『生涯投資家』を読んで、氏を誤解していたことに気づく。
私が学生時代、氏はメディアを賑わせていた。「お金儲けは悪いことか」という発言に、世間知らずの若者特有の青臭い正義感から、嫌悪を覚えた記憶がある。
私はメディアが作り上げた拝金主義者の彼だけを刷り込まれていた。
時代は過ぎ、氏の活動はまたメディアに注目され始めた。今もシンガポールを拠点に投資家として活動をしている。著作や公演によって、若き人材へ、お金との付き合い方を啓蒙しているようだ。
投資については私もズブの素人である。細々と給与のいくらかを積立投信に預けている程度だ。
氏にとって投資とは単なるお金儲けではない。
彼はずっと企業価値向上のため、あるいはコーポレートガバナンスのために企業と戦ってきたと言っている。元は官僚である。企業は公器という意識があるのだろう。
投資家と経営者は二人三脚で企業の価値を高めていく存在である。企業の取り組み、経営状況は市場によって評価され、ポテンシャルがあれば企業価値があがる。
そうしたポテンシャルがあるにも関わらず、事業価値を高めようと努力しない経営者がいれば、投資家は株主としての権限を存分に振るい、経営者を引きずり下ろす。
自分の持っている株の評価が下がれば、お金を失うだけでなく、彼の熱意にも冷水が浴びせられる心持ちがするのだろう。
であれば、その企業のポテンシャルを引き出す経営者に代わってもらいたい。そう思うからこそ、敵対的TOBなるものを果敢に仕掛けていく。
この論理は筋が通っていて「買収されたくないなら上場するな」という言葉は至言である。
しかしながら、私には一つの疑問がある。
経営のプロではない投資家が、新しい経営者に首を挿げ替えたところで、結果は出るのかということである。氏も認めているように、投資家には組織を束ね、事業を動かしていく経営者の資質はない。
経営者に失格の烙印を押したとして、どうすれば価値を上げられるかというアイデアを出せるわけではないのである。自分が用意した経営者であれば、価値を伸ばせるのだという自信は果たしてどこから来るのであろうか。
このあたりが、経営者との衝突が生じる原因になったのだと思う。経営者から見れば、分をわきまえろということになる。経営もしたことのない奴が偉そうに、と思われてしまう。
社会的な視点に立った投資の考え方である限り生じるジレンマなのだろう。
私なら、投資というのは資産運用の手段であって、企業価値が上がらないならさっさと売ってしまい、損切りをするという選択をするんだろう。
「いかに自分の儲けを増やすか」を考えている利己主義的な側面で投資が語られるほうが清々しい。
何十億というお金を動かしていれば、ほんの数パーセントの株価上昇でもかなりのお金が増えるわけだ。何百万の投資の世界じゃない。スケールが違う。
だからこそ「儲け」じゃないのだ。氏の文章には、投資家としての使命感を感じずにはいられない。当然、大義は常に困難を伴う。
ふたたび、氏が世の中を賑わすことを期待したい。
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