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大義名分をもった旅行は下らない in日本 北陸地方

 一人旅に出てみたい、出てみよう、とは随分前から思っていたはずだったのに、行き先を決めたりホテルを予約したり、準備をする気には全くなれなかった。怠惰な性格が災いし、やりたい事すら実行に移せないところは相変わらずだった。それで結局一人旅行けずじまい、は嫌だったので、この夏休みは予め長期の休みを確保していて、その間に一人旅に行こうと決めていた。しかし結局前日の晩20時に、そもそもどの地方で何をしようか、の段階から準備が始まったのだった。決断力はあったようで、そこから諸々の準備はスムーズだった。(決断力があるというか、旅行の予定を決めること自体にそこまで重要性を感じないからスムーズだっただけだと思う) モチベーションは「誰にも邪魔されずに1人で遠くに行きたい」というその一点のみだった。
以下は日記兼備忘録である。

一日目 石川県


 金沢に到着して一番最初に行ったのは、兼六園だった。兼六園とは、広大な土地に池が穿たれ多彩な樹木や石や水路が配置された空間を、数か所ある茶屋に立ち寄りながら回る回遊式の庭園で、日本三名園にも数えられている。定番スポットゆえに観光客も多いので、そこまで楽しめないかもしれないと思っていたのだが、杞憂に終わった。(三連休の最終日だったのにその割に日本人が少なく外国人が多かった)庭園に入るとすぐに池が見える。なんとも、心と目に自然の調和の静けさをもたらしてくれる、とても落ち着いた雰囲気を持つ池だった。その池に流れ込む水の流れから広がってゆく、兼六園を包む一連の世界を味わっていった。辺りのどこを見渡しても素晴らしく、飽きもせずいろんなところを隅々まで見て回った。所々に多彩な形をした樹木があったが、その多彩さは奇妙ではなく、確かな存在感を持ちながらも決して調和を乱すことないままで存在していた。石には苔が生えているが、決して不快さを覚えさせる感じではなく、むしろ全体の調和の中にあって落ち着きをもたらした。水路(川なのだろうか)には弱くも強くもない水流が流れていたが、そこにあったのは”無常”だけを抽出した概念のような時の流れでもあった。樹木や水流、建物が織りなす世界から感じられるのは生命の脈動や自然の落ち着き、というより、時代を超えてなお脈々と受け継がれてきた、庭園全体を支配する”無理のない調和"であった。庭園全体で一つの理想的な”和”の形を表現するために、無駄を徹底的に省きつつ構成された庭園だというのが見て取れた。
 大きな池のほとりにあった一つの茶屋に入り、そこで抹茶と和菓子を頂いた。その茶室では、庭園に広がる”調和”を自らの内に取り込みつつ構成する、という興味深い体験をすることができるようになっていた。その茶室で出された和菓子の程よい甘さや食感は、抹茶のにごった苦味に合うように拵えているのだな、と分かるものだった。その茶室で味わった自分がこの園の調和の一部を成しているというはっきりした実感は、とても新鮮だった。 

