂しない自分もこれまではテレビで結構観てたのですが、今回のオリンピックは忌避感というか全く見る気が起こりませんでした。と言っても絶対見ないぞ!とかいうものじゃなく、やってたらとりあえず見るくらいの受動的スタイル。ただここ数年ずっとNETFLIXかYoutubeしか家で観てないので意思をもってチャンネル変えないと観なかった感じ。てことで観たいという意思が無かったので実際ほぼ競技見れてないです。スポーツ企業社員として良くない行為なのはわかるし批判されても仕方ないけど、思想が会社と同じわけじゃないし忌避感があるんだから仕方ない。身内が出てるとかなら違うんでしょうけど。
さて、この忌避感が何なのか、しっかり己の中で整理出来てなかったんですが、まさにそのポイントをこの論考では言語化してくれていました。ありがたや。


まとめると、
今回のオリンピックは「スポーツは素晴らしい」の下に多くの暴力性が黙認されて美談に昇華されている状況が確実にある事が顕著にわかり、それが自分は非常に嫌だったのだなと。

スポーツという「コモン」

いかにもオリンピック否定派みたいなこと書いてますが、間違って認識していけないのは「オリンピック否定派=スポーツ嫌い」という単純な図式ではないこと。というか自分は別にオリンピック否定派ですらないです。さらに後述の通り自分はスポーツの持つ可能性をかなり高く評価しています。

論点は、斎藤幸平氏の言う通りスポーツは本来人間にとって「コモン」な存在であるはずという事です。スポーツは人間が生み出した素晴らしい身体活動であるはず。近現代だとスポーツという身体活動があったからこそ思春期の精神不安定な時期に打ち込める対象が出来て、思考活動である勉学とのバランスが取りやすくもなっていると思ってます。智・徳・体。もちろん合う合わないはありますが。でもスポーツって一般的にはこういうコモンな存在なはずなんですよね。

今回の違和感は、そういうコモンな存在が祝賀資本主義の「スポーツウォッシュ」に使われたということ。ほんとに自分にとっては物凄く嫌〜〜〜な違和感になってな…(だって金儲けしたいの見え見えなんだもん) 

スポーツ自体が勝利至上主義になったのはもともと争いの代替でもあるはずだし勝敗があったからこそ広まった経緯もあるはずだけど、たぶんそれが世界レベルまで拡大したことが巨大資本に繋がった理由な気がするなあ…


スポーツという「アヘン」

文中にあった言葉です。
自分はスポーツ観戦の映像を見る度に、村上龍「海の向こうで戦争が始まる」に、“人間に必要なのは熱狂と興奮と恍惚だ”と書かれてたのをいつも思い出しています。人間を人間たらしめる要素の1つなんだなあと。もちろん自分もスポーツ見ててオオッと思うときあるし。

これには勝敗というドラマ性と、ギリギリの身体性(リアリティ)が不可欠なんですが、それって現実世界だと命に関わることなんですよね。中世以前の闘技場が良い例。都市には絶対にあったくらい民衆にとってのアヘン的存在だったんです。今もデカい都市には絶対スタジアムあるし。
そんな中で、人命を奪わないスポーツは最も身近なアヘンとして世界的に流通していったのだと思います。何よりスポーツって視覚的にもわかりやすい。視覚的なのは広まるし、強い人間って広まる。アヘンと違って身体は蝕まないけどね。そういった意味ではアルコールのほうが例えとしては近いかもしれない。

スポーツウォッシュ

スポーツは「コモン」であり「アヘン」である。これって結構最強の組み合わせで、合法麻薬的存在なんですよね。悪い面が仮にあっても、それが非常に見えづらくなる。なぜなら良い面のほうが見えやすいから。
現にオリンピックはこれだけマイナス収支になったり負荷がかかっていても、この作用による「スポーツウォッシュ」によって、美談として、神話として処理される。神のやってる事だから仕方ないよね、となる。神の動作を見ようと参拝する。熱狂して興奮して恍惚する。ちなみにそれ自体はそれほど特に問題ないのです。
問題は規模がデカすぎること。だから資本が入ってきて、本来必要ないはずのファクターが入りまくる。聴衆も盛大なほうが熱狂・興奮しやすいからそれを受け入れる。綺麗事をなぞるだけのスポーツウォッシュでもまかり通ってしまう。そして、今まさに実際に通ってしまいそうになっている。


時代に合わせ、制度を変えていく

こういう事態を改善していくには、まず制度作りが重要になるはずです。こういうのは個人の問題じゃなくシステムの問題です。誰か消して終わるもんじゃない。
ちなみに既にスポーツにおいても勝利至上主義は昔に比べたらだいぶ減ってると思います。いくつかの競技を除けばスポーツは高潔な精神のものとしてギャンブルと区分けされてきたし、20世紀以前の弱肉強食的な世界観じゃなくて、個と多様性を重んじる21世紀では”脱・勝利至上主義”が顕著になってきている。Z世代やZZ世代とかはまさにその渦中にいるのだと思います。


まあ世代間の思想傾向は上世代からのカウンターカルチャーになりがち(過去に受けた不満を消す方向に動く)だから、あと40-50年ほどしたらだいぶスポーツのあり方もオリンピックのあり方も変わってくるはず…その頃にはたぶん脱・資本主義になってる…かな…?
せめて今回の東京五輪が、そういうカウンターカルチャー育成の場として働くことを願うばかりです。



てことで美談だけを取り上げて終わらせるなんてことはもってのほかで、我々世代としても黙認された暴力性を、見極め、記憶して、次世代に繋ぐ事を大事にしなくちゃな、と改めて認識を新たにした次第でした。ただし五輪開催におけるアスリート責めとか愚の骨頂です(アスリート個人の行いや意見に対する批判はもちろん別)。意見する側の自己満足に過ぎません。個人攻撃は何も生まない。個人ではなくシステムを批判するべきです。

何十年も後のことはわからないけど、わからんから関係ないというスタンスではあまりに無責任。とりわけわれわれスポーツ業界関係者はアヘン的側面に陥りがち(というか陥りまくり)なので、特に気をつけたいですね。

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