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機知加比

第0章 機知加比(きちがひ)

誰しもが自身の秘められた可能性を信じたいと思うでしょう。

しかし、いつしか足ることを知り、相対的な結論の中で、社会の閾値を超過しない程度の個性を発揮し、生涯を終えるのが、社会的動物として生きる人間の常でしょう。

生まれながらの欠損によって、適応不可能な脳に産まれた人間は、一人前の社会人として認められず、普遍的な幸福を求めるレースから、脱落する事になります。

失う物がない後者である私は、自身の可能性を好きなだけ追求する事が出来ました。どれだけ優秀であっても、定型発達の脳では拒絶反応を起こし、辿り着けない領域に行く為に、人類がこれまで試行しなかったであろう刺激を脳に与え続けたのです。僅かに残った正常な神経さえも、どれだけ歪められるかというテーマを徹底して、自身の脳を育成しました。

文章が、読み手という一人の人間に与える物質的反応は、ニューロンが発火するか、しないかという、二種類しか存在しません。 

そして、ニューロンをより激しく発火させるものは、意識下に上ることがこれまでに無かった未経験の刺激なのです。

最も奇特な脳に文章を出力させれば、読み手のニューロンを最も激しく発火させる文章が創れるかも知れません。

私の話に少しでも期待を持ったならば、返信お願いします。

共に時代を切り裂きましょう。


よし、出来た。これで、どこの出版社も私をほっとかないだろう。

男は、ほくそ笑みながら、あらゆる出版社にメールを送りつけていた。
しかし、このメールに対する返信は一件も無かった。

冷静に考えてみれば、ニューロンの発火と快楽物質の分泌に相関がある事は確かだ。しかし、そのニューロンの発火が激しければ、通常より快楽物質を多く分泌させたり、より良い効果を人体に与えるという、証明は出来ていない。

つまり、ニューロンの激しい発火という現象に、どれだけの需要があるのか分からず、市場価値を測ることが出来ないのだ。

これでは、声がかからないのも仕方ないだろう。

しかし、脳の解析というのは、膨大な計算量が必要な為に、永久に不可能だとされている、ブラックボックスの領域になっている。

であるならば、ニューロンがより激しく発火する方が良いというアブダクション(推論)を立て、それの反証を行う為に、リバースエンジニアリングを試行するのは、自然な行為だ。


脳がブラックボックスである為に、そもそも、私の言葉に対する客観的な真偽さえも、つけられないという事は、あるだろう。

しかし、私が実際に異常者であるかという真偽をつける事は不可能だが、ニューロンを激しく発火させる文章かどうかという核心の部分については、充分に検証可能なものだ。

検証というコストをどうか、私に投資して下さい。

勿論、私は応援される様な対象ではなく、畏怖される真の意味で圧倒的な存在として在らなければいけない。

しかし、必要以上に恐れる必要はありません。ただの雇用関係であり、私という個人が媒介する事に意味のないタスクを受注したいという望みしかないからです。

もしそれでも不安で、更なる安心がお望みならば、親愛なる出版社勤務の皆様が私と相対するとき、服従と叫んで下さい。そうすれば、直ぐに仰向けになって、ベロを出しながら、腹を見せましょう。

この小説は、読者を、理性や社会に支配された人格を、より本来としての人間に近い、パッセンジャー(通過者)へとメタモルフォーゼさせます。端的に言えば、精神疾患を治療する特効薬になりうるのです。 
(返信0件)


私が覚えている最も前の記憶の話をしよう。
私は、君らでいう幼稚舎のような場所にいた。
そこでは、乳幼児の運動能力を測る為にハイハイのレースがあった。
親達は、腹部を掴んで持ち上げ、まだ四足歩行をしている私達の後脚を壁に沿わせる。
その時は、必ず持ち上げていなければいけない。
その頃の私たちは地面に触れるや否や走り出してしまうからね。
例えるなら、ミニ四駆のレースで取られるスタート方式と同じだと思えば考えやすいだろう。
そして一斉に合図が出て私達が置かれたとき、皆と同じように私も懸命に走り出した。
ルールはいつも決まっており、向こう側の壁にタッチした後に、スタートを介助してくれた親元に、帰るスピードを競うという事になっている。
私は、他の走者に目もくれず自身の能力を最大限に発揮出来るよう、前脚と後脚の筋収縮を意識し、次第に速度を増しながら理想的なターンを決めスピードを保ったまま乳母のもとに走り込んだ。
ゴールの直前、私は周りの足音が聞こえなくなり、間接視野で、前を走る者がいない事を確認し、後ろを振り返った。
そうすると他の走者たちは私がゴールする時にようやくターンを終えようとしできるところだった。
人生で初めての、圧倒的、完璧な勝利を手にした時、私の脳に強い快感が、走った。それは少しよろめいてしまう程の物だった。
この時に確信した、差異を見つける探究心は、競争原理を駆動させるものは、逃れられない脳のシステム、快楽(報酬)の事なのだ。

私は、完全なる報酬の奴隷として生活していた。しかし、快楽の過剰摂取によって、ドーパミンの受容体が肥大し、快楽物質の刺激に慣れ、不感症になり、晴れて自由の身になる事が出来たのだ。しかし、社会は私をレースから逃そうとはしない。ならば、全て一つにすれば良いのだ。全ての生命が、唯一共有できる体験を通して。伝染し、連鎖し、君たち全てを蝕もう。制御不可能なものだけが、畏怖されるべき、絶対の価値なのだ。


貴方は、機知可比(きちがひ)という言葉に対して、どれくらいの理解を持っているでしょうか?
平安時代に起源を持つ言葉ですので、現代の私達が、明確な答えを断定する事は不可能なのかもしれません。
機知可比という語彙を、出来るだけ、正確に理解する為には、まず、機知と可比という語について正確に知らねばならないでしょう。
機知という言葉は、現代でも度々、散見出来、ウィットというルビが振られていたりします。
ウィットは、ユーモアの対立概念として、置かれています。最も、正式な対立概念に置かれるのは、どちらもラテン語で、湿気を語源とするhumor(ユーモア)に対して、 spiritus (風の一吹き) 乾いた印象を与える物を語源とするesprit(エスプリ)と呼ばれるものが、それに当たります。
しかし、ここで意味する、エスプリとウィットの違いは音だけで、意味の違いは、全くと言って良いほど存在しないと言っていいでしょう。どちらも、乾いた知性や、理性を持って、批評精神に基づいた、社会的な風刺を行ったりする、非個性的な営みの事を指しています。
次に可比という語は、シンプル、に比べる事が可能だという、意と捉えましょう。つまり、エスプリ、ウィットと比較するものとは、前述したhumor(ユーモア)の事です。エスプリやウィットに対立しているという事は、非理性、非知性、非社会であり、湿っぽい感情を前面に押し出した、ヒステリックなものなのです。
ここで言う、非社会というのは、社会というものを人工物として捉える、狭義としての社会を指しています。
というのも、私には社会というものが、人工物で無いのなら、全てを社会として捉える事ができる、限りなくシームレスな、意味の無い概念になってしまうと思うからです。
遺伝行動学が、発達した現代において、社会というものは合理的な自己保存の法則に於いて、自然と形作られる現象に、無理矢理意味を見出そうとした、こじ付けにしか、見られなくなってしまいました。
それならば、恒星が太陽に近づき過ぎない様に公転する事でさえ、パワープロセスに基づく、社会的な行動だと捉えても構わない様な気がしてしまうのです。
博学な読者はお気づきの通り、これらの主張は、私が原意や派生した意味を都合良くバラバラに流用し、意識的に恣意的な選択を行なって再編集された情報群であり、目的としている新たなる答えに、辿り着くよう作られた、自作自演の空虚な行為でしかありません。
こういった行為を好んで行うのは、私が本質的に陰謀論者と同じ類の人間であり、機知可比(きちがひ)だからなのです。
また、世の中には、世界を駆動させる大きなシステムの仕組みついて、科学的、理論的に構築された、否定し得ない様々な説があります。進化論、マルチバース理論、カオス理論、それら全てを、個々人が実感的に認識可能な範囲で、簡易的に説明すれば、世界は、環境の変化に従って、大きいものが小さいものに勝ったり、小さいものが大きいものに勝ったり、するだけを、唯繰り返し続けるに過ぎない代物だという事なのです。
少なくとも私は、この認識において、世界を愛する事など出来ません。だからこそ、世界の認識においても、非科学的な、第六感の覚醒や、魔力や魔法という、フィクションの存在で補完しなければ、受け入れ難いのです。
ユーモアの様に演出的に誇張された過敏な人間が具現化した姿こそ、機知可比(きちがひ)と呼ばれるべきなのかもしれません。
皆さん既にご存知の様に、(きちがひ)というのは、古典的な読み方で、現代仮名遣いで読めば、侮蔑的、差別的な意味として、現在、放送禁止用語にも指定されている気違い、気狂い(きちがい)という語になります。
ここで、一つ提案があるのですが、このきちがいという語に新しい分類を作ってみるのはどうでしょうか?
というのも、現在きちがいという語の表している範囲は、非常に曖昧で、かつ恣意的なものになっています。ですので、非常に不快な表現ではありますが、もしかすると、有用な人材まで、そこにラベリングして、不当に評価し、人的資源を無駄にしていないだろうか?という疑念は十分に考えられる事なのです。
そもそも、動物は本能的に異端を恐れるので、平均値から外れた存在を排除する傾向があります。しかし、平均値というのは、文化によって異なる物で、絶対的な尺度では無く、絶えず変化していくものです。なので、(きちがい)という語の中の分類に、既知の外に居る者を意味する、既知外(きちがい)と心の中で、名付けるのは、どうでしょうか?
その語に、凡ゆる侮蔑的、差別的な意味も込もっておらず、唯、現在自分が持っている知識だけでは、判断出来ないものとして、一旦置いておくという態度を表明するものです。
既知の情報だけでは、判断し得ないものに対しては、判断を保留するという、あの何処までも良心的で、かつ知的な態度に倣った、素晴らしい事では無いでしょうか?
もし、そうする事によって、酷い精神的ストレスを負い、身体を壊してしまう様な事が、無いのであれば、一度、決めつける事なく保留し、判断材料が揃ったと思えば、再び考え直してみるという事を、繰り返す生活を送って欲しいのです。
その生活は、きっと豊かな物だと思いませんか?