下手くそな写真だが、ここには確かな調和があったということだけは伝えたい。日本の強さを感じた。



 その後は21世紀美術館に行こうと思っていたのだが、サイゼリアでご飯を食べているうちにその予定が頭から抜けてしまった。気づいたら金沢駅に来てしまっており、戻るのも面倒なのでどこか海の見えるところに行こうと思い立って向かったのが、七尾だった。七尾に向かう列車は1時間半以上あった。ぼんやりと音楽を聴きながら、田舎の女子高生はどうしてこんなにストーリーがあるように映えるんだ、と考えていた。それは確かな輝きに見えた。 
 七尾に到着すると、青林寺というところに行った。山の中にある小さな寺である。ここに行くためには30分程歩かなければいけない。通りがかりのの景色を見たくて時々眼鏡をかけていたのだが、寝不足のせいか目眩がやけに酷かった。視界がくらむ中、普段の自分の生活やそれに続く未来のことが頭に浮かんだ。当時の自分の生活を完全に否定していた訳では無いが、空虚などこか当てもなく彷徨っているような感覚で生きていた。相変わらず眼鏡をかけると目眩が止まらず苦しい。吐き気もあった。普段のただれた生活のせいで次第に見えなくなっていく目と希望の見えない将来が、重ね合わせて感じられたのだ。先の見えない不安が、未来の自分は大切なものすらも失ってしまうのではないかという不安を起こし、言いようもなく辛くなった。普段の自分そしてこれからの自分が、無為に月日を消耗してゆくだけの存在にすぎないのではないか、という恐怖に囚われ、今までの時間の多くが、そしてこれからの時間の多くが、僕の外側で過ぎていってしまうような気がして、その焦りがさらなる眩暈をもたらした。忙しさにとらわれるこれからの日々への嫌悪と、月日を無為に過ごすことに対する焦りとの間に板挟みになってしまいそうだった。この酷い落ちていくような目眩を誰かに見つけてほしいような、このまま誰からも見つからないでいたいような、相反する感情が渦巻いていた。
 こうしてあてもなくふらふらと彷徨うように歩いているうちに、ようやく目的の寺にたどり着いた。しかしそこにあったのは、観光地風にライトアップされた寺だった。僕は田舎ならではの土着した静かな信仰の在りようを見たかったので内心落胆したが、近くで鐘を撞けるらしく、面白いと思い少し山を登ってみることにした。夕方だからか人も見当たらない。なぜだか誰の担保も無い道を進んでいるような怖さに駆られ、駆け足で階段を上った。鐘の場所についてみると、説明書きの看板が立っていた。過去の自分を思い返して一回、現在の自分に対して一回、未来の自分に対して一回、の計三回撞くことになっていた。鐘が吊るされた櫓に立つと、斜面の木々の枝葉の隙間から日本海が臨める。鐘は大きな鐘では無く、年季も入っていないようだが、そんなのは文化の本質ではないのだと思い知らされた。それはある意味、現代風に折衷された寺社仏閣の一つの在りようであるのだと感じた。さて、僕は何を思って鐘を撞こうか、非常に悩ましかった。過去、現在、未来に貫徹する何かが自分の中で欲しかった。過去及び現在の自分を否定したくない、という思いが強くあった一方で、過去に満足できない現在の自分がつらかった。今、本当に大切だと思えるもの思ってきたもののあり方をこれからも肯定したい。そのためにも過去の完全な否定はしたくないということは一貫していた。いろんな大切なものや今の自分の苦しみや価値観がひとしきり頭を渦巻いたあと、ようやく決心がついて鐘を撞いた。
 過去のあらゆる出会いに感謝し、過ごしてきた時の重さを受け入れる。今、大切なものを心にもう一度刻み、過去からつないできた現在、不確定な未来へと着実につながる現在であると意識しながら(過去と現在と未来のバランスを考えながら)着実に現在という時を刻んでこの瞬間に生きつづけること。自分にとっての未来というものがこうして刻まれる現在の延長線上にあること。鐘を3回鳴らし、この3つの願いを日本海に投げかけた。今の僕にしては上出来だろうとなかなか満足して帰路についた。

