インスピレーションを与える不変の法則「エフォートレス・マスタリー」
「緊張」する時、人の体では何が起こっているのだろうか?
科学的に説明することも出来れば、それはその人の性質だ、ということも出来るかもしれない。
緊張すれば、体のありとあらゆる穴から汗が噴き出て、その汗が自身に対してさらなる緊張感を誘う。悪循環に陥り、結局上手くいかない。
「自分はあがり症だ」「仕方がない」など思い、片づけてしまうこともあるしれない。
その様に思い信じることが、果たして真実なのだろうか。
エフォートレス・マスタリー
「無理のないごく自然な熟練」
「エフォートレス・マスタリー」は精神の修養や気づきなどについては何も新しいことは述べていない。ここで考える悟りとは、楽器に触れている時にその空間(真の自己の中心)にとどまることが出来れば、それだけで音楽を通してその気づきを完全に分かち合えるということだ。そのためにはうまく演奏をしなければならないという意識(エゴの意識)を手放す必要がある。(本著より引用)
「エフォートレスファッション」を見聞きしたことがある人は多いかもしれない。肩の力を抜いて、自分自身の身体フォルムよりも大きいサイズの服を着る、というファッション形態をまとめた用語だ。
エフォートレスなファッションは、無理をして窮屈な、タイトな服を着るのではなく、より自由自在に振舞えるように―ありのままの自分でいられるように―服選びを行うということである。
「エフォートレス・マスタリー」とは、ありのままの自分(空間)から湧き出る、ありとあらゆる価値観や思考を音楽という手法で再現し、しかもその手段である音楽に対する自信過剰な意識を完全に捨て去る、というような、音楽だけにとどまらない、全ての事柄に普遍的な手法のことである。
ある日私たちがホロヴィッツの演奏を聞いていた時のことだ。(中略)「うわぁ、すごい演奏だ…聞いているとつらくなってしまう…僕なんか何でもないっていうことだ…それでも、もしかしたらこれから20年間、毎日8時間練習すれば…」こんな考えが頭を駆け巡っていた。私もよくこんなことを考えていた。いつだってこんな感じだった。ちょうどその時、ジョアンが肩を手にかけてきたので飛び上がってしまった。本当にびっくりした!振り返ってみると、ジョアンが笑みを浮かべていた。私の考えを読んでいたか、少なくとも私の態度で分かったのだろう、ともかく「自分に優しくしろよ!」と言ってくれた。この時発せられたこの言葉は天啓だった。(中略)この瞬間、私は自分の考えから解放され、すると突然音楽が聞こえてきた!(本著より引用)
こういう経験はあるだろうか。
「なんで自分はうまくできないのに、今このステージで演奏している人には出来るのだろう?」
疑問から得られるポジティブな感情は決して無駄なものではないが、このように考えてしまう人は、えてしてネガティブな感情へ引きずり込まれるのではないだろうか。そして、このように考えてしまう自分に自己嫌悪してしまう。
なぜ演奏をするのか、改めて自分の言葉でロジカルに説明することはできるだろうか?
自分の音に対して、真の自己から湧き出る確信的な思いを感じることができているだろうか?
著者のケニーワーナーはこう述べる。
彼らもまた自己中心的な意識に屈し、洞察力や目的意識に欠けている。そして最も重要なのは、自分が何者かも、自分は本当はここでなにをしているのかも知らないということだ。
演奏中に、オーケストラ(他の団体でもよい)の音と一体になる自分の音を想像してみてほしい。
まるで、広大な海に存在している「水」のように感じてこないだろうか?
その水はただ、広大な海の流れに身を任せ、連続性のある流体である、という思考が、自分の脳に無理なく入ってこないだろうか?
その「一種の瞑想」が完了したとき、自分は自分を俯瞰する。そこに見る自分(音)は、ただの自分(音)でしかない。なにも特別ではない…。
いままで自分を苦しめてきた「緊張」はすべて消え去り、ただ、自分の中心から流れてくる声を、音に乗せることができる。しかも、その行為は自分でも認知できないほどの境地である。
「演奏中の記憶が何もない…。」こういった経験が、その答えなのではないだろうか。
うまく演奏できた晩のことを思い出して安心する時、その安心感は自分の外からくるものだ。これでは自分の人生を真に満ち足りたものにすることは出来ない。あなたは素晴らしい演奏をする必要はない。あなたは既に素晴らしい。御存じだっただろうか?