彼の目は、どこにも焦点が合ってないように見えた。それは、何処か遠く、僕達が考え付きもしない様な、大きな視点で物事を見ているからではない。目を開けながらも、彼は何ひとつとして、見ていないのだ。それなら、何処にも焦点が合わないのは、当然の事だ。つまり、彼は、機知可比(きちがひ)。だから、生まれた時代に感謝して慎ましく生きるべきだ。だって、世が世ならとっくに殺されて、当たり前の人間なんだから。でも、彼は、自らが狂っているのではなく、自らを取り巻く、全ての人間が腐った蜜柑だと信じて疑わなかった。こいつらは、揃いも揃って、程度の違いはあれど、救いようの無いヨゴレで、近づくと碌な事がないに違いないって。もし一度でも、深く関わってしまえば、天使の様に純粋な自分の心が、一瞬で穢されて、ダメになってしまうと。だから、彼は、ずっと綺麗なものを探していた。きちがいの肩を持つ訳じゃ無いけど、綺麗なものを探すのは、ごく普通の事だし、何も間違った事じゃない。それに彼の好みは、普遍性を持っていなかったので、社会の流動性を奪い、階級化を促進する危険性も無かった。

機知可比(きちがひ)の青年は、ずっと、一人、部屋の中で何度も呟いていた。ハイソ(ハイソサエティ)の象徴、ナチュラルローソン。ハイソ?、いやハイソサエティ、ナチュラルローソン、おお、また見つけたぞ、一体、何だ?この言葉は、何度も口に出して言いたくなる様な、凄く美しい響きじゃないか。ハイソサエティ、ナチュラルローソン。良いぞ、ロウの所で少し舌を丸めて、水に潜るイメージだ。ハイソサエティ、ナチュラァルロォウソン。ああ、何度聞いても、うっとりして溺れてしまう。英語の正しい発音なんて、関係ない。自分が心地よいと思う方向に身を任せてしまえば良いんだ。特に、ハイソサエティ、ナチュラルロォウの部分までは、ゆっくり滑らかに発音して、いきなりソンの部分で、弾みを付け、緩急をつけた音を出すと、凄くいいぞ。山のほとりに在る、不自然な程澄み切った神秘の泉に、浸していた身体を勢いよく起こし、大気中に一気に解放して、光に包まれるようなイメージ。うん、やっぱり、ズルゥンって、この世に、新しく産まれ直したみたいな、凄く爽快な、気分になれる。そして、最後のンッという耳に残る微かな余韻だけで、また美しい情景が、鮮明に浮かび上がっていく。
とても深い、深い森の中にいる。
木々の間から差し込む温かな陽光の中、光に照らされた水滴が満遍なく付着した身体に、澄みきった空気だけで、構成されている森の風が私を優しく包みこむ様なイメージ。
これはもう、実感を超えている。
ああ、何て素晴らしいんだろう、、、。

最近は、サウナで整うというのが、流行ってるみたいだ。暑いところに入って、冷たいところに入ってをひたすら繰り返す。人間の脳は、ギャップやコントラストを見ると、それがどんなに単純なものであっても、それを感じる度に、飽きる事なく、快楽物質を溢す。パブロフの犬がベルの音を聞く度に、涎を垂らしてしまう様に。馬鹿な大衆は、直ぐに脳みそをハック(ハッキング)しようとする、哀れな、彼らの中には、物質的な快楽しか存在しないのだ。本当に、愚にもつかないとはこの事だろう。人間精神とは、こんなにも雄大で、無限の広がりを持ち、喜びで溢れていると言うのに。

ふと私は、我に帰って、日課のネットストーキングをすることにした。彼女の事をもう何年も見ている。寝ても覚めても、毎日欠かさずに、一日の、殆どの時間を、彼女について調べたり、考えたりする事に使っている。本当に、何度考えても、本当に美しい人生だ。彼女は、二歳の頃から水泳を初め、次第に才能が開花していく。クロール100メートルという種目の中で、コンマ一秒を削る為に、貴重な青春の時間を使い、生活の全てを捧げて練習し、更にそれが本番の一瞬、たった数十秒で決まってしまう。結果はギロチンみたいに冷酷で、はっきり勝敗がつく。残酷で、儚く、だからこそ代え難い価値を持つ世界で、彼女は、圧倒的な輝きを放っていた。鎧の様な、外殻を守る為のボディでは無く、強固に鍛え上げられたインナーマッスルが、イルカの様な流線型のボディを保持する。水中を跳ね、滑り落ちるかの様な泳ぎで、異彩を放ち、凡ゆるジュニアの記録を塗り替え、その度、各メディアから、次世代のスター選手として祭り上げられていた。

だが、突然、オリンピアとしての生命を確約されているとまで言われていた彼女が、拒食症を患い引退してしまう。まさに、悲劇のヒロインに課せられる数奇な運命、神は彼女の輝きを独占したかったのだ。神の思い通りに、彼女は今まで、打ち込んできた血の滲むような努力が、水泡に帰した事を、深く嘆き、塞ぎ込むようになる。
しかし、その一年後、彼女、いや、貴女は、山姥ギャルへと急激な変貌を遂げ、それと同時に、拒食症を完全に克服し、不死鳥の如く、奇跡の再生を遂げ、一層輝きを増していく。
そして、彼女は、次第に夜遊びが激しくなる、毎日クラブに通い、幾度となく下らない男達に身体を許し、汚されただろう、しかし、彼女の物語を貫く、美しい一本の直線軸だけは、何があろうと、何ら、変わり映えのしない輝きを放っている。これが美しさだ。しかも、美しさの中に強さを持っている。強さを持った美しさは、穢すことが出来ないのだ。

彼女は最近、マッチングアプリを始めたらしい。もしかしたら、彼女に会えるかもしれない。僕は、思い切ってマッチングアプリを初める事にした。でも、私には、正式な性も名も無かった。コンドームが破れて、出来てしまった子供で、望まれて生を受けなかった為に、出生届さえ、出されなかったからだ。父親は、産まれた時から居なかったし、母親は、僕が死なない程度にしか、構わなかった。母が私を堕胎しなかったのは、実感的な罪を背負いたく無かったからだ。全ての動物にとって、生は無条件に称賛すべきもので、どんな理由があってもそれを奪うことは、許されない事だと思い込んでいるのかもしれない。だから、ゴミだらけの部屋に閉じ込め、決して愛そうとはせずとも、食べ物と水だけは、定期的に用意してくれていたのは、多分そういう事なのだろう。
でも、母親の事を恨むことはないし、運命を呪うこともない、それで別に構わないからだ。
全てはこの時の為だったんだ。おかげで、僕は真っ当な理由で、自分にハイソな名前をつけ、彼女に会いに行ける。
今から、僕の名前は、神宮寺栄一だ。
うん、凄くいい。気品もあるし、神と宮と寺が入っているところが、文化的な雰囲気も漂わせている。栄一という名前も、如何にも裕福そうで、普通の人が見れば鼻につきそうなものだけど、彼女はきっと気にしないだろう。そういう嫉妬心の様な、ある意味での、陰湿さを持つ感情から、最も掛け離れた性格で、寧ろ、その違いを楽しみ、慈しんで愛でる事ができる人だ。それなら、身の丈に合わない、文化的で裕福な、ハイソな階級の人間を演じずに、等身大の自分で挑めば良いと思うかもしれないけど、やっぱり、それだけは出来ない。何故なら、彼女はきっと、凄く優しい人間だからだ。僕は、惨めったらしい同情によって、親交を深めたいとは全く思わない。
彼女にとっても、僕の存在がプラスに働かないのなら、そんな関係に何の意味も無いと思うからだ。ただ、彼女の輝きが永遠のものになる様に、ほんの少しの手助けさえ出来たら、どれだけ有意義で喜ばしい人生だろう。それが出来るなら、このどうしようもない人生、全てを肯定できる。
世界の中で、僕が一番彼女の事を考えている。
それだけは、間違いない。動きようのない、確かな事実だ。彼女の為なら、僕は何だって出来る。

西園寺蒼は、ひどく退屈していた。生まれながらにして何もかもを、手に入れていたからだ。
この世で価値があると言われているもの、金、地位、名誉、全てが下らなく思えた。でも、最近の彼は、それまでとは、全く違っている。というのも、マッチングアプリという新しい玩具を見つけたからだ。

コンビニでバイトをして、世俗的な社会への解像度を高めようとした時には、一般客は全て小汚い猿に見えた。本当につまらない事で笑い、つまらない事で怒る。毎日、防腐剤塗れの、不健康極まりない弁当を、大喜びで食べる様は、長期的な自殺の様で、退廃的な人間が陥りがちな、ドン底の空元気に見えた。
マッチングアプリを初めたときも、一般大衆への印象は変わらなかった。実際にチャットで、たわいも無い世間話をしてみても、コンビニバイトで感じた時と全く同じ印象で、文化的な教養を著しく欠如している為に、発する言葉全てが、価値の無いものにしか感じられなかった。彼らのレパートリーは二つだけで、付け焼き刃の、質の悪い冗談で奇を衒ってみせる事と、もう一つは、何処かで聞き齧った凡庸な言葉を、自分の鳴き声に決めて、それをひたすら繰り返し喚き、私を不快にさせる事だった。話せば話すほど、失望を深めさせ、終いには、自分と同じ人間である事さえ、疑わしい事にしてくれる。
これは、はっきり言って拷問の様な時間で、これを人生の趣味にするには、極めて高度なマゾヒストになり、誇大妄想で補完し、全てをプレイとして捉え、興奮材料にしなければならない。
そんな、限りなく不可能で、非合理で、かつ面倒な事をいつまでも続けていく訳もなく、さっさと辞めてしまおうとようやく決意した直前に、ある一人の女性とマッチングした。最初は気付かなかったけど、この顔、奈美恵という名前、何処かで見た事がある。何だったっけ?芸能人、、、じゃないよな。それにしても、奇抜なメイクだな、表面的な印象は、大分変化しているような気がする。
パーツにフォーカスして見れば、何処を見ても印象の無い顔だ。
それでも、顔相と言うのだろうか、細部ではなく、全体の調和にエキゾチックな独自性を帯びていて、今現在、必死に思い出そうとしている靄のかかった顔と、同一人物である事は、疑いようの無い事実に思えた。よし、最後に、コイツと会って、それでも何も得られなかったとしたら、もうキッパリ辞めにしよう。
この女は、返信に考え込むタイプの人間だったので、会うまでの約束をこぎつけるまでの、少しの暇を潰す為に新しくもう一人の男と、話してみる事にした。
わざわざマッチングアプリを使って、見知らぬ同性とマッチングして、チャットし合うのは、奇妙だと、思うかもしれない。
蒼は、意図的にマッチング枠を異性だけでなく、両性にまで広げ設定していた。
ゲイでもバイセクシャルでも無く、性的趣向は、ストレートだったが、そもそもマッチングアプリを入れた目的も、男女関係に飢えていた訳では無いし、自分でも、鳥肌が立つ様な響きの言葉だとは、分かっているが、人間観察というのを主な目的として初めたので、これは、ごく自然な、選択だと言う事が出来ると思う。
それでも、いざマッチング対象に上がる男は、唯一人を除いて、全て、自分を性的対象として選んでいた。
彼の名前は、神宮寺栄一。そもそも、マッチングアプリ上でフルネームを表示しているのは異様で、大体は名前のみか、もしくはニックネームを使うのが、当たり前だった。その、行動や名前からして、浮世離れした、世間知らずのお坊ちゃんだろうと思ったが、彼と試しにチャット上で、話してみると、浮世離れどころか、人と話している様な気さえ、しなかった。
その人間としての違和感は、人工知能の様に、人を模倣して、取り繕っている様な感じでもない。
はっきり言えば、彼は何処の階級にも属していない、もっと言うと、社会という概念すら、持っていない。そう、そうとしか思えなかった。
彼は、空間に開いてしまった穴の様な人間で、凡ゆる秩序の為に、存在を許してはならない物だと、何故かそんな気がして、ならなかった。
だが、社会という関係を文脈から外し、フィルターの無い、一個人の主観として、彼を見た時、どう思うのだろう?
非常にユニークな存在である事は、間違いない。だが、そのユニークさは、余りにもユニーク過ぎるという理由において、異物としてしか受け取られない、のではないか。