古びているようで、割と新しい。

 帰る道中に、日本海に立ち寄った。釣りをする大人たちや、元気に遊ぶ子供らを見て、無邪気な土地柄なのかもしれないなと思った。少し愛おしかった。
 帰りの列車が来るまで一時間近く待ったが、その間もいろいろなことを考えていた。一人旅というものは結局どうしようもなく一人なのだと気づき始め、孤独感も強くなる頃合いだった。意外と家が居心地よかったらしい。あらゆる否定は自己肯定と結びついたものであると思い至り、無闇な否定は辞めようと誓った。例えばそれは僕にとって、反抗期の終焉であった。
 帰りの長い列車の車中では、この旅行中読もうと決めていたアンドレ・ジッドの『地の糧』を読んだ。(ヨルシカのチノカテという曲の原本である)昔は読んでもよく分からなかったのだが、何故だかその時はすっと入ってきて、とても面白かった。自己暗示のような本であったが、その自己暗示に自然の豊かさが反映されている、そのあり方が面白いなと感じた。近くに座っていたサラリーマンと思しき男とは、七尾から金沢まで同じ列車だった。彼は大層疲れてきった様子でスマホを眺めていた。

 夕飯は海の幸でも頂こうかと思っていたが、帰る時間が遅かったため多くの店は閉店しており、結局チェーン店の金沢駅八番らーめんに流れ着いた。野菜の多い塩ラーメンは美味しかった。その晩は3500円程度の安くてきれいな宿に泊まったのだが、なかなか居心地がよかった。本でも読もうかと思っていたが、疲れていてそんな気にもなれず、星川とまつりちゃんのコラボ配信(例の恋愛相談所)を見てひとしきり笑ってから風呂に入り、1時頃に就寝した。NHKのスポーツ選手へのインタビュー番組が妙に頭に残り、寝つきはよろしくなかった。

名アーカイブ、画像は夏色まつりの上限赤スパである。

二日目 富山県、岐阜県(五箇山、白川郷合掌造り集落)

 二日目、眠い目をこすりながらダッシュで高速バスに滑り込み、五箇山集落へ向かった。外国人が多かったが、五箇山で降りる者はいないようだった。ただ一人、五箇山で降りることになっていた僕はかなり驚いたが、外国人はみんな白川郷が目当てであるらしかった。周辺には高速道路も幹線道路も走っていて、五箇山とはいえそこまで完全に古風な雰囲気が流れているわけではなかった。しかし、菅沼集落に続くボロボロのトンネルを抜けると、その集落の周りだけ明らかに違う時代の文化の匂いがする。外から見ると妙な集落に思えた。だが、集落の中に入ると不思議なことに、すっかり落ち着いた気持ちしまった。晴れていたおかげもあって、大層朗らかな気分で散策した。家屋はどれも合掌造りであり、昔ながらの調和の形が残っている。行き交う人々は残暑の中をのびやかに歩いていた。田んぼの近くでは、澄んだ空気のなかをかなりの数のトンボが飛び回っていた。五箇山の民俗館に入ると、地元のおばちゃんが観光客向けに丁寧に五箇山の暮らしについて軽いガイダンスをしてくれた。五箇山集落は、銃の火薬の産地、農業、養蚕業、などいろいろな顔を持っていたらしい。決して閉ざされたコミュニティだったわけでは無く、むしろいろんな方面との交流に開かれていた。如何に力強く現実を生き抜いてきたかということが展示されていた。他との交流を拒まない一方、代々大人の構成員にはそれぞれの確かな役割があり、その中で着実に日々を送っていたらしかった。工夫を凝らしながら月日を、一年という周期を力強くのびやかに生き抜く。豪雪地帯特有の厳しい現実に真っ向から向き合いながら、調和を探し続けた結果として、合掌造りの家だったり文化だったりが発展してきたのだろうなと思った。

