『宿命』を読んでの雑感

事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。

警察庁長官の狙撃事件は、あのオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件と時を同じくして起こった。時効を迎えて未解決事件になったが、それまでに様々な憶測がメディアを賑わしたのを思い出した。

容疑者Nなる人物による犯行説があったのはよく覚えている。実際にその人物に取り調べを行った担当者が書いた本ということで、怖いもの見たさで読んでみた。

何しろ私の思春期に世の中を騒がせた事件である。

平成という時代にテロが起こったという事実は、「平和な国でさえこういうことが起こるんだから、それは他の国なんか絶望でしかないよ」という半ば諦めにも似た結論を、自分の中に導き出したわけである。

というわけで一晩で読んでみての所感を記しておこうと思う。

まず、第一に、90年代までNのような人物がいたという事実はかなり衝撃的である。

60年、70年代の日本赤軍の暴挙なら教科書に載っている。日本人の過激派が世界中でテロリストとして恐れられていた時代である。

容疑者となったNは犯行時には御年60歳くらいだった。つまり、そういう時代に生きた人の感覚には、反権力や自衛のための武装みたいな選択肢が思考の中にあるのだ。

とにかく90年代にはまだ世の中を変える手段としての暴力を正当化している人間が元気だったのである。


これはやはり生まれた時代によるものなのだろう。戦争を経験してどん底から這い上がってきた経験、日本が共産主義化するという選択肢への憧れ、革命という正義。

とても高度経済成長期に生まれた私がたどりつく思考ではない。


現金強奪、警察官殺害、武器の輸入とか、今もそんなことを企む日本人は数多いるのだろうか。

時代によって世の中へ対する不満の発出が異なるのならば、我々バブル後に青春を過ごした世代はどんな形で権力に歯向かっていくのだろうか。


第二に、オウム真理教事件の衝撃度の高さである。

結局、この事件が未解決になったのも公安部がオウム真理教に引っ張られたからである。

未曾有のテロが起こって1ヶ月も立たない間に、警察トップが撃たれ、かつ捜査撹乱のためにメディアを煽った者もいたのだから、これは仕方がないのかと思う。

どんな事実の積み重ねも、バイアスには勝てない。そのバイアスのもとが強力であればあるほどに。

次々に出てくる事件が、かの宗教団体とつながっていたんじゃなかろうかと思うほどに、社会全体が彼らに怯えていたのだ。

数年前、首謀者の死刑執行をもって一応の決着をみたわけだが、その25年ほどの間、この事件はずっと社会のどこかに常にひっかかっていた。

そして今でもその衝撃は消えていない。

「普通の人が、どうして無差別に人を殺せるようになるのか。」戦争まで振り返らなくても、同等のインパクトを社会に残した事件だったことを改めて思い知らされる。

そして3つめに、組織の論理がすべてという悲しい事実である。

Nなる人物は「オウム真理教に対するこれまでの警察の対応に不満を持ち、警察のトップを暗殺することで、本気になってもらいたかったために実行した」と供述している。

彼は雄弁に詳細に事件について語り、警察もその裏を取って事実を積み上げているのに、結局逮捕起訴はできなかった。

結局、犯人はわかっているけど起訴できない。それは、組織の論理が事実よりも重いという証左である。

公安はオウム真理教を前提に狙撃事件を追ってきた。一方刑事課は、多摩地区の警官殺害の犯人を追っているなかで、この人物にたどり着いた。

オウム真理教の捜査から何も進展は得られない中、このNなる人物の容疑が濃厚になっていく。そして警察幹部が下した結論は「Nは犯人ではない。しかしNの捜査は辞めるな」である。

事件は会議室では起きているのである。現場の意見よりも、会議室の意見が尊重されるのは組織の定めである。

組織の枠にしばられないヒーローを期待したくなるのは、こういう組織のゴタゴタで犯人を取り逃すときに決まっている。

以上雑感。しかしながら、ノンフィクションは中毒である。一気読みは体に悪い。

これから眠気まなこで仕事に向かう。


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