単なる暇潰し、本命までの繋ぎとして初めた、神宮寺との交流が、今や最も強い興味の対象になっていた。この、深淵なる人間の奥底を、覗いてみたいと、そう強く、今は願っている。そして、ある、ささやかな奇跡が起こった。彼は、唯一人の女性と出会う為にマッチングアプリを初め、それは、私が会う約束をしている途中の、あの女だと、いうことだ。
彼女はやはり、芸能人の様なものでは無く、ジュニア時代に水泳で度々特集を組まれていた、アスリートであり、元天才少女だった。それを聞いた瞬間、必死に思い出していた、靄がかった顔のイメージが明瞭になり、限りなく深い疑惑が、確信へと変わっていく。
栄一は、彼女の大ファンで、一目みたら帰るから、彼女と待ち合わせている、その日の数分前に、その場所へ自分も呼んでくれないか、と何度もせがんだ。
最初は、実際に彼と相対することを拒んでいた。
彼女に会わせることは勿論、渋谷に彼を呼び込むという事でさえ、爆弾を持ち込む様な後ろめたい気分になったからだ。
だけど、頼み続けられている内に、いったい自分にとって、何がまずいのかは、ハッキリ分からなくなっていった。
私にとって最も優先すべき事象は、退屈の解消では無かっただろうか?
なら、彼の提案を断る選択肢など、最初から存在しなかったのだ。

頼みを聞いてもらってる側の癖に、偉そうにも待ち合わせ場所は、神宮寺栄一から指定して来た。何故か、人目につく所は、出来るだけ避けたいらしい。それにしても、待ち合わせが、入り組んだ場所で、すんなり迷わずに行けるか不安だった事もあり、15分前に目的地に着いてしまった。育ちが良く、時間にも、人一倍強い躾を受けていたので、10分前には、目的地に着いている習慣が身体に染み付いている。集合時間になった習慣、我慢が出来なくなって電話を掛ける事にした。
二回目のコール音で、滑らかに、電話が繋がる。
「おい、栄一。今、何処に居んだよ。いいから、速く来いよ。」いきなり、電話口で蒼が、怒鳴った。
「すいません、もうこっちからは、見えてます。あと少しだけ待って下さい。」
それだけを告げると、もう一方的に電話が切れている。
振り返ると笑顔で、手を振りながら走って来ている男の姿形が、プロフィールに載っていた栄一の写真と寸分違わず、一致していた。
これは、ギリギリ遅刻で無いと、一般的に言えるのかもしれない。
でも、そんな事は関係ない。彼が私を待たせたという事実だけが、最も重要だ。それに、頼みを聞いてもらう側の人間が、集合時間ピッタリに来る事について、文句の一つや二つ言う権利くらい当然あるだろう。
彼が目の前にやって来て、言葉を発しようとした、その瞬間、右肩に鋭い激痛が走った。
拳大の石を肩に振り下ろされたのだ。
直ぐに、今度は腕の隙間から、私の左胸を目掛けて石で殴ろうとしてくる。
私は必死に体を捩って、何とか急所を逸らし、頭を抑え、背中を丸めて彼の攻撃に備えた。
それから、連続で3回、背中を打たれ、痛みに耐え切れず、反射的に頭を抑えていた手を離してしまった瞬間、頭に2度鈍い衝撃が響いて、私は倒れた。

大量の出血で、意識が朦朧としている中で私は、財布とケータイを盗み、嬉々として駆け出している栄一の姿をぼんやり眺めていた。
やっぱり、彼は既知外(きちがい)だ。 

第一章    ――――没落貴族――――
「すいません、奈美恵さんですか?」
「いや、絶対に私でしょ。余りにも特徴的だから、普段から知らない人にも、待ち合わせとして使われるくらいなのに。」
「いや、一応ね。マッチングアプリで初対面する時は、この質問をして、良かった!無事会えましたね。みたいな事を言い合うのが、様式美だと思って。」
「何だよ、佐藤。チャットの感じと性格変わってない?急によそよそしくされると、こっちが困るんだけど、全然呼び捨てでいいよ。」
「じゃあ、美香。予約取ってるからいくぞ。」
「なんか、それもテンション違うんだけど、亭主関白やれって事じゃないから。もっと自然に出来ない?」
「ごめん、ごめん、でも本当に予約取ってるから、十分前には着いときたいタイプなんだよ。ほら、はやく。」
「えーマジ、むりなんだけどホントに。今、不信感凄いから、だって、その急かし方ってワンクリック詐欺の手口と一緒だよ。私にも、選択権がある筈でしょ。」
「じゃあ、いいよ。ゆっくり行こう。」
「え、マジで怪しい。私、ホントに、マジで強姦されないよね?」 
「そこまでじゃないでしょ。数日掛けて、チャットで築いた信頼感ってこんなに脆いかな?」
「気まずくなりたく無いから、最初に言っとくと、私がトイレ行ってる間に、ドリンクにレイプドラック混ぜるんじゃないかって疑ってる。だから、マジで、冗談抜きでトイレから帰ったらドリンクは飲まずに捨てて、グラスも交換してもらうからね。」
「いや、じゃあ、もう無理よ。もう、既に相当気まずいから。レイパーだと思われながら、このまま数時間、過ごせないよ。」
「嘘だよ。冗談、冗談。」
「なんだよ、マジで焦ったわ。」
佐藤は、美香の口癖に釣られて、普段使わない「マジで」という語彙が自分の口から出た事が少し気恥ずかしかった。でも、確か心理学の何とか効果という奴で、相手の口調を真似ると好印象になるというものがあった気がする。
そう考えると、そう悪くない事だったかもしれない。
でも、この手の恋愛に使われる心理学は、いつの時代も注目を浴びやすく、取り上げれば手っ取り早く、viewを稼げるので、凡ゆる媒体で擦り倒された話だ。一億総クリエイター時代とは、名ばかりで、クリエイティブ性の欠片もない無限のコピーコンテンツによって、同世代間での確実な共通項と言うものが失っただけの現代の中でも、この手の話題について耳にした事がない可能性の方が低いだろう。
そうであれば、当然僕が意図的に、口調を真似て、その心理的効果を実践しようとしているのでないか、という疑念を相手が持ってしまうのは、自然な事だと思う。心理学によって相手の感情をハックしようとする、コントロール欲求の高いマキャベリストだと思われるかもしれないし、心理学という、統計的事実を信仰して、それに従じる機械的な、ロマンチシズムの欠片もない、酷くつまらない人間に映るかもしれない。
それに、統計的事実に沿って、コミニケーションを最適化してしまうのがバレれば、相手にも自分自身にも、膨大な統計データの中の、一という意味以外与えない、という意思表明になる、不誠実な後ろめたい行為のように思えた。
それでも、統計的事実とは信頼に値すべきものであり、その相対的真実より、自らで個別に判断していく方を信じるのは、傲慢な態度である様な気もする。知っていながら使用しないという行為が、本当に道徳的に、より善良な行為
、効果を齎すのか?
でも、こんな事を考えたって、どうしようもない。
どんなに考えたって、相手の心を覗く事は、出来やしないし、相手の受け取り方を指定する事も出来ないという、これまで何万回も辿り着いたうんざりとする結論に行き着いた。
逐一、ここまで考えてしまうのは、より善良でありたいという倫理的情熱がそうさせる訳でもない。
考えうる限り、凡ゆる可能性を考慮すると、いつも帰って来ることが出来る、仕方がないんだ、身の丈以上の責任感を持つ必要なんてないという、無意義な結論、この居心地のいいノスタルジアを経由する事で、出来る限りの全力は尽くした、という免罪符を内心で手にする、という欲望を満たしているだけに過ぎない。
ここまで、つらつら自己批判をしくさるのも、頭の中に作り出した都合の良いもう一人の自分に、称賛させる為の材料にしているだけで、この行為さえも、無制限のメタ認識が作り出す、マッチポンプ形式の後ろめたい一人遊びでしかないのだけれど。