みんな素晴らしい奏者なのだ。音に正解も不正解もない!
その正解と不正解に存在するエゴな意識が、自身の目標達成(音楽の達成、仕事の達成、何かしらの自己設定の達成など…)には完全に必要がないと、なんども本著で述べられている。
恐れながら音楽を練習する人たち
どうしてほとんどの人は、何もマスターできていないうちから次へ進んでしまうのだろう?偉大な演奏家になれないのが怖いからだが、そう思ってしまったが最後、恐れは予言となって成就する。
広大な交響曲を練習する時、その膨大な音の数と膨大な解釈の波に飲み込まれてしまい、訳も分からず練習を黙々と何時間も続けてしまう、ということに心当たりがある人はいるのではないだろうか。(むしろ自分がそう。反省。)
そこにあるモチベーションは、このような思考からくる。
「本番までに完成させないと!」「何度練習しても上手くできない」「この解釈をお客に伝えるためにはこう練習しないといけない…けどできないからたくさん練習しないと!」こういったように。
学校教育での音楽も基本詰め込みであり、教科書にある内容を淡々とこなし、専門家を目指すような音楽家は多くの課題をこなすであろう。その教育や課題に圧倒されてしまい、表面的にうまくこなそうとしてしまう。そういった練習は無意味で、ネガティブな練習だと著者は言う。
音楽を演奏することについてそんなに熱心なのに、何もしないのはどういうことだろう。怠け者だからではない、圧倒されるように感じるからである。そのことを自覚する必要がある。
音楽とはそもそもなにか?それに対する知識はなにもいらない。このように想像してみてはどうだろうか。
「今の音楽が確立するもっと前、音楽が音楽として、ただ存在していた起源を想像する。とある原始人が、不格好な木の枝をばちにして何かをたたいているかもしれない。その音を心で聞いてみて、今の自分は何を思うだろう?それは、無の境地ともいうべき、何もない音、ではないだろうか。なにもない、ただの音…空気から伝わり耳へと至るただの振動…何にも執着することのない人から奏でられる、ただの音。それがただ、その場に存在していたということ。」
満天の星空を見て「うわぁ!本当にこの星空のことを好きにならなくっちゃ!」と思いながら眺める人はいないだろうか?
いないだろうと答えたそこの貴方、「星空」を「音楽」に言い換えてみてほしい。無意識に音に対してプレッシャーを感じていないだろうか。
星空を見ること、音楽を演奏したり聴いたりすること、その美しさに自分も一緒に溶け合って、何もかも境目が無い、この甘美な状況が「エフォートレス・マスタリー」の肝となる。
要するに、音楽を聴こうとするのではなく、ただ聴くに任せるということだ。
間違った音などない!
ゆったりとした意識から即興をしていると、実は間違った音などない!ということを発見する。適切とか正しいとかいうものは意識が作り上げたものだ。その様な架空のガイドラインの中で生きようとすると流れが妨げられる。
とある狂気的な独裁者がいて、とても許されるような行為を行っていないものでも、その行動にインスピレーションを受ける人は一定数、必ずいるであろう。正しくないのに、正しいと感じて、共感をも感じてしまい、独裁者の指揮に従ってしまう。
「インスピレーションを受けた」から、自分に落とし込んで人生の参考にしたい!そう思うこともあるだろう。
個人が求めてやまないのは結局のところ「インスピレーション」そのものでなのである。その独裁者自体ではなく、意思の力や自己受容の力が大衆の見解を変えていく強さを面前にし、そこにインスピレーションを見出すからである。
音楽も同様で、様々な時代の音楽家たちはこの時代には狂気の沙汰とも思える音を用いて、次世代の音楽に影響するような革命を与えてきた。時代を見通すものは異端者で悪魔の手先なのではないか、とみなされることが多い。そのような異端者は、音楽に対して真摯な姿勢で見つめ、どこからでもない真の自己から湧き出てきた意思の力を通じて、その音楽をさらに鮮烈なものにしなければならないという思いを馳せ、不協和音は新たな正しい音となり、存在するようになってきた。