素晴らしい五箇山の雰囲気。深い没入感があった。



  近くの斜面で山登りの真似事をしたあと、蒸し暑い小屋のようなところでニ十分以上バスを待ち、白川郷へ向かった。前評判でも聞いていたとおり、白川郷は観光地化されており、五箇山集落ほどの没入感は無かったが、白川郷にも、五箇山に似た暖かさがあった。ざっと見ると外国人の観光客が7割方、といった感じで、日本人は大学生の集団が多かった。男女数人の騒がしい集団を目にするたび、僕も半月前こんな感じだったのだろうか??という疑問が湧いた。(半月前にバイト先の男女数人で香川に行っていた。)蕎麦の店が多く、手打ちそばで評判の良いお店に向かった。それなりに混んでおり、待合所に回される。待合所には、おじいちゃんを連れた孫と思しき高校生くらいの素朴な顔の少女がいて、妙に目を引いた。育ちが良い、というのはこういうことを言うのだろうと思った。蕎麦はとても美味しかった。横に座っていた顔の整った若い日本人の女はインスタにそばの写真をアップしていた。女二人で旅行に来たらしく、二人はリラックスした良い関係であるようだった。インスタも二人にとっては、お互いの関係を静かに確かめ合うためのツールかもしれなかった。蕎麦屋の主人は、親しみやすい感じをだしながらも程よい距離の取り方をしており、素晴らしい接客だなと感心した。田舎の観光地ならではの良さだった。「そば処 乃むら」 というところである。口コミも良く、味や値段も含めて胸を張ってお勧めできる店だ。

 前述のとおり、白川郷は観光地化されていたが、その分合掌造りの家屋の数が多く、眺めが良かった。神田家、というところではかなり上まで登ることができて、合掌造りにおける木の材質から設計に至る細やかな工夫、完成に至る過程での様々な人々の共同作業(これを”結”と呼ぶらしい)に触れることができた。窯に常に火がついていて煙が立っているのは、茅葺きの屋根を頑丈にすることに大きく貢献しているらしく、面白かった。かなり手間のかかる暮らしであるようだったが、それはやはり五箇山集落と同様、強さの表れでもあった。ここは浄土真宗が強い地域でもあるらしく、寺の横の家が一般向けに解放されており中に入らせてもらった。そこは宗教と暮らしの織り交ざった匂いのする住宅であった。僧侶は忙しそうにしており、落ち着いた感じの無い人であった。家の奥にはお堂のような場所があり、田舎にあるものにしてはかなりしっかりしていた。一日目と同じ内容をお祈りしたが、浄土真宗の教えと折り合いがつかないかもなと後で少し後悔した。
 白川郷を一望できる展望台がある、とのことなので少し登ってみた。とても眺めが良いところだった。そこまでの旅行で少し疲れていたのか、展望台手前の階段でつまずいて水をこぼしてしまったが、スタッフらはそんな僕のことを親切に心配してくれた。彼らはその後、コンビニ飯の話をしていた。初老の取るに足らないコンビニのお握りの話を若い女が適当に聞いて相槌を打っていた。展望台からの眺めは、自然と人間の折り合い、集落の自然の中での強さがそのまま景色になっている、という感じだった。雄大さとは違う良さがある。五箇山集落には無い白川郷ならではの良さだった。

良い眺め。冬にも行ってみたいな。


 降りた後は、八幡神社に立ち寄った。年に一度の祭りの中心になっている神社だそうで、それなりに大きかった。若い大学生の集団が後ろで「君の名は。みたい!!」と騒いでいて、確かにそう見えるかもしれないと思った。すごく印象的で、物語が生まれそうな雰囲気を持つ場所だった。そこから白川郷の外れに歩いて行き、橋を渡るとすぐに中学校が見えた。入口の近くを覗くと中学生二人がスマホで動画を見ながら談笑していた。彼女らはこのあと家に帰って課題をやりながら通話をするのかもしれなった。中学校の近くには今や珍しいデイリーヤマザキがあり、帰りのバスで食べるパンを買うために立ち寄った。そこの店番は70歳は超えているであろうおじいさんだった。PayPay支払いにも対応されていた。彼らには彼らにしか出せない輝きがあるのだなと感じた。

君の名は。(?)


