三津浜とちからの物語
沼津駅から住宅街をするすると抜けたバスは、駿河湾の海辺の景色をその車窓に映していた。流れる景色の方へ、体全体の意識が向けられる。どこまでも心地よく晴れた空と、流れてゆく心地よい海辺の見渡し。バスの中からこの景色を見ているだけでいることがただもどかしく思われ、窓の外に溢れているその心地良さに憧れた。
長浜という名のバス停で降りた。5月は始めごろの、晴れた空は昼過ぎの空で、潮風が香る。僕が降りたバス停の反対側、海沿いの車線には、屋根の付いたバス停があり、その後ろに防波堤がある。そこから眩しく広がっていく景色を想う、胸が締め付けられた。
三津浜が見える。こじんまりとして、外から見ると特に何ともない砂浜。
子供連れなど数人の観光客らから少し離れたところの流木に腰かけて、ただぼんやりと景色を眺める。時刻は午後二時半、穏やかな波が太陽光を眩しく反射し、右手には淡島、島と島の間からは富士山が望まれる。この場を妨げるものは何もなく、すべてが心地よく馴染み合っていて、いつまでもここに座ってぼうっとしているのも良いねと思えるけれど、次第に自分という存在がただここに座っていることを勿体なく思われてくるほどの心地。田舎町からの景色。近くに見える小さな淡島。遠くに見える富士山は大きく、けれどなんだか登れてしまえそうにも見える大きさ。太陽は眩しく、けれど掴もうとすれば掴めそうな気がしてくるような眩しさ、僕でも立ち向かえそうな光。いま、動き出したいなにかが自分の中でちからを持つのを感じた。
そのとき、僕は物語の中にいたのだとおもう。途方もないようなことにリアリティを感じさせるような何かがあった。この場所を包む何かが僕の中から途方もないちからを引き出してくれそうな、遠い未来にもなんだか希望をもって動き出してゆけそうな、そんな予感が少しだけ、でも確かに、僕をわくわくさせた。
砂浜を走る高海千歌の姿が、とても自然に、一瞬、そこにみえた。
夕暮れが来たら、そして夜が来たら、またここに来ようと思った。そうしたいと思った。実際は、沼津行きバスの最終便が17時30分発だったので、夕暮れどきの景色を今日見られないことが残念だったけど、同時にいつか見られるその日が楽しみだった。まだまだ、あの砂浜のことを知れていないんだという感じが幸せだった。またここに来るときの楽しみがたくさんある。未来のことにワクワクする感覚は幸せだ。
いつかまた現実で息詰まってしまうようなときにここの夕暮れを見に来たら、なにかが少しだけ変わるかもしれないと、本気で思う。実際、今日あるいは今日に至るまで、この場所の持つちからが、そしてこの場所から生まれた物語が、僕という人間を少しだけ変えてしまったかもしれないのだから。
以下写真があります。
旅の目的は普通にAqoursの聖地巡礼です。楽しかった。景色も綺麗なのでね。何よりも、内浦が良いところなんだ!と自分の目で見て心から実感できたことが嬉しかったです。以下写真です。ちゃんとラブライブ!サンシャイン‼︎オタクの聖地巡礼だな、こう見ると。
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