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2023年という一つの区切りを愛すること

 引用元の「プロローグ:毎朝、毎晩、宙に浮いていた。」という先程公開した記事については、以下を踏まえて読んでもらえると捗ると思う。
「君を朝日と重ね合わせる。僕は朝日を実感することができないのと同様に、君のことを実感することができない。自分の人生を実感することができない。」 
 これを2023年最後に書いておきたかったのだ。かなり力を入れて書いたので、読んでいただけるととても嬉しい。

 振り返ってみると、2023年はいろんなことがあった年だったなと思う。様々なコンテンツとの出会いがあって、様々な場との出会いがあって、様々な人との出会いがあって。僕は、その中で本当の意味での出会いを覚えていき、2023年が進むにつれ、より質の良い出会いをすることができるようになった気がする。いや、僕はそもそも本性として何かとの出会いに向かない人間であって、そんな僕がいい出会いをするには僕が人間として成長することが不可欠だった。まず、自分と出会おうとすることが不可欠だったんだろうな、と今では思えるようになった。

 今年の前半のほとんどは人間関係の苦しみに苛まれていて、自分の中での葛藤を常に抱えながら生きていた。あの葛藤の火痕は今でも残っていて、僕の人生の一部になっていると実感する。逃げることと、向き合うことのバランスが難しいとあそこまで痛感したことは無いし、恋の衝動のあっけなさをあそこまで痛感したことは無い。 
 後半は割と平穏に過ごしていたが、2023年の後半にこそ僕の真の成長があったと思う。衝動から一歩距離を置いたり、逆に衝動の中に自分から突っ込んでいったり、様々な学びを得ることができて、一人の人間としての安定感がぐんと増したように感じる。成長というものが必ずしも肯定的な意味を持っているとは考えていないが(未熟だからこそ出せる価値がある。未熟なままでしか輝けないものがある。)僕に関していうならば、これから社会でうまくバランスをとって生きていくにあたって必要な成長だったと思うので、どちらかというとプラスに捉えておきたい。時々、未熟さがかわいらしく思えて、眩しく思えて悔しいけれど、いつまでも残しておけないから”未熟”なのである。

 朝が来て、昼が来て、日が沈んで、夜が来て、一日が終わって、月日が過ぎて、一週間がたって、一か月がたって、一年がたって。僕らは、恣意的に区切られた時間の中を生きている。午後十時の一時間も、午前十時の一時間も同じ一時間であることに変わりはないけれど、感覚としては全く違って感じられる。こう言ってしまうと全く馬鹿げた話のように思えてくるが、こうした恣意的な時間の区切りは、それほどまでに僕らの身体の中に染みついている。2023年12月31日も2024年1月1日も同じ一日であるが、全く違った心持で臨む人が多いだろう。2023年という一年にどんなことがあった人でも、大晦日には一年を振り返り、元旦には一年の抱負を決める。僕はそんな人間の風習が愛おしいと思う。だから僕は、この一年を振り返る。この一年を振り返って、それを愛したいと思う。今年あった良いことも嫌なことも、煮え切らなかった自分も、狂っていた自分も、2023年という人間が作ったこの雑な枠に全部ひっくるめてしまって愛したいと思う。きっとそれが、大晦日にできる一番良いことだと思うから。僕にとっての2023年という一つの枠を愛することを通して、2023年の僕の人生全体を愛そうと試みたい。嬉しいことにも悲しいことにも、きっと命が流れていて、そうした流れの中に今の僕の命がある。そして、その流れは来年、2024年になっても続いていく。

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