 金沢駅に戻るとまだ19時ごろであったので今日こそはと思い立ち、バスに乗って寿司を食べに行った。(金沢は厄介なことに京都と同じく路線バス文化である)大将が握ってくれるタイプの寿司屋を選び、内心わくわくしていたのだが思ったよりも高く、7皿で遠慮した。味はかつてないくらいに美味しかった。あまり食べずに帰るのは少し忍びなかった。ホテルに帰るにはまだ早かったので、泊っているホテルから徒歩4分のゲーセンに立ち寄った。始めは調子が良かったが、少しすると疲れが出て、調子が落ちる。音ゲーはこんなもんである。しばらくやって飽きると、コンビニにいこうとゲーセンを出た。僕が音ゲーをしている間に一つ上の先輩は教職課程の勉強をしているのかもしれない、とコンビニに向かう道でふと思った。相変わらず自分に自信が持てなかった。しじみの味噌汁と裂けるチーズを買ってホテルに戻り、昨日の星川のアーカイブを見返しつつ就寝しようとした。何故か眠れず夜遅くまで無為に動画を見たのだった。


三日目 金沢→新潟県 糸魚川市



 この日は朝8時に起きて、まだ見れていなかった金沢の21世紀美術館に行ったのだが、10分少々で幻滅してしまった。そこにあるのはただのフォトジェニックだった。あまりにも面白くなかったので、苛立ちを抱えつつも金沢駅に戻った。ゲーセンで小一時間音ゲーをした後、予定通り新幹線で糸魚川へと向かった。
 糸魚川に到着し、昼ご飯を何にするかいろいろと考えていると、どうも魔が差してしまって(どう考えても糸魚川で昼ごはんを食べるのが一番早かった)、結局糸魚川駅からかなり離れた能生駅のラーメン屋に向かってしまった。魔が差してしまうのも一人旅の楽しいところである。その店はかなり評判が良いらしく、期待を胸に向かったのだが、なんと看板には臨時休業の文字があった。とても残念もう探す気も失せてしまい、スーパーマーケットに行ってやたら美味しそうな惣菜のチャーハンやたら安いコロッケ1Lの緑茶を買い、海辺に向かってとぼとぼ歩くことにした。歩いている途中で、近くに海上の孤島のようなものがある、そこに鳥居があって凄い眺めだ、駅前に書いてあったのを思い出したので、向かってみると確かに面白い眺めがあった。移動するのも面倒なのでその島(?)を見ながら惣菜を食べることにした。ちらちらとこっちを覗いてくる鳥とコロッケを巡ってにらみ合ったりした。すっかり食べ終わったので、地元に土着した信仰とは如何なるものかと思ってその孤島に近づいていった。しかし目の前に来てみると、「恋人の聖地」と書かれた看板が立てられていて、驚きのあまり思わず笑ってしまった。よくよく見てみると、その陸の孤島と浜をつなぐ橋も、鳥居も、新しいようだった。下調べを怠ったが故の出会いだった。恋人の聖地に孤独な旅の最中の男がいる、という謎の背徳感に気持ちが高ぶり、辺りに人もほとんどいないようなので、恐る恐るその恋人の聖地に一人で行ってみることにした。かなり上りづらい急な階段を登り切り、鳥居を抜けると島の頂上に着く。少し開けた場所に出ると、そこからかなり良い眺めをすることができた。小さな島だからだろうか、島の周りの波の立ち方と光の反射の仕方が独特で面白い。10分ほどベンチに座ってくつろぎつつ景色を楽しんでいたのだが、恐る恐る浜の方に目を向けるとこちらを見ているカップルが一組いて、流石に居心地が悪くなってしまった。さっと島を出たあと、すぐに糸魚川に戻ろうと思ったのだが、あまりにも糸魚川行きの次の電車が来るのが遅い。仕方ないので延生町の役場に併設された小さな図書館で新潟県の歴史や名所についてのんびり調べながら時間をつぶすことにした。翡翠の特集を眺めた。
 電車の時間が来てようやく糸魚川市に戻ると、糸魚川市立図書館に向かった。糸魚川市に来て新潟水俣病についてリサーチするのが旅の一つの小さな目的だったからだ。しかし文献などを調べていくと、新潟水俣病の中心地どうやらは糸魚川市では無いらしく(姫川の河口都市なので中心地だと思い込んでいた)リサーチは完全な空振りに終わってしまった。