ある時点での社会通念上、「間違っている」とみなされる音であっても、時代や人が変わればそれは「正しい」と変化を遂げる。それではなぜ、間違ったものとして感じてしまうのか?それは単純で、私たちが間違ったものとして聴いていただけなのである。
真実は異端として始まり、流行へと姿を変え、迷信に終わる。
したがって真実は「間違った音などない!」ということなのである。
音が間違っていると連想する事にはなんに意味もない、自己の(音の)成長にはむしろ邪魔でしかない。先入観を捨て去り、ただ聴くに任せるのだ。
「何も考えず演奏する」という重複した意味
「エフォートレス・マスタリー」という言葉は、実は重複した表現だ。マスターするということはごく自然に演奏することほかならないからである。この言葉が表すのは、出来ることの量ではなく、何かを行うときの質である。
音楽を音楽そのものとして自身で体現するために、瞑想や理想論のみで話をすすめていてはいけない。演奏する曲の「真の自己」から湧き出た解釈を元に、丁寧に練習し、何も考えなくても演奏できるまで、進まなければならない。音楽の技術を磨くことは自分から湧き出た崇高な考えや理論を再現しうる道具として働くのだから、そこを怠ることは、自己が自己を冒涜する行為である。
しかし、ただやみくもに練習したところで、表面的な練習しかできないであろうし、そのような自分の横には常に「エゴ」が存在してしまう。
「もっと練習しなきゃ…」「もっとあんな風にうまくなりたいから…」といった具合に。その様な音に対して聴衆は「忘れることのできないインスピレーション」を受けることはない。(練習STEPは本著をお読みください。)
自分に優しくなろう。今自分が出した音は世界一美しい音だと。自分は素晴らしい奏者だ、自分の音は最高だ!と。
「エフォートレス・マスタリー」の非常に難しい部分はここにある。
この法則は、自分のエゴを排除し、音をそのまま自分の音として表現する試みであり、その試みを実現するには、(当然だが)技術が不可欠なのである。技術を得るための練習では量をこなしてはいけない。自身の外から「エゴ」が再来し、音楽を見失ってしまうからである。何も考えずに本番に演奏できるよう練習するのに、何かに追われて何かを常に考えてしまい、練習としての土台が揺らいでしまう。非常に難しい重複(矛盾する自己)である。
考えるだけで頭がこんがらがりそうになるが、この試行を繰り返した先に本当の熟練が存在し、人々に何物にも代えがたいインスピレーションを与えうるのである。
達人になるには?(まとめ)
1、音楽の邪魔をせず、音楽そのものに演奏させる。
2、毎回考えなくても課題を完璧に演奏することが出来る。
1については、自身から出たものは全て受容することであり、愛情を忘れないということでもある。うまく演奏しなければならないという妄想から脱することである。
2については、演奏できるようになるまで徹底的に辛抱強く練習することである。「エゴ」が出てきたらその都度立ち戻り(本著に練習STEPとして詳しく書かれている。)恐れてはいけない。たとえその課題が1小節しか消化できなかったとしても、時間がかかったとしても、その課題で得た方法は、別の場面で有機的に発出する。
最後に
以前「7つの習慣」という本を読み、この「エフォートレス・マスタリー」との幾つもの関連性があることに気づいた。7つの習慣全てがこの本で潜在的に語られていたわけではないが、統一して述べられるのは「自分の内と外を明確に意識し、最終的には意識しない。という点である。
音楽版「7つの習慣」、いや、人生の様々な事柄にも普遍的に存在することがこの「エフォートレス・マスタリー」にはたくさん書かれていると思う。音楽をしていても、していなくても、プロでも、アマでも、愛好家でも、学生でも、クラシックオタクでも(ぜひ読んでもらって考えを改めてもらいたい)、全ての人に通ずる共感が、この本には必ずあるはずである。
エゴはもっと頑張れと誘惑するだろうが、実際には、次はもっと頑張らずに行うべきだ。完璧さとは身を委ねるものだ。(中略)うまくやりたいと思うのではなく「間違って演奏するといいなあ!」と思ったほうがいいくらいだ。
何度も読み返したい1冊になりました。おススメです。
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