デザイナーvsアーティスト
タイトル通りの持論を繰り広げます。
少し嫌われる覚悟もあります。
心の中に収めるにはあまりに大きい決意であり熱意でして、メモに収めても何か物足りないのでここに残します。
きっかけのお話
つい先日まで「私がアートを嫌う理由」ってタイトルで書こうと思っていたことから派生した文章です。
原型を知らないので派生もクソもありませんよね。
まぁアーティストとデザイナーの区別が自分の中で納得がいく説明ができ始めた。
ってのと同時に、そのことをあまり理解していないのか口外する人がいないなって思ったので文章にしたかったのです。
文章にするってとてもリスクがある事ですよ。
言葉の選び方でも、受取り側の語彙でも内容が変わりうる上に、何かを断言したときにそれが例外となる場面は探せばいくらでもあるわけで。
だからどうせ本質から逸れるのであればとことん真っ直ぐな言葉で、少しカッコつけて書いてみます。
はい。その上でアーティストとデザイナーの違いについて考えます。
「アーティスト(artist)」とは、芸術家、美術家、その道のプロフェッショナルという意味をもつ言葉
厄介なのが「art」という言葉の汎用性の高さです。
僕がアートの唯一嫌いなところはここです。何でもかんでもアートの一言で済ませている。言語化を避けている。正直に言うとArtという高尚化された概念を隠れ蓑にアグラをかいているアーティストもどきが好きじゃないのです。もう最近頭を悩ませている問題であり、人生のテーマなんじゃないかって思うほどこれに執着しているんです。
僕が思いつくこの違和感の原因を分析してみました。
まず本来のartを定義するとしたら上のような感じでしょうか。表現者、表現物があり鑑賞者が存在し、精神的、感覚的な変動を生む事象。
なるほど、だからここまで汎用性が高いのか。
自分が鑑賞者であれば感情が動いた全てのモノに対してアートと呼ぶことに間違いがない。たしかに。
たださらに考えたいのは技巧、匠の技などの意味が含まれている点。
そう!僕が好きなアート、あるべきアート像はここなんですよ!
表現者がそのクオリティを高めるための努力が“Art”の高尚な立ち位置を作り上げていて、故にその言葉の中に技巧という意味が含まれるのです。
だってそうでしょう?
誰かが5分で作った泥人形とミケランジェロが人体の研究を重ねた末に作り上げたダビデ像が同じアートで表現されていいのか?
もちろん全ては鑑賞者次第なので貴方がそれをアートだと言い張るなら問題ありません。ただ、貴方の心に嘘はつかないでほしい。心のどこかに「この泥人形にさえ美しさをを見出す私の感受性を見て!」なんて気持ちがあるのであればそれは嘘。その見栄の先に待っているのは現実と乖離した自分への葛藤です。理解できないことへの神秘性は分かりますが、僕が思うアートの良さとは違います。
ここまで書き進めてあの人が思い浮かんでしもた。
そこそこな知名度の彼、見たことあるのではないでしょうか。80年代アメリカのグラフィティーアートで有名なバスキアさんです。
僕は彼の作品が好きですし、アーティストだと思ってます。正直、絵が上手いかどうかでいうと微妙なところです。だいたいこの手の破壊的な絵を描く人ってデッサンをやりこんで技術が身についた上での表現として敢えて下手に描くなんてことをしがちですが、バスキアさんの上手い絵の作品を見たことがありません。
きっと彼の作品の良さはキュビズム、シュールレアリズム、グラフィティーアートと言った複数の美術的思考を一つに集約しているところなんですかね。
これは彼のルーツがそうさせたのもあるでしょうし唯一無二であり匠の技であると思います。
アートにはそこに個性があって共感があってそれをより多くの人の心に届けるために試行錯誤があり、結果として技術が身につく訳です。
脱線したので話を戻します
これまでの話をまとめると
鑑賞者(貴方であり,私)の心を動かすものがアートである
↓
心を動かすにはありふれた模倣ではなく個性が必要である
↓
個性を見出し、使いこなすには努力と技術が必要である
ここまで書きましたね。
続けて伝えたいことは
技術や才能が突出した場合、理解し難い作品ができることがある
です。
デュシャンの泉はまさにそれかもしれませんね。
先程に書きました理解できないことへの神秘性です。
美術運動もあるきっかけを境に分岐したり衰退したり、勢いを増したり。。ある突出した才能や個性が時代を変えることがあります。
この作品
【泉 作:マルセルデュシャン】
は突出しすぎていて当時は理解されるまでに時間が必要でした。今でもこの作品は何だったんだってなります。
しかし、この理解に苦しむアートを逆手にとる自称アーティストがわずかに存在するのです。
⭕️突出した個性、才能→理解されづらい
✖︎理解されづらい→突出した個性、才能
だと思うわけです。
デュシャンがその意味で天才なのは、その作品が時間をかけてではあるが鑑賞者の共感や理解を得た事です。何故、共感や理解を得られたのかは深い思考と発想、行動力でしょう。気になる方は是非調べてみてください。
ここからが本題です。
デザイナーとアーティストの違いは
アーティスト
鑑賞者に対して感性や技術を表現する
(相手に理解を求める)
であるのに対して
デザイナーは
そのユーザーの問題解決を提案する
(相手を理解する)
という点です。
アーティストがイラストに線を一本書き足した時に理由を聞くと「こっちの方が美しいから」で納得できますが、デザイナーはそうではすみません。合理的、客観的な理由が必要なのです。なぜならその作品は対象となる相手が決まっていて、その相手にどのような気持ちになってほしいかが決まっているのです。
この若干アーティストに対しての毒のある言葉選びは自分に対する戒めの意味が強いです。
ほんとに。
元々僕はアーティストになりたい、新しい美しさを求めたい!というタイプでした。ただひたすらに脳内に浮かんだアイデアを描き殴り優越感に浸っていました。それらは機能性が低く製作コストも高い。着る人もかなりの物好きしか着ない、といっためちゃくちゃなデザインでした。
それはファッションデザイナーの仕事ではなくアーティストのそれに近かったと今では思います。
今はファッションデザイナー、ひいてはクリエイティブディレクターを目指しています。
アートという素晴らしいものの偉大さに僕が逃げれないよう、このノートを背水の陣とします。
布と人と社会から目を背けず、一途なクリエイターになるべく。
最後
もちろんデザイナーとアーティストに優劣はありません。近いようで別のクリエイションです。共通項も多いので混同しがちなだけです。しかし各々が各々の信念を形にする姿は美しく、憧れます。
明るい未来を作りましょう。
ダダ
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