恋人の聖地、らしいよ。



 糸魚川市にはフォッサマグナの東側糸魚川ー静岡構造線の北端があり、その境界が分かりやすい形で見られることで有名な街で、そこに行くことが糸魚川に行くもう一つの小さな目的であった。(フォッサマグナとは関東大地溝帯とも呼ばれる地帯のこと。この地帯だけ他所の地層とは形成された年代が大きく違っている、というような面白い場所である。日本列島形成の歴史がここから見えるのが面白い。)もとより、能生町で時間をつぶし過ぎた影響で時間がなかったため、フォッサマグナの方に行くのはほとんど諦めていた。しかしなんと、水俣病リサーチが失敗したおかげで、今日中にフォッサマグナパークに向かってホテルに帰れる見通しが立ったのだ。またとない機会なのでパークに向かうことにした。
 糸魚川駅から電車で数駅行った先で降り、田舎町の中を20分以上歩いてようやくフォッサマグナパークの入り口についたころには、18時前、日没が目の前だった。フォッサマグナパークは山の側面に1kmほどの通路が切り開かれた場所で、一応24時間開いている無料の公園であるのだが、入口にあった「クマ出没注意!!」と書かれた看板によって僕の中で恐怖心が一気に沸き上がった。こんな人のいない時間帯に、こんな田舎町でクマに襲われたらひとたまりもない。しかしだからと言って帰るわけにもいかないので、走れるところは走って通ることにした。僕は常にクマが出没した時を想定しながら走った。フォッサマグナについて下調べや前提知識は十分にしていたので、走りながら時々立ち止まって岩石を触ったりして、岩石の形成年代や形成過程を感じられるのはかなり楽しかった。特に、西側のユーラシアプレートと東側の北米プレートの境界に行ったときは、県境や国境ではない、プレート境界だからこその感動があった。目で見てはっきりわかるほどに東西で岩石の質が違うのだ。かつてこれ以上に自然形成的な境界があっただろうか?東側(新生代以降の地層)は全体的に岩石というより土っぽい層になっている一方、西側(古生代からの地層)はゴツゴツした岩が表層に出現しており、その中から水が沸いていた。違いは歴然だった。長居した東西境界を過ぎると、岩石を見たりしながら走りつづけてやがて出口に辿り着いた。なんとか熊に襲われずに帰ることに成功したのだった。しかし、パークを無事に抜けたのは良いものの、糸魚川に向かう列車まであと一時間半、日が暮れた夜の山間の田舎町でどう時間を使うのか、ということが一番問題だと気づいた。果たしてどこか歩いて回ろうにも、街灯すら疎らなのでまともに出歩けない。コンビニを探してご飯を食べようにも最寄りのコンビニが遠すぎる。糸魚川駅まで歩いても2時間半かかる。convenientとは程遠い土地であった。しかも重いリュックを背負って走り続けたせいで汗だくになっており、かなり寒い。ひとまず汗を拭くためのスペースを探そうと最寄りの駅の方面に向かっていると、ふと後ろから通り過ぎるバスが一台。表示板には糸魚川駅行き、とある。明らかに先ほど見たGoogleマップには反映されていなかったバスであった。これを逃す手はあるまい!と少し走ってみるものの、バス停がまだ遠いらしく、空しくも完全に置いて行かれてしまった。悲しいが仕方ないと諦め元の道に戻り、駅の方面に向かって歩いた。しかし、しばらく歩いていると遠くの正面からなんとまた糸魚川駅行きの例のバスがやって来ているではないか!次こそなにかの偶然で間に合わないかと全力疾走すると、そのバスは駅でもなんでもないところに止まってドアを開けた。なんとも僕を乗せるためだけに止まってくれたのだ。田舎の路線バスで車内も空いていたからであろうが、とてもありがたかった。しかも、9/20はバスの日(感謝祭的なもの)だったらしく、普段なら運賃が数百円するところを100円で乗車することができた。不運続きの一日の中で降って湧いたような幸運であった。京都のバスと違い、非常に穏やかな運転手であった。こうしてみると京都のバスの運転手は、ある意味少し可哀想である。バスの運転手というのは本来決して悪くない職業のはずだと思った。

