『クロイツェル・ソナタ』『悪魔』を読んでの感想

トルストイの『クロイツェル・ソナタ』と『悪魔』のテーマは貞操である。

前者は、バイオリン奏者と不倫をしてしまった妻を殺す男の話。後者は、妻子を持ちながら、昔放蕩のために関係を持った女性に思いを寄せた末に悩み、自殺した男の話。

しかしこの2つの物語はあからさまな不倫劇でもない。『クロイツェル・ソナタ』では、本当にバイオリン奏者と妻が関係を持ったかどうかは明確にされていない。

『悪魔』に至っては、結婚をしてから相手と直接的に関係を持ったわけでもない。

トルストイにとっては、青臭い言い方をすれば、心の純潔が汚されてしまったらもはやそれは不倫、不貞なのである。

不倫という行動に走っていない状態であっても、夫あるいは妻以外の相手への感情は、トルストイからすれば罪なのである。

貞操に対する理想主義が恐ろしい結末をもたらしたと言えるが、この2つの作品は「感情を抑えることで理性が暴走する」ということを教えてくれてもいる。

人間は感情で動くと言われる。理性や理屈は行動のこじつけである。欲望のままに行動したあとに、なぜ自分はそういう行動をとったかを考えて説明する。

コロナ禍の昨今、私は無性にお酒が飲みたくなり、ふらっと居酒屋に立ち寄った。

その行動を妻に責められたとき、私は「決められた営業時間の範囲で、一人で居酒屋に入ることの正当性」を主張し、居酒屋に立ち寄った理由を「自粛続きで自宅で酒を飲む回数も増え、家族にとっても迷惑に感じると思ったから」と声高に訴える。

本当は居酒屋でお酒が飲みたかっただけなのにである。感情によって人間は行動するのである。

『クロイツェル・ソナタ』に話を戻す。

もし男が妻の不貞を疑ったとき、嫉妬心が生まれ、そしてなにかしら行動を起こすチャンスはあっただろう。

つまり、素直に「お前あの男とどういう関係なのだ」と問い質すだろう。あるいは不倫現場を目撃するために待ち伏せをするかもしれない。

しかし彼は妻を殺すまで何一つ行動していない。その間、嫉妬という感情を理性に変換するわけだ。

「そもそも不倫をすることは嫌悪すべき悪徳行為である。したがって罰せられるべきである」

こういうロジックに変換することで、究極の行動を正当化してしまった。行動する前に理性のお墨付きをもらったというわけである。

『悪魔』の主人公も同じである。自分の感情に素直になれば、元交際相手に「もう一度ヨリを戻そう」と言えたかもしれない。

しかし彼は恋慕う感情を抑えようとして、彼の脳内で論理を構築していく。

「妻子いる身でありながら別れた女に未練を持っている輩は、世間の笑いものであり、キリスト教のロジックからいえば万死に値する」

感情に走って不倫したほうが彼は死なずに済んだかもしれない。相手が断る可能性だってあった。妻が気づいて大喧嘩になる可能性もあった。あるいは不倫相手と別の世界で暮らす選択肢もあった。

感情にしたがって行動することのほうが、思い詰めるよりもマシなのかもしれない。

世の中では「理性」が重宝される。

うまくいかないことがあったとき、不条理なことがあったとき、自分の怒りの感情を爆発させている人よりも、冷静に客観的に対処している人のほうが知的には見える。

トルストイの描いた二人の男は貴族でありエリートである。だからこそ知的に理性的に振る舞おうとしたのだろう。その結果が極論(殺人と自殺)である。

怒りの感情を垂れ流す人よりも、自分が一歩引いた感じで「これは許されない」なんて正義を口走る輩のほうが実は危ういということだろう。

感情に任せて行動したほうが、自分が傷つくことはあったとしても、最悪のシナリオは避けられる。

そんな気がした。


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