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見えないモノを観るチカラ

絵画や音楽を鑑賞する際に、まずはその視覚や聴覚から受け取る情報を知覚するでしょう。しかしながらそれは真の「知覚」には程遠い、凡庸な知覚であることを知覚しなければいけません。実際、現代人の多くはこのような「知覚出来ていないことを知覚出来ていない」人が多いのではないかと思います。それは、資本主義によって生み出された人類の至高のテクノロジーのブラックボックスに取り囲まれている現状があることや、それを意識するほど現代人は暇じゃない(暇じゃなくさせられている)のことなどを理由に、もはや仕方のないことだと諦め日々を過ごす人も多いのではないでしょうか。

その思考にメスを入れるのが、「知覚力を磨く 神田房枝著」である。

ブラックボックス化された、身近に存在する未知なものといえばスマートフォンではないだろうか。スマートフォンを使いこなす人間は多いにしても(使いこなせてない人も多いけれども)、そのスマートフォン自体の製品としての特長を全て把握し熟知しながら使っている人はそうそう居ない。なにも疑問を持たずに、そのものとして携帯し日々を過ごしているのが大多数である。それが何も悪いということではない。実際問題、私自身も何もわからないで使っているのが実情である。しかしながら、よくよく考えてみれば、そんな「わけのわからないもの」を日々使いこなしているのが現代の人間なのである。

著者は「知覚はコントロールできないモノ」として見ている。アートでも、ビジネスでも欠かせない人間の「知的生産」の根幹である「知覚力」は、人間の脳では制御できない、というのである。「知覚」を得るプロセスは、目の前に存在するモノ、状況、情報などを、過去に得られた知恵や知識、また知覚によって得られた教訓などのステレオタイプな枠組みよって脳が解釈し、得ていくものである。そして「知的生産」のプロセスにおいては、まず自分を取り巻く世界の状況を自分の「知覚」によって選択・解釈・問題設定をし、順次、「思考」「実行」とステージを移していく。その中の「知覚」は半自動的に進み人間自身には制御できないものである。ゆえに「知覚力」を得るためには、「思考」を鍛える方法とは違う手法を取らなければならない。その手法の1つというのは、「絵画を観察すること」であるという。

絵画を観察する方法や、アート思考について上記の2冊を読了しているが、やはりこの3冊に共通して言えることは、「絵画を通じて自分の世界を描く」ことであると私は考える。それは例えば、ただの「妄想」かもしれないし、史実に基づいた「ファンタジー」かもしれないし、もはやSFとも言い難い現実離れした世界かもしれない。しかし、それが悪いわけではない。その様に「知覚」する自分は必ず半自動的に絵画の世界を決定する。その「絵画の世界」を決定づけるプロセスは、まさに「絵画を観察する」ことにより、多岐にわたって成長していき、その後の「知覚」行為のブラッシュアップにつながると私は考える。

著者曰く、月に1作品でもいいから絵画を通じた知覚力を養うことにつながるトレーニングを行ってほしいとおススメしていた。美術館に行かなくても、絵画はインターネットでも鑑賞可能だ。それに、絵画に思いをふけることの楽しさにを気付けるのだから、一石二鳥である。しかし、私は「日々のブラックボックス化されたテクノロジー」に常に目を向け、考えることを忘れないように生きることも、同じくらい知覚力を磨くに値するのではないかと考える。

今、自分が生きる、目の前に広がる世界に常にクエスチョンマークを忘れずに対峙する。それを心に留めて日々を過ごすことが、「人生を知覚する」ことに繋がるのではないだろうか。

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