地質学上、地震学上の東西境界。
9/20 バスの日 100円乗車の日


 糸魚川を出て、ホテルのある上越妙高駅に向かった。駅のすぐ近くに定食屋があり、新鮮な魚介類と新潟県産コシヒカリを使った刺身定食を1000円でいただいた。あかり、という定食屋だったと記憶している。店員の対応が心地よく、店の雰囲気も程よくアットホームであった。店内では、50代の会社勤めと思しき男性2人組が、息子はYouTubeを見過ぎだ!、と嘆いたりしていた。いわゆる50代、という会話内容だった。しばらくすると、どこかで勤めを終えたらしき様々な年齢の女性数人の集団がわいわいと店に入ってきた。ずいぶん常連なのだろう、店の人と親しげに話したり、軽く店の手伝いをしたりしていた。いろいろと声が聞こえるのに不思議と騒がしい感じがしない店だった。悪くない雰囲気の中、美味しい定食を相応の金額でいただた上に、本来300円のはずのウーロン茶をサービスしてもらえた。良い夕飯だった。

素晴らしい刺身定食とサービスの烏龍茶

 上越妙高駅というのが面白い駅で、駅前のロータリーも広く、駅の入り口もキャパシティも非常に大きい駅である。内装も外壁も新しく、綺麗であった。YouTubeでよく見るようなフリーで弾けるグランドピアノまで置いてあり、大層驚いた。それなのに基本的にいつ見ても人はまばらで、静かで穏やかな感じがするのだ。ほとんど埃のかかっていないグランドピアノは、来るべき人を待っているような静けさだった。経済的な観点ではこういう状況は好ましくないのだろうが、良い土地柄でありながら皆がまだ良さに気づいていない場所、静かに人を待っている場所という感じがして面白い土地だなと感じた。僕は嫌いじゃない。それなりの居心地の良さがあった。

静かなグランドピアノ。来る時を待つ?

 ホテル東横インにつくと、疲れがどっと出た。この日変な不運が多かったのは間違いなく致命的な寝不足による判断の甘さが原因であった。(別にこの日のトラブルが災難だったと言いたいのではない。むしろ全4日間の中でこの3日目が一番楽しかったと思う)あくあちゃんのAPEX配信を見た後すぐに眠りについた。