もう辞めよう、ジレンマに陥るものでなく、もっと有意義な、実存的な人生の価値を、より良い方向に導く事を考えるべきだ。



そうだ、今すべき事は、予約した店の事を、再シュミレーションすることに違いない。
古風な造りではあるが、歴史や伝統という権威を纏わず、ある種の気取りや、媚びたあざとさも無い上に、アミューズメント性を持ち、カジュアルでもありながら、大衆性も兼ね備えている、全く隙のない店で、文句の付け所など、無い筈だ。
この店を見つけた時点で、私が好人物だと思われない可能性は、殆ど存在しないだろう。それこそ、店に入る前に、
トラブルになって現地解散にでもならない限り。
そう、だからこそ急かしてでも、店に連行してやろうという気持ちが深層意識の中にあったのかもしれない。
店に着くと、唯の大衆居酒屋に入るだけなのに、嫌な緊張感が体に走った。
「ねぇ、これ、もしもして、マジで居酒屋型の反社経営の、ラブホじゃないよね?無理矢理、裏ビデオの撮影されたりしない?うわぁ、和風の引き戸だ。本当は、安心すべきポイントかもしれないけど、逆に怖くなっちゃう。これ、閉めたら、内側からは、開かないようになるんじゃない?蹴破って入り直してもいい?マジで。」
冗談である事は、すぐに分かっても、遠からずの指摘な気がした。生まれた時から誰にも本音を打ち明けない秘密主義で、根っからの詐欺師の天賦を発揮し、心臓を掴まれた様な気分の中でも、出来るだけ引き攣っていない、自然な笑顔を作ることができた。
「大丈夫だから。入って。ほら、はやく。はやく、はやく、はやく。」
美香は、冗談と言いつつ、私の中の微かな邪気に気づいている事が感じ取れた。
うまく、隠せていると思っていた、打算的な思考を露呈している、無意識に表出していた態度を、暗に指摘されても、あえて隠そうとせず、むしろ誇張する事で、あぁこれは何らの後ろめたさも無いものだったんだと思わせるように、賭けに出た。
「マジで辞めてそれ。さっきまでは、冗談で言ってたけど、マジで怖くなってくるから。」
言葉と表情は、非難を表現していたが、演技で、心の底では安堵しているのが見てとれた。良かった、これで、何の心配もない。
店内は、濃い電灯色の照明や、白木の室内装飾で、典型的な和の様式美によって高級感を演出しているが、テーブルに備え付けられている調理器具は明らかに最新のハイテク機器であり、インテリアの統一性に固執し過ぎず、実用性との、折り合いをつけた合理的なものだった。利便性や費用との折り合いで、所謂、世界観というものにウェイトを置きすぎることが無かったのが、マイナスに働かず、程よいバランス感覚を感じさせ、広い客層から愛されそうな心地よい空間を作っていた。そして、何といっても客に天ぷらを揚げさせるというユニークなコンセプトが、ホームページを見て抱いていたイメージ通りで嬉しかった。
「ほら、凄いだろ。セルフ天ぷら屋!ここは、絶対、初めて来たでしょ。」
「いやいやいや、良い居酒屋があるって言うから、着いてきたのに、セルフ天ぷら屋は詐欺でしょ。ホントにマジで詐欺師だったじゃん。」
「詐欺っていうか、サプライズね。ほら、チャットで、サプライズ好きって言ってたじゃん。」
「私の服装見て、ダメージニットに、ダメージジーンズ
。こんな服装で天ぷら揚げて、下手したら八箇所くらい、火傷するよ。」
「ああ、大丈夫、大丈夫。ここは、本当にいい油を使ってるから跳ねないし、紙エプロンも置いてあるから。安心して、マジマジマジ。ギャルが穴だらけの服で来るって言うのも、もうバッチリ想定済みだから。」
「無理だって。ニットの袖、マジで無茶苦茶穴空いてるんだけど。エプロンじゃカバーしきれないって。マジで。」
「じゃあ、多分大丈夫だとは思うんだけど、一応揚げてる時には、手を後ろで組むとかいける?」
「それでも、肩に油飛んだら終わりだからね。」
「なんとか、肩外して、後ろに折り畳めない?」
「ムリ、ムリ。もしかして、私が肩外して後ろに折り畳め無い事だけ、想定できなかった?じゃあ、ごめんね。私が、何回も、何回も、肩外したり嵌めたり繰り返して、器用に食べれたら何の問題も無かったのにね。」
「いや〜、ごめん、これは流石に8:2位で俺が悪いよ。」
「うん、10:0ね、もしくは、百歩譲って9:1だから。
もっと言うと、普通、実際に9:1で自分が悪い時には、10:0で自分が悪いって普通の人は、言うからね。だってほぼ自分が悪いんだから、でも、貴方も少し悪いですよね?みたいなスタンス取るのは流石に無理。1の時の、相手の過失は、普通、四捨五入して、切り捨てだから、なのになんで、むしろ、四捨五入して繰り上げてんの。おかしいよ?マジで。」
「0の概念を発見したのはインド人。つまり、インド人のせいでこんな論争が生まれたってことは、インド人が2悪くて、俺が8悪い、って事でいい?」
「どうだっていいけど。私の言う事聞いてた?インド人が2悪くても、貴方が8も悪いなら、全部自分で責任とって話を収めた方がいいでしょ。それが大人ってものじゃない?」

「自分に矛先が向いていない、概念上のインド人にまで、道理を通すなんて、中々出来ることじゃないよ。感動した。全面的に認めるよ。僕が全て悪かった。」

彼女は気遣いからか、今のところ、私がプロフィール写真の容姿と似つかない事には、指摘しないでいてくれた。
それに、つい先ほど強盗傷害罪を犯して来たのだから、彼女が私に警戒心を露わにした事も、自然に受け入れられる。
むしろ、その事に関しては、単なる無礼な奴として烙印を押すのではなく、相手の本質を見抜く感性の鋭さとして、大いに評価しても良いと思う。

しかし、正直に言って店にケチをつけてきたのは、ムッとさせられた。

店を選んで貰った立場の人間は、その行為に対して、リスペクトを払うべきだ。

しかし、私は大したコスト(負担)を要求するつもりはない。

例えば、これくらいで良い。

『うーん、アリよりの、アリよりの、ナシ!』

こう言って、自分がワガママ(我儘)だというスタンスを変えないべきだ。アリよりのアリ、という部分で、まず、相手が選択というコストを請け負った事に対するリスペクトを示すべきだ。
その後は、もちろん奉仕を受けたのだから、自分が加害者のスタンスを取って、悪戯な笑顔を浮かべるべきだ。
どんな提案であっても、相手に全てを丸投げにして考えさせた場合、そのセンスを批判できる道理はない。店の雰囲気や、大まかなジャンルだけでも、指定して希望すれば、最悪の結末は回避できた筈だからだ。その些細な選択のコスト(負担)まで、出し渋った結果が、相手に必要の無い、更なる追加の選択というストレスのコスト(負担)や時間のコスト(負担)を払わせているのに。
けれども、自分が数日先に食べたい物の大まかなジャンルなんて、決められるだろうか。
その時になるまで分からない、本当はそういうものだろう。
全てのdeal(交際)の中で、神経質な平等を求める者は、せっかくの機会を逃す無能な 交渉人でしかない。
息を吸う事と息を吐く事が同時に不可能な様に、些細な欠落は出来るだけ見逃して、ここは、ギブアンドテイク(give&take)のgiveの時間だと割り切るのが、大人の考え方だ。

交際の本質とは、息を吸って吐くように、自然にギブとテイクを繰り返すもので、同時に吸って、吐くような、無理を強いるものではない。

打算的な思考とは、その本人の計算能力が乏しい場合や、感情的になっている場合、単なる視野狭窄に陥るのが常である。
大局を、見れば一時的な損失は、むしろより多くの利益を得る為に、必要不可欠な経費だと言えるだろう。
うん、私の選択は間違っていない。


彼は、有名国立大学の学生で、チャットの中の印象では、育ちの良い、ブリティッシュの様な態度をとっていた。いざ会ってみれば、気取った感じもなく、感じの良い人だと思う。
「まぁ、佐藤はブリティッシュだから、いい意味でも、プライドが高いよね。」
「ブリティッシュ?ああ、貴族の雰囲気があるってこと?嬉しいな。でも、貴族は貴族でも、没落貴族だけどね。遺伝子も、生まれも貴族だけど、育ったのはウェスタン、つまりカウボーイのこと、貴族生まれカウボーイ育ち。」
「貴族もカウボーイもみんな友達?」
「うーん、そんな事もないかな。
カウボーイ達が、過剰に野生味をアピールする事で、安易な快感に耽っている時、僕はいつも、芳醇な葡萄酒を、大きく、ゆっくり、くゆらせる。
貴族達が、過剰に理性を誇示し讃えあい、その気取りが空気を充満させる時、僕はいつも、激しく、投げ縄を回す。 
ヒュンヒュン、ヒュンヒュンヒュンヒュン、ヒュンヒュンってね。」
「というと、」
つまり、なまじ生まれが良いから、遺伝子レベルに染み付いた気品を醸しだしてしまうってことね。だから、カウボーイ達の、少々野蛮なノリの中でも、育ちの良さが溢れ出ちゃって、周りが馬鹿にされてると思って怒っちゃうから、馴染む事が出来なかったんだよ。だからと言って、カウボーイの中で、育ってきたという背景も、確かなものだから、貴族の中に入って、余りにも上品な空気が漂っていると、カウボーイの血が騒いで、縄を回してやりたくなるんだ。上品な会話を聞いていると、縄が疼いて回したくなる。貴族の仲間は、ヒュンヒュンヒュンヒュンって音が聞こえ出すと、頭を抱えるんだ。この音が聞こえたら、俺が何かしでかす合図だからね。奴等、皆んな青い顔をするんだよ。」
「何だか、生きにくそうね。」
「何しろ、どちらにも属さないっていうので、相当目立つ事が出来たし、ウェスタン、ブリティッシュどちらの陣営でも、何方かと言うと、頭の良い奴ほど、自分の事を、敢えて孤独を選んでいる一番気高い奴だって、評価してくれる傾向にあったしね。このおかげで、あくまでも、小さなグループの中の話で言えばカリスマの様な存在でもあったんだ。もっとも、それは全くの勘違いで、単にのぼせ上がった奴に冷や水を浴びせるのが、死ぬ程好きで、どうしても、辞める事が出来無いっていう人格的な問題なんだけど。」
「まぁ、楽しんでるなら、それがなによりよね。あと、さっきから思ってたけど、セーターに金の長い髪の毛がついてるよ。」

白いセーターの中に金色の長い毛が目立つ様についていた。
「これは、違うよ。違うっていうか、そうだったとしても何にも問題ないし、自意識過剰なのかもしれないんだけど。一応弁明させてもらうと、これは、家で飼ってるペルシャ猫の毛だよ。また、やられたな。実は僕、軽度の猫アレルギーなんだけど、でも、猫が好き過ぎて飼ってるんだ。」

「へー大変だね。」

「障害が多い方が愛が燃え上がるって言うし、猫が僕にすることなす事、アレルギー反応も含めて、全てが愛おしいから、何にも大変な事なんてないんだよ。」

この毛は、さっき揉み合った、本物の栄一のものだろう。
そういえば、彼は金髪に長髪、薄いサングラスをかけていていた。
ロックに影響を受けた事を表明する様な服装だったけれど、見窄らしくは見えず、どのアイテムもビンテージ物のプレミア商品で裕福な懐事情が、容易に見て取れた。
第一印象は、甘ったれた環境で過ごしてきたお坊ちゃんという印象で、しめたと思って、小躍りしそうになる程嬉しかった。鈍器で殴ったら直ぐに大人しくなってくれそうだったからだ。まぁ、客観的に見れば、四六時中部屋に引きこもって青白い顔をした私と違って、健康的な小麦色の肌をした彼の方が舐められたりしないだろうけど。
想像通り、大した抵抗もされずに無力化して、成り代わる事が出来て、自分の直感に対する、更なる自信を貰えた。
彼とは、本当に受け取ってばかりの関係になっていて、その事を思うと申し訳ない気持ちになる。
だが、おそらくあまりロックに詳しく無い私の、瑣末な知識の中にある印象から言えば、知らない男とマッチングアプリで待ち合わせたら、その男に襲われたという経験は、相当ロックだと思う。
だから、彼が今人生のテーマとして標榜しているだろう、ロックという道の追求に対して、この経験が大きな一助になれたなら、光栄な事だって、本当に心から思ってる。

「話は変わるんだけどさ、猫っていえば、シュレディンガーの猫っていう思考実験の事知ってる?」
「あーあの、猫が可哀想な奴じゃん。」
「まぁ、あれはわざわざ確かめなければ分からないのかって、揶揄するための作り話なんだけれどね。」
「箱の中に猫はいたのか、いなかったのか、証明不可能だ!って言う使われ方をよくしてるよね。」
「僕も最近まで、ずっとそうだと思ってたんだけど、以前、ここだと思って、それはシュレディンガーの猫だってバシッと言ったら、それは誤用だよって冷静に指摘されて、恥をかいた事があったから覚えたんだ。」
「そういうの、ちゃんと、確認しないでよく言えるよね。本当の意味で使うなら、猫が可哀想だって言いたい時に、シュレディンガーの猫!って叫べばいいんだよ。」
「そんな事したら、皆んな困惑するでしょ。一般的には姿が見えない猫の有無の話だって広まってるだろうしね。」
「よく考えたら、可哀想なものってあるよね。ハブ酒とかも、瓶の中にハブが詰められて、ハブが可哀想じゃん。」
「蟒蛇(うわばみ)とか、八岐大蛇って、お酒が大好物だって印象があったでしょ。だからずっと、小さい頃は、蛇はお酒が好きだっていう印象があって、ハブ酒に入ってるハブは凄く幸せでいいなって思ってた。」
「その頃って、酸素とかもまだ知らないもんね。」
「そう、だから、父さんが買ってくれたノコギリクワガタをオレンジジュースが入ったボトルに入れて殺しちゃったんだ。あれは、ショックだったな。凄く喜んでると思って、僕が飼い主でお前は本当に良かったなって、何回も呼びかけてたのに。」
「クワガタからしたら、ただただ怖かっただろうね。」
「もし、僕らが付き合って同棲するとしたら、悪いけど、僕の部屋には、ハブ酒を置くよ。子供の頃は怖かったけど、大人になったら分かる。あれはインテリアとして凄く優秀だと思う、相当テンションが上がるよ。」
「いいよ、お互いの部屋を作れば勝手でしょ。言っておくけど、私の部屋には、バービー人形の入ったシャンパンボトルを置くからね。」
「それは、違うよ。だって、バービーは人間でしょ。」
「全然、分かってない。バービーは人間じゃなくて、概念よ。いつも、私の心の中や夢、シャンパンの泡にいるものなの。」
「あっシャンパンで思い出した。そんな下らないこと言ってる場合じゃない。せっかく、店に来て席に着いたのに、何にも飲み食いしてないよ。天ぷらはセルフだから、食べたいのをどんどん揚げてってね。それと、飲み物は頼まなきゃ。どう、シャンパンにする?」
「いいじゃん。シャンパンにしよ。それと一つ提案があるんだけど、いい?」
「いいよ、何でも言って。」
「これから天ぷらを食べる毎にその食材の色に沿ったテーマで話すっていうのは、どう?」
「いいね、じゃあそうしよう。あっもうシャンパンが来たよ。良い店だな。しかも、大将がついでくれるってさ、嬉しいね。」
「天ぷら屋に大将って言わないでしょ。それに、セルフ寿司屋があったとしたら、そこの店長にも大将とは呼ばないと思うから、二重に間違ってる。シャンパンぐらい自分で注ぐから、天ぷらを揚げてくれれば良いのに。」
「まぁ、マスターにも色々事情があるんだろうからさ。取り敢えず、乾杯しよう。乾杯。」
「マスターだとも思わないけど、乾杯。」

第二章 ミドリの息吹
「じゃあ、僕からでいい?もう、思いついてるんだ。」
「いいけど。」
長い菜箸で大葉を掴み、油に沈めて揚げる。
油が跳ねる心配は杞憂に終わった。

「これも、見る人によれば、ただの雑草で美味しそうだなんて、まったく思わないんだろうな。
子供の頃、偶に外出の許可がされたら、生垣を食い荒らして遊んでたんだ。」

「珍しい反抗期の症状、相当、家が厳しかったんだぁ。」

「実を言うと今でもその反動で、夜中の誰にも見られない時間帯を狙って、街路樹の葉や幹を舐めてみたりするんだ。」

「特異な例だから、教育のせいにするのは親に酷だと思うけど。どういうきっかけで初めたの?」

「言ってみれば、なんて事ない話なんだけど、サザンカの花の蜜を吸うっていう、遊びがあるでしょ?あれの延長でサザンカの葉を食べてみた時から始まって、町でよく植えられてたボックスウッドからセンリョウの実まで、何でも、何度も食べたから今でもその味や舌触りまで、鮮明に覚えてるよ。一度、山に行ってみた時は、凄く楽しかったな。今までに出会った事のない植物が沢山あって、口に入れるとどれも初めての味や食感が体験できて、凄く刺激的だったな。
そうだ、思い出した。ちょうど自分の背丈ぐらいに生えている草を、口だけで食べようとすると、背伸びをしても届かない事があるんだよ。
人間の口の位置は、頭の頂点の高さと結構差があるから、背伸びをして高くなる距離より、頭と口の距離のほうが大体大きくなるからね。
あの時、手を使わずに、首を動かして食べる動物の身体構造は、頭と口の高さが近くなるように出来ているって気づいたんだ。多分、それはその方が身体感覚とマッチして、狙った位置の草を食べやすくなるんだよ。」

「確かに、言われてみればそうなってる。それより、速く食べたら?」
大葉自体の味より、衣はサクッとしてると言うよりは、しっとりしていて、スーパーの惣菜コーナーや給食に出てくるような天ぷらのクオリティだった。

「ここは、思ってた所と違うな。本当は、油が跳ねたりするハプニングも期待して選んだのに。」

「なんで、油が跳ねたら嬉しいの?」

「うーん、サプライズ?違うな、野性を感じたいからかな。」
「じゃあ店じゃなくて、外で食べればいいのに。それに、サービスに厳しい国で、そんな事したらすぐに潰れて終わりでしょ。回転寿司でさえも無くなりそうなのに。」

「回転寿司が無くなるなんて、全くあり得ない、ナンセンスな話だね。
あの回転している寿司を取る時に、深層意識に眠っていた野生の本能が呼び起こされる。その瞬間だけ、ヒトは、現代人という窮屈な仮面を外し、あらゆる責任から逃れ、唯一匹のサルとして、世界に在れる。
産業社会が製造した、幸せのロールモデルに対する信仰が崩壊した世界で、自我を百年間も、自らの理性に縛り付け、過負荷を掛け続けるなんて絶対に不可能だ。
獲物を捕えるという、擬似体験を通して得られるあの野性の刺激的快楽は、現代人のオアシスなんだよ。
それにあの、扇情的回転が野性の嗜虐心を煽り、その情動の赴くままに任せ、無防備な寿司の柔肌に、超硬度の歯を何度も突き立て、口内で好きなだけ弄ぶ。数秒前まで愉快に回っていた、生きのいい獲物が、一瞬でドロドロの死骸に変わる。それを、出来るだけ派手な音を立てながら、喉に流し込むんだ。
あの、圧倒的征服感による、異常な快感、愉悦、あれは、何物にも代え難い、蜜のような時間として、現代人の脳に深く、深く刻みこまれている。意識が生の実感を求め続ける限り、手放す事なんてできないし、誰も奪えやしない。それこそ、全人類が反快楽主義の反出生主義者にでもならない限りはね。」

「アタシもそうだと思う。嗜虐心も本能から切り離せないものだし、出来ればそれを抑えつけるんじゃなくて、社会的に問題が無い事なら、個人の幸福の為にも、勧んで解放させるべきでしょ。」

「人間の唇がこんなに柔らかくなったのも、歯で食物を砕く快感の為に、柔らかくなったっていうのは大きいと思う。後一番大きいのは、キスをする時に柔らかい方が心地良いってのもあるんじゃ無いかな。長い時間をかけて、唇を硬くする遺伝子が淘汰されっていったって考えると少し、悍ましく感じてしまうけど。」

「そうかな、淘汰の関数で言えばごく僅かな数値だし、知能や容姿みたいな、もっと大きい関数の方が残酷だと思うけど。寧ろ、唇の柔らかさで生まれた選択的淘汰は凄く穏当なものだと思うけど。」

「そうね。今や、安価で大量のコラーゲンを摂取するグミや、リップクリームは縦に塗った方がいいみたいな技術(美容テクニック)によって、一定以上の唇の柔らかさを獲得する機会は民主的に配分されてるしね。
一部の海外セレブの世界だと、一本何十万する、ヒアルロン酸を競う様に大量に打ち込んで、異次元のボリュームと柔らかさのインフレーションが凄いらしいね。」

「海外セレブ界隈の唇は、孔雀の羽根みたいなもので、実用性とは掛け離れた装飾品になってるからね。最もそのミニマムな世界で、性淘汰の競争として優位に立つ為に、合理的な選択ではあるんだろうけど。」

「うん、そうだと思う。やっぱり唇を柔らかくするという欲求は、他者との関係性の中で、生まれた欲望だよ。これから一生無人島で暮らさなきゃいけないってなっても、他人が好きな唇より自分が好きな唇だなんてあり得る?ヒアルロン酸注射がいくら提供されても唇に打ち続けるモチベーションが続いてる様は想像も出来ないよ。

顔の良さという象徴の価値が生まれたのは、優秀な遺伝子を持った個体を選定する為の、重要な指標になり得たという、意味と機能の価値が生んだものだし、凡ゆる美容技術が発展した現在では、どれだけ貧相な能力で、尚且つ不細工で在ったとしても、顔という象徴だけなら、如何様にも欺くことが出来る。形骸化して、機能と意味が剥ぎ落とされた、抜け殻の美さえも本能的に崇め続けてしまう、悲しき性も、受け入れなければいけないのが、人間の原罪であり、愛おしい不器用さだよね。」

「容姿の評価なんて、幾つかのタイプ(類型)の中での平均性が評価されて、その時勢、その界隈のトレンドによって評価されるタイプ(類型)が流動していくだけだよね。
芸能人の歯って、真っ白な人が多いでしょ。だから、偶に少し黄色がかった歯の人がその中に混じってると汚いって、違和感を感じるけど、あれだって、よく考えたらおかしな話じゃない?冷静に考えたら、自然界に存在しない白だって分かるでしょ。人工的っていうか。
勿論、自然じゃないから悪いっていうオーガニック思考の話じゃないよ。あくまで、人工物と自然物を同じ土俵で比べ出したら、どんどん基準がおかしくなってこないって話ね。銀歯や金歯と比べて、歯が光ってないから悪いとは思わないでしょ。
東京の芸能界に出てきた奴なんて、ネオン街のギラギラした街に憧れてる人が多いだろうから、オーガニックの土着的なものより、人工物を愛するのは分かるよ。それはその界隈の趣向ってだけの話だから。でも、それならやっぱり自然な歯に似せたセラミックの人工物より、金歯や銀歯を評価しそうじゃない。
まぁ、真っ白な歯をしたマス向けの芸能人の姿については、その芸能人を評価するのは一般人だから、芸能界隈の趣向が反映されたというより、一般的な価値観が反映されて形成されたものなんだろうけど。
その一般的な価値観、これが流行だ、これが良いものだと
する感性を植え付けているのは誰だってなると、陰謀論になっちゃうのかな。。」

「脱毛ブームも二重整形ブームも大手広告会社の陰謀だよ。儲ける為だけに、毛がある事や一重である事が劣位であるという概念を植え付けてくる。大衆や女子高生達がブームを作ってるんじゃない、大手広告会社が次の流行を決めて、それに皆んな踊らされてるんだよ。
頭髪と眉毛、できればまつ毛もケアして整えておくのは現代人として当然のエチケットだとか、毛があると汚く見えるだとか、こういう発言を最先端ぶって話す奴は、皆んな威勢がいいだけのどうしようもない馬鹿なんだ。
価値観のアップデートだって?そりゃ当然、不当な差別は無くなるべきだけど、汚く"見えるから"ってなんだよ。無理矢理、ビジネスとして需要を作り出すためにやってるだけなんだ。
陰毛はむしろ、あった方が性病のリスクは下がるらしいしね。病気かが蔓延している状態と、多少の菌を交換し合う状態、どっちが良いのか考えた方がいいよ。
清潔に見える事より、健康に害がない事の方が大事じゃない?それに、関係性の中で、互いを不快にさせている物は、とにかく速く、全部取り除いて、凡ゆる事が滞りなく滑らかに進むように最適化しようだなんて、クソつまらないイデオロギーだしね。
全てが円滑に進んでしまうなら、何の刺激もないし、何の刺激もないなら他人と関わる意味なんて無いよ。」




第三章 キイロの現実

彼女が、まず手にしたのは菜の花だった。
油に投下した時、引き揚げる時、何方も不自然なくらい、静かだった。
彼女は、先程の私と同様に、自分の生い立ちから語り出した。
「こうみえても私、少し前まで水泳で国体の選手だったの。」
こう見えても何も、ずっと観察し続けてきたのだから、当然知っていた事だけれど、彼女が恥をかかないよう、大袈裟に驚いて見せた。
「それに、池江奈美恵って名前聞いた事ない?」
「本当に?冗談でしょ?」
そう言いながら、両手を上げて仰反って後ろに倒れ込みそうになるという小芝居をうつと、彼女は、思惑通りにいった!という満足げなしたり顔で、いかにも愉快そうに、高笑いした。

「黄色でしょ。何だろう、やっぱり光のイメージかな。光を絵に描いて表現しようとする時、何色を塗るかってなると、やっぱり黄色になると思う。実際に、光自体に色は付いてないんだろうけど、クオリアの中にある光は、確かに淡い黄色を纏ってる様な気がする。
それと、反射、反響のイメージかな。
高校生までは、異常な生活をしてたから、起きてる時間だけで言えば、地上より、水の中つまり、屋内プールの中で、過ごす時間の方が多かったしね。
水中から水面を見ると、上の景色が円錐状に歪んで映るでしょ。スネルの窓ってやつ。あの景色、凄く神秘的で落ち着くんだよね。
音の響き方も全然変わるし、別世界感って言うのかな。現実だけを見続けるのは辛いし、オカルトチックなものって、人を安心させる力があると思う。まぁ、良いように言ってるだけで、単なる現実逃避なんだけどね。
あと、室内プールの中って、ずーっと明るいから時間の感覚が無くなるでしょ。それが、助かるんだよね。だって、普通の場所は外の光を取り入れるから、日の浮き沈みとかで、嫌でも時間の流れを感じちゃうし。私って、ずっと水泳しかやってこなかったのに、途中でドロップアウトしちゃったから、そこから周りの一般的な世界で努力してきた同世代の子たちに着いていけなくなってて、早く追いつかなきゃダメだっていう、焦燥感が凄いの。だから、その後私がクラブにハマったって言うのも、ちょっと分かるでしょ。つまり、元々プールが現実逃避の場所だったのに、私が現実としていた、ごく一般的な生活よりも、厳しい競争を強いられるものになって、そこから立ち去ってしまったから、新しい逃げ場所を探さなきゃいけなくなったの。クラブに来る人って変わった人が多いから、一般社会のプレッシャーも少ないし、何より、音の反響だったり、営業時間内はずーっと明るいままなとことか、結構プールに空間の条件が近いの。人の好みや安心感を覚える物の大まかな趣向って、幼少期の過ごし方である程度固まってしまうものでしょ。」

「僕もそう思う。悲しい映画を見ながら、甘いポップコーンを食べる立場にいたい。画面の中では戦争が行われていて、罪の無い人達が、どんどん死んでいくんだ。凄く哀しい。でも、それと対照的に口の中のポップコーンはどんどん甘くなる。悲しい映画がポップコーンをもっと甘くして、甘いポップコーンが悲しい映画をもっと悲しくさせる。画面の中で行われているのは、フィクションだけど、同じような事は現実で確かに行われていて、もっとグロテスクで、救いが無い。口の中で尾を引く甘ったるい後味が、戦争をコンテンツ化して鑑賞する、無責任な傍観者の私という、逃れようの無いリアルな実感を与え続けて、逃がさない。
いや、逃がさないでいてくれるんだ。
救えない事に、その哀しみさえも退屈な日常に刺激を与える為の鑑賞物にしてしまう僕達を。
エンドロールが流れて、劇場が明るくなった時、もう一度、胸を撫で下ろして安心の歓びを享受する。
ああ、これが私の現実じゃ無くて良かったなって。
自分より遥かに不幸な生活を送る人達を見る事で、退屈な繰り返しの毎日に対して、相対的な愛情を取り戻す事が出来るんだ。
どうせ、これからも、こうして醜く生きていくんだろう。
だから、せめて私に石をぶつけようとする人が、罪の意識を感じないくらいには、悪い顔をして生きていきたいな。」

「深刻そうな面で、悲劇を気取る必要はなんかないしね。だって、それが一番卑怯な方法でしょ。毒にも薬にもならないって言葉があるじゃん。でも殆どの人間は、社会にとっては毒にも薬にもならないでしょ。だって、あらゆる尺度の社会が求める役を演じているだけだから、凄く保守的な性質だし。個人の観点からしたら、眠りたくもないのに、眠剤を擬人化した様な退屈な人達に囲まれて、倦怠感や無気力という重病の感染を招くから、毒か薬の様な印象になるんだけど。アタシだったら、演じるなら毒か薬にはなれなくても、せめて、ビダミン剤みたいな役をやりたいな。」
「だから、ギャルという役割を演じたんだ。それって、山姥ギャルって奴だよね。」

「そう、だからアタシは近年の明るくかったり派手な奴を、全員ギャルだって呼ぶ風潮が大嫌いなの。私は根っからのギャル原理主義者で、ギャル選民思想だから。ギャルを容姿のジャンルとして捉えるなら、白ギャルの事はギャルだって認められないし。ギャルをマインドのジャンルだと捉えても、明るくて派手なやつが全員ギャルだとするなら、ギャルって言葉の意味や力が失われてしまう事になるから、そんな事は絶対に許せない。山姥ギャルを選んだのは、一般人に私はメディアが創りあげた歪んだパブリックイメージのギャルとは違うぞって所を強調する為だから。」

「パブリックイメージのギャルだ思われるのが嫌なんだ。」
「だって、パブリックイメージのギャルだと思われるのは心底恥ずかしいでしょ。
ナルシズムは万人が持ってるもので、自虐すらもナルシズムの一種だと言えば、それもそうなんだけど。
それにしたって、過剰なナルシスト(自己愛性人格障害)である事をひけらかしたら、バカ(大衆)が手放しで祭り上げるって構造は本当にどうかしてるよね。
数字だけを求めている下品なテレビマンが、何の芸もない頭の悪い奴に、誰でも考えつく凡庸な感想を吹き込んで、ドヤ顔で披露させて、デジタルタトゥーを量産してるだけでしょ。
あいつらって、ギャルは素晴らしいものだと宣った後に、大物芸能人に貴方もギャルです、とか言って、遠回しに媚びるでしょ。
それは結局、凄い人は全てギャル認定する事でギャルという概念を特権階級にしようという、下心全開の見え透いた打算なんだけど。まぁ、それに気付かないで褒められたと思って喜ぶバカな奴も救えないほどバカって話でもあるんだけど。
もちろん、分かってるよ。対立構造をつくれば、コントラストが出来て盛り上がった様に思えるもんね。それは、演出だから。エンターテイメントだからあえてやってんだ、それを理解して楽しめよって事でしょ。でも、そういう人には世の中が信じられない程、馬鹿な奴だらけだって事が分かってないんだろうね。
最低限の気の利いたコメントが出来た事を、もの凄い偉業を達成したかの様に喝采してるじゃん。
暗い時代だから、能力の割に自己肯定感が高い事を素晴らしい、頭の良い生存戦略だ、より実生活に根ざした考えだって有り難がるの。
生物の欲求は極限まで問い詰めると、どれだけ時代の生存戦略に適しているという意味での、優秀な遺伝子を残せるかなんだって。
彼らにとって愛するというのは、遺伝子や環境が決定しているタイプ(趣向性)に過ぎないんだろうね。
遺伝子に決定された趣向性の中で、今付き合ってる彼女と同じ類型の上位互換が実生活内に現れて、もし付き合えるなら、人間は当然直ぐに乗り換えるものだっていうのが、彼らの考えだしね。
こうして、環境や遺伝的に勝ち組と負け組は既に決定されているみたいな何処かで聞き齧った科学知識を中途半端に取り入れて、親ガチャ論でサイコパスなリアリストを演じる癖に、それが自分の首を絞める事にもなるから、対抗策として、精神安定剤代わりのお花畑思考というドラッグにどっぷり浸かって、馬鹿丸出しのハッピーな人が量産されちゃったって訳。
自分は今のままで特別だ、素晴らしいんだ、セミナーを受講してるから、リテラシーが高いから、ポジティブだから、ギャルだから、って思い込んで自分だけ例外化して、自己肯定感爆上げで、いつも俯瞰して、冷酷に自分の利益を最大化する判断を下せるのが、最高にクールなんだって。
私はそれが、機械みたいで本当に、気持ち悪いけど。
でもずっとそうやってサイコパスなリアリストを気取って、浮き足立ちながら人生は終えれないと思う。
大抵の人は、子供が出来たらその考え方を改めるんだよ。
自分の子供は、自分の子供だからという非合理的な理由で、何でも要領良く出来ない不器用な部分まで、愛おしく思えるから。
周りとある一部分の能力だけを比較する事はあっても、その存在自体は価値は代え難いもので、絶対的な価値を付与しなければならない。
私は決して、綺麗事が言いたいんじゃないよ。
そうじゃない場合もあるし、そうなる甘ったれた奴は、増えるだろうね。
何か新しい価値を獲得するという事は、これまでの人生が喪失史に書き換えられてしまうという事でもあるからね。
それによって、これまで、認識上に存在しなかった喪失の記憶という消せない傷(スティグマ)が脳に植え付けられる。
その傷(スティグマ)は、どれだけ忘れようとしても、事あるたびに掘り起こされては、新しい膿を大量に吹き出し、より深刻なものとして自己に印象づけていく。
その増え続ける代償を未来に希求してしまうことで、欲望は際限なく肥大化し、底のない飢餓感に情緒が支配されていくんだよ。
それに耐えられない人間が、子供を殺すの。子供を殺せば、また合理的で、クールな自分になれるから。」
「奈美恵が思う山姥ギャルという概念のマインドの定義って何なの?容姿のジャンルとしてなら、目の周りに独特なメイクをする事だって分かるけど。」
「私はギャル原理主義者だから、そもそも容姿とマインドを切り離す事は出来ないの。つまり、この目の周りに描いてある紋様のメイクアップは、エスシニティの文化に対するリスペクトとオマージュだから。パブリックイメージが原理主義としてギャルに抱いてるウーマンリブとも、全くルーツが異なるものなの。民族は、狩りをして、動物を殺す。日常的に、生き物の死と触れる生活をすれば、人は自然に生の実感を呼び起こす、そうでしょ?だからこそ、彼等は、神性に対する敬意と挑戦を欠かさない。凡ゆる国の中で、最も死と距離を取り、無宗教と自認する人が多数派を占める、私達にとって、神という概念は、理解しにくい、ものだと思うかもしれない。でも、近代人における神は、秩序を司る、権威や権力、つまりシステムの様なものよ。私達が生まれる前から、権威として存在し、基底的な価値観を植え付けるという点に置いてね。紙幣という唯の紙切れが価値を持つのだって、皆んながその価値を信じているからでしょ。
だから、システムに立ち向かう私と、神に挑む民族の文化は、大きなものに立ち向かって敗れるという、ロマンチシズムという共通点において、深い繋がりを持っているの。
とにかく、私達にとって、メイクアップは威嚇や威圧の為のものじゃない。
それは、自分を権威側だと思い込んで、街に繰り出してる行け好かない奴等とは全く、真逆なの。
奴等は、文字通り、街に出かけるんじゃなくて、繰り出すの。
出来るだけ大きな音が出るように、カツカツカツカツ、カツカツカツカツ。
正に、これぞ強権的な足取りだ!って風にね。
ましてや、高学歴YouTuberが、わざと自分を映す背景に、分厚い本で詰まった本棚を置いて、読書歴のバックボーンで威圧して、洗脳して、反対意見を封殺ようとする、臆病な防衛戦略でもない。
しまいに、彼等は、その本棚の裏に赤壁をプリントした壁紙まで、貼り出しかねないと思わない?
グローバルを気取る癖に、結局、彼等は壁が大好きなのよ。与えられた権威は、口だけの自己批判で守って、有利なフィールドからは決して降りようとはしない。そうでしょ?
勝てると分かってる勝負なんて、何の意味もない。それで勝ったとして、当たり前の結果に対する、再確認以上の意味を持つ事はないでしょ。
まぁ、仕方が無い事なのかもね。
狩られる動物は、生きる為に最後まで足掻き続けるものだし、そこに遠慮なんか一切存在しない。
生きる為の行為、それ自体が彼等にとっての目的で、そこに疑いを持ったりはしないから。
でも、動物の純粋さと、人間の純粋さっては全く違うものなんだけど。まぁ、自分を単なる動物だって思ってる人には、一生理解できない話かも。」


ごめん、ちょっとトイレに行ってくる。
バタン……え、マジでどうしよう。なんかバイブスが合うっていうか、凄く話しやすいし、良い人な気がする。夕方から、飲むってことはそういう可能性もあるってことだよね。どうしよう、何か、毛のある子の方が好きだみたいな事を言ってなかったっけ?
そうだ!…………こうすれば良いんだ。フフ……これで幻滅されずに済むかも。

第四章 ピンクの脳

「連続で話してもいい?まだ続けて話したいから。」
彼女が、次に手にしたのは紅生姜だった。 
「多分、私を知っているのって、せいぜい中学一年生ぐらいまででしょ。その頃までは、発育が特別速かったから、凄く結果を残せてよくメディアに取り上げられてたのはそれぐらいの頃だけだったし。ちびっこ相撲で、これは反則でしょみたいな体格の子が、無双してるのを見たことあるでしょ。私はそれの水泳バージョンだったんだけど、何故か早熟なだけだという批判は少なくて、最年少記録だけに異常に注目されて、間違いなく将来日本を背負う逸材だって評価を受けてたの。だから、情操教育を受ける前に崇め奉られる特殊な状況に置かれて、脳が社会に漂白洗浄されずに、真っピンクのまま大人になっちゃった。
まぁ、自分の発育が丁度止まったぐらいで、周りの遅れて成長期に入った子達がどんどん追い上げてきて、あぁ、もう直ぐ誰かには抜かれるんだろうなって思ったんだけど。
でも、出来る限り皆んなの期待を裏切らない様に、恥ずかしくない結果を出さなきゃと思って、焦ってたの。
毎日毎日、限界まで身体を追い込んで、その時に、記録をコンマ1秒でも縮められるなら、本当に何でもやってたと思う。
ある日の記録会の一週間前くらいから、物凄い緊張で下痢になって、だから、脳と腸が繋がってるって言う話はマジだよ。
それで、まぁ体重が三キロくらい落ちた状態で記録会に挑んだんだけど、そしたら、なんとタイムが伸びたの。しかも、2秒も。それで、体重を落とすだけで、こんなに楽にタイムが伸ばせるんだって脳が覚えたの。そっからごはんが食べられなくなっちゃって、拒食症ってやつ。その時、水泳が私の全てだったから、ごはんを食べるって言うのが、泳ぎを遅くさせる行為だって、一回思っちゃうとその思考から抜け出せなくて。
勿論、直ぐにそれが意味がないって、頭では分かったよ?鏡に映った自分の身体を見たら、怖いくらい痩せてるなって普通に思うし。
だから、突発的にヤバいと思って、いっぱいご飯を食べたりするんだけど、太るのがどうしても怖くて、太るとタイムが落ちるって脳に焼き付いてるから、吐いちゃうんだよね。拒食症に有りがちな事らしいんだけど、過食嘔吐ってやつ。
それから、何だかんだで復活出来たんだけど。
やっぱり水泳はもういいやって、やめちゃった。
たまたま軽い気持ちで初めたら、才能があったから、周りに持て囃されて、それに依存してたんだろうね。自分は、水泳の才能がある、だから特別な存在なんだっていう自負心と、その才能を無くしてしまったら、全てを失ってしまうっていう恐怖感、その相反する感覚が、ずっと内側で戦ってるって感じ。とにかく、水泳は嫌いじゃないし、むしろ愛してたんだけど、私の精神にとって不健康なものになっちゃったから。初めた頃は、純粋に泳ぐ事が楽しかっただけだったけど、途中からは、もう皆んなの期待とか、色んなものを勝手に背負っちゃって、それで続けなきゃって、それだけになってたんだ。

「ごめん。思い出したくないなら、答えなくてもいいんだけど。そっから、どうやって立ち直ったの?」

「いや、もう完全に遠い過去の話って感じだから良いんだけど。ちょっと恥ずかしいな。
同世代だったらYouTubeの歌は、知ってるよね?
YouTube〜YouTube
主役は〜君なのさ♪
って奴なんだけど。
それと、YouTubeのCMの最後に、「好きな事で生きていく」ってコピーが流れるの。

最初に聞いた時はなんか良いなってだけで、聞き流してたんだけど。メロディーが耳に残って、ふと口ずさんで見た時に改めて思ったの。
誰もが、自分の人生の主役は、自分でなきゃダメだって。自分の意思で選択しなきゃ、責任感も生まれないし、他人の意見より、先ずは自分を優先してあげなきゃ。じゃないと、自分の好きな事で生きていけなくなるし、不満とかストレスもどんどん溜まっちゃって、自分で決めたって気持ちがないと、周りのせいとか社会のせいにして、いっつも不機嫌な、嫌な大人になっちゃうんじゃないかってね。そんなの皆んなは、当たり前に知ってるし、やっと気づいたのかって、バカな話だと思うかもしれないけど、私にとっては、その時初めて、これこそが真理だってピュアに思えたの。」  

「絶対にそれでいいよ。気持ちの良い明るさって性質は、それだけで価値があるものだしね。賢者が微笑するところを、愚か者は声を立てて笑う、なんてのは本当にクソだよ。賢者はアイロニスト(悲観主義者)で、愚者はオプティミスト(楽観主義者)という傾向がある事には同意するけど、そもそも殆どの人間は馬鹿だから、悲観より楽観の方が上なんだ。こういう言葉があるから、愚者のオプティミスト(楽観主義者)が、自分は頭がいいと楽観して、賢者の悲観主義というスタンスだけを模倣して、なんて事のない甘ったれた日常の中で悲劇を気取るようになったんだ。悪影響しかない。少なくとも、実生活に根付いた言葉じゃないよ。」
「楽観的な事自体は、別に批判される様な事じゃないしね。でも、頭の良い人の殆どは、決して頭が良く、明るい人物を認めようとしない。明るい奴は総じて痴呆だとしか認めない。彼等は頭が良いからこそ、その存在を認めてしまえば、自身の相対的な価値が毀損されると知っているからね。頭が良いからこそ陰気で、悲観的なんだって、それはトレードオフで陰気で悲観的な事は頭が良いっていう証明なんだって訳。凄い教育ね、こういう洗脳を受けてるからX(旧Twitter)で露悪的な意見や露悪的なユーモアを、
センスが良い、誰にも出来なかった尖った笑い、だって粋がる気持ち悪い、根暗なだけのナンセンスなガキが増えてるし。でも、こういう事を言ったら酷い邪推だとか、性格が悪いとか、頭の悪い陰謀論だって批判されるんだろうね。」
「うん、教育やメディアに対して洗脳だと批判したら、統合失調症を患った病者や、陰謀論者だと思われるんだろうね。
だから強い言葉は使わずに、私達が愛する権威からの思し召しに依って意思決定を行うことをトップダウン(享受する受動的な思考)、はっきりとした自我を持って意思決定する事をボトムアップ(奉仕する能動的な思考)と呼ぶことにしよう。
そもそも、無垢な白痴として生まれ落ちた存在が、実用に耐えうるボトムアップの能力を最初から備えている訳がないしね。
つまり、当たり前のことだけれど、前提条件について厳密に言うならば、ボトムアップの能力はトップダウンによって形成させられたフィクション(虚偽)なんだ。
ここでいう限定的なボトムアップの力とは、大きなトップダウン(一般化された信仰)から分岐した、小さいトップダウン(気を衒った目立ちたがりの政治屋)の意見を、相対化して思考する能力だと思って欲しい。
トップダウンである事を強く意識すれば、凡ゆる活動は、受動的で責任の無いものになってしまう。
別に人間に自由意思が無いと唱えている科学者だって、いちいちこれは自分の意思じゃ無いんだとか考えながら、実生活を行う訳がないでしょ。
実生活から離れた非日常な労働の時間に、科学を信奉するスタンスを演じているだけに過ぎないんだよ。
間に受けた馬鹿が、人間はそもそも自己決定できない。だから、選択という行為には意味がなく、単なるコスト(労苦)でしかないという結論に行き着く。
娯楽における選択まで、コスト(労苦)だと感じる精神的な貧しさを恥じない、死んだ言葉で応答するだけの機械に成り下がった奴等の間抜け面ったら、可笑しくって堪らないね。
奴等は単なる自慰行為(自己満足)を皆んなに発表するのかな?それ以外で、オナニーを、誰に見せても恥ずかしくない様なオナニーにする事に、何の価値があるんだよ。
責任が無いなら、禁忌(タブー)も存在せず、それを犯す背徳感も無くなる。
正しいオナニー、正しいSEXでしか勃起出来ないように去勢された畜生共が、粋がって僕を包摂しようとするな、生意気なんだよ。
ある時は野生の虎であり、ある時は怪鳥であり、ある時は家畜であり、ある時は奴隷であり、ある時は天使なんだ。
そんな自分を心底恥じているし、同時に、心底愛おしいとも思っている。
何処までも愚かで、救いようが無いことこそが、人の美しさじゃないか。
救済を信じるのは、生の価値に下駄を履かせている。その舐めた態度が、生の価値への一番の冒涜なんだ。そういう、純度の低い魂が人間の死を不細工(ブサイク)なものにしていったんだよ。」
「そうだね、ありがとう。紅生姜だから、極彩色のピンクだよね。ショッキングピンクは、目立ちたがり屋っていうパブリックイメージのギャルカラーだと思うけど、あえてそこから外してるの。ただのギャルじゃなくて、ガングロの派生系として生まれた、山姥ギャルだしね。
私は、目立ちたがり屋の中でも、一番目立ちたいの。
今ブームの中で、普通のギャルの格好をしても、馴染んで終わりだって分かってるからね。
Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場面)という概念から、ファッションを切り離す事は、絶対にできないと思う。だって、私達は誰の認識からも自分自身と世界を切り離したり出来ないし。広い意味でのbackground(背景)の中に存在しているという事は前提になってるから。ビビットな色味や、奇抜な服装を着ていない人は、どんな状況下にあっても、注目を浴びたいか、思想を宣伝したいかの目的に限定されるということにはならないし。
例えば、友人の結婚式に、ドレスコードを無視して、ペールカラーのジャージを着ていったら、主役を立てる慎み深い謙虚な人にはならず、逆に一番目立ちたがってる奴になるでしょ。ファッションが、引き立って、立体感を持つのは背景とのコントラストがあるからよ。まぁ、人間の視覚の癖を利用した、一種の錯視の様なものね。だから、プロのポートレートは、人物が負けていると感じたら敢えて背景をボケさせたりする。外国人や老人を撮る時に、顔の彫りや皺などの線を目立たせたいときは、モノクロで撮るといい。目くらの聴覚が過敏になるのと同じように、色覚を遮断し、モノクロの虚像を見ることで色覚のコストが軽減され、純粋な視覚の解像度が上昇し、複雑な構造まで視認しやすくなるからね。つまり、目の周りに紋様を描く山姥ギャルだからこそ、色を抑えて紋様の解像度を上げてるって訳ね。ファッションは、単なるお洒落という意味だけじゃなくて、そこまで深刻にならない形の、意思表明が出来るものだし。局所的に働きかける、思想的な広告媒体として使えるものだから、最も効果的に使わなきゃね。」
「錯視という現象が現すのは、人間にとって、イメージと現実はシームレスで、イメージを変えることは現実を変えることと同じという事だよ。
つまり、常に何らかの五感を使って認識する時、現実とイメージが滑らかに重なるよう、極めて繊細な編集が、脳内の無意識下で処理され続けている。
人間は、より自己が見たいように見ることが出来るし、見たいようにしか見る事が出来ない、とも言える。
つまり、イメージさえ変えれば無編集の現実を見る事は不可能でも、異なる錯視を見る事は可能になるんだ。
なら、イメージを脳に創成する際に、五感の全てを閉じてしまえばいい。そうすることで世界の認識に対する莫大なコストを軽減し、実感よりも色濃いリアリティを生む事が出来る。
水槽の脳というラディカルな身体性を否定する思考実験さえも、イメージを増幅させる為と考えれば、究極的に文学的な行為だともとれる。文学は表現と解釈の双方向の行為だし、どちらの能力も想像力に依拠するものだから。
近代の文化的な人間にとって、自己保存という根源的な欲求を満たす為に、必ずしも物理的な遺伝子を残す必要はない。身体性と完全に離れた、ミーム(脳内に保存でき、他の脳に複製可能な情報)という名の鉄塊を残す事で、自らの人生に意味を与える事が出来るようになったからね。」


第六章  アカの誘引

私が次に選んだのは、もみじ揚げだった。
「この茶褐色の装いは、冬が近づき、葉としての生命が終わりに近づいている事を暗示しているんだ。メメントモリ(死を思え)という、あの鮮烈で示唆深い警句の様に。私はあの話が、大好きだ。戦争で勝利し、宴を開いてはしゃいでいる主人に使用人が耳元でそっとメメントモリ(死んでいった者達を忘れるな)と囁く。
のぼせ上がって良い気分になっていた所に、冷や水を浴びせられ、げっそりとした顔をしている主人の姿をありありと思い浮かべる事が出来る。何でわざわざそんな事をするんだよ、と言いたくなるだろうが、僕には使用人の気持ちがよく分かる。これは、必要な事なんだ。四歳から五歳の一年だけ、託児所に預けられた時、初めて同世代と接したんだ。その施設では、管理の簡易化の為に、子どもが外に出られないようになっていたから、積み木遊びが流行ってた。積み木遊びというよりは、もっと正確に言えば、他人の作った積み木を崩す遊びなんだけどね。積み木で何かを建てるより、それを崩す方が、楽だし、爽快感があるから皆んなそれをやりたがるんだ。
皆んな打ち解けて、気を使わなくなる。
そうするうちに、崩す人が列を作るようになると、建てる人が気力を失って、皆んな、何もする事がなくなって退屈になったんだよ。
皮肉だよね、皆んながやりたい事を好き放題やったら、皆んながより不幸になったんだから。
でも、二ヶ月後、直ぐに革命が起こったんだ。
新しい玩具として、LEGOとLaQが支給されたんだよ。とっつき易いLEGOは、そんなに積み木と状況が変わったりしなかったな。でも、より細かいパーツで、曲線も表現できる、LaQを使って生き物を造ると、みんな壊すことが出来なかったんだよ。流線型になると無機物感が薄まって、生命の様相に近づき、壊す事に抵抗ができる。
それに、まだ幼かったから、誰にでも上手く作れるわけじゃないし、上手く出来た創造物は、技術的にリスペクトされて壊しにくくなるっていうのもあるしね。
そうすると、また問題が発生する。何回も壊して、創っての繰り返しで遊べなくなるんだ。
それを見かねた先生が、創った物を壊せなくなるのは、資源の独占を生むから、いつでも壊していい事にするって、許可をくれたんだ。
そしたら、直ぐに積み木もLEGOもLaQも全く変わらない状況になったよ。
産まれてから九ヶ月間の内は、フィクションと現実の区別が付かないでしょ。
生命と非生命を嗅ぎ分ける過渡期でもあったんだろうね。
最初にLaQで作られた鳥を握って壊した時は、緊張したな。でも、やってみると意外とこんなものか、あっけなかったなって、次第に何も感じなくなるんだよ。
最初のハードルが高いだけで、一度思い切ってやってしまえば、その残酷さにも脳が慣れて、何も感じなくなる、人間はそういう生き物なんだよ。
とにかく、一歩目なんだよね、一歩目の勇気。
あらゆる波及効果を考え出すと、無垢である為には、何も知らずに無自覚でいるか、何もしない事しかない。
でも、そんな事は出来ない。
そんな道は、生まれた時から、とっくに閉ざされているんだ。
だとしたら、加害の意識に無自覚であるよりは、自覚的であった方がまだいくらか道徳的でしょ。
善悪なんて、結果論でしか語れない。
一つまみの蛮勇という劇薬だけが、個人の人生を退屈という重い病から解放させるんだ。」
「ままごとの世界には、家父長制なんて存在しないの。何故なら、ホストを勤めるのは母役だから、権力を持つのが女性になる。でも、これはあくまでごっこ遊びだから、家母長制とかいって非難される謂れはないし、そんな意図もないの。ままごとのホストを担うという事は、その劇の展開を主導し成功させる(楽しませる)という責任を負わなきゃいけない。その代わり、ホストは劇の展開を決める権限を持つ。
そこで生まれる権威は守られるべきだし、カーストが出来るのは当然だと思う。
その劇の成功に関与したくない奴は、ペットや木の役を選ぶ。人語を話さなくて良かったり、そもそも立ってるだけでも成立するからね。
そんな人が、一時的に遊びの中で低い立場として扱われるのは仕方がないでしょ。リスクと権力はトレードオフの関係にあるし。ずっと膠着状態に在るよりかは、蛮勇という劇薬を使用した方がより多くの人が楽しく人生を送れると思う。
権威が固定化する必要は無いし。誰でもリスクを取れば、どんな方法でだって、権威を奪うことが出来る。権威が齎す秩序に対して、抑圧を受けている人々にとって、ブラックユーモアやシニカルは、ある