4日目 秋葉原→新宿→帰宅 


 この日はもともと黒部ダムに行く予定であった。しかし、生憎の寝坊のせいで時間が無く、どう考えても黒部ダムに1時間少ししか滞在できないことが判明した。黒部ダムが雨の予報であったことが僕の行く気をさらに削いだ。妙高山に上ろうかと思ったが、バスの本数が少なすぎるため、ここに行くとこの一日が妙高山でつぶれてしまうことが難点だった。僕は旅行中においては若干の飽き性がある人間であるらしかった。新潟市に行って水俣病リサーチのリベンジをするか悩んだが、新潟市まではなんと2時間以上かかるらしかった。考えを巡らせた末、新潟市がかなり遠く思われたのと、ここ数日孤独が続いて寂しさが募っていたのとで、秋葉原にいくことが突如決定したのだった。新幹線で東京に向かい、秋葉原に直行した。秋葉原で降りたことはあったが、街をゆっくり見て回ったことは無かったので、実質初アキバである。途中家系ラーメン(アキバの壱角家である。一度行ってみたかったのだ。)に立ち寄りつつ、様々な店を見て回った。購入したのは、好きなアニメのグッズ(リコリコ、かのかり)、Vtuberのグッズ、プロセカのグッズ、生徒へのお土産(コナン君のペン)であった。夜空メルちゃんのホロウエハースのカードが手に入ったのはかなり嬉しかった。アキバの街にはいわゆるオタク的な人種が多いけれど、コンカフェ嬢と思しき女の客引きも多く目立った。僕が大きい荷物を背負っていたためか、あるいは田舎者と思われたのか、あり得ないくらいの頻度で声をかけられた。そこまで鬱陶しいというわけでもなかったが、彼女らの必死さがかなり印象的だった。それが彼女らの生き方らしいのだった。田舎の女の子のそれとは大きなギャップがあるな、と嫌でも思ってしまった。それでも僕は、幸福度の差異はあれど、生き方の優劣は無いと思っている。少なくとも、好き嫌いを度外視したフラットな見方ではそう思うべきである。優劣なんてものは海賊版的指標として流通するべきではないのだ。そのあとは、ゲーセンに立ち寄って音ゲーを少しやった。立ち寄ったフィギュアショップの階を登るとあり得ないくらいデカいAV売り場が見つかって、そこを物色してみたりしていた。メロンブックスの店舗、というものが実在するのを初めて知った。コーナーによって匂いが全然違った。アキバで過ごす最終日は過去3日間とは全く違う楽しさだった。アキバはとてつもなく情報量が多い場所だった。
 その後は新宿マルイに向かい、兎田ぺこらちゃんの全人類兎化計画のコラボを見に行った。新宿にはマルイがたくさんあるらしく、お目当てのマルイに着くまでがとても大変だった。結局、新宿マルイの全建物を回って最後にようやくそこにたどり着いたのだった。推しはデカくなっていくものなのだなぁと感慨深い気持ちでクリアファイルを購入した。そのあとは、新宿駅南口のマックでビッグマックを食らい、大阪の我が家へと帰った。

広がるホロライブの先陣を切る者、兎田ぺこら


4日間の総括

 4日間を通して一貫していたのは少しの苦しさと孤独だった。普段の生活の波に飲まれたくない自分と、生活を維持できるか不安な自分の狭間で苦しかったり、大きな孤独を感じたりすることが多かった。孤独ゆえホテルではTwitterよりも推しの配信に居場所を求める傾向が強かった。
 この4日間は果たしてリフレッシュにつながったのか???つながるべきなのだろうか?というようなことを考えたりもした。僕はこの旅行の内に、「リフレッシュを目的とする旅行」「経験のためにする旅行」の下らなさを痛感することになった。
『自然に触れることは経験でない。触れ続けてるその瞬間に意味がある。触れたところでその経験が未来に意味を持つか、とかそうして自然に触れた旅の後にリフレッシュした気分で日常生活を送れるか、とかそういうことは本質的な問題ではない。生活を第一に見据えてしまっている時点でそれは旅の本来あるべき姿からは外れてくるのだ。』と僕は二日目か三日目だったかにメモ書きを残していた。しかし、あえて旅行後の僕自身の内面的変化を事後的な話として付け加えるとするならばどうだろう。最初はあてもなく彷徨うように始めた旅だったものが、何か大事な指針のようなものを僅かに掴んだ感触がする、一歩だけ前進した感じのする旅行だったと思える。前進したということは、もう戻れないということも同時に意味する。『前に、本物を見分けると言った。これに対して、さらに俯瞰視した反論があろうと思うが、そんな行きすぎた俯瞰視に何の意味があろうか。本物を持たない過度の相対化の末に残るのは空虚以外の何者でもない』という2日目のメモ書きがあった。俯瞰視した反論、というのは過去の自分からの反論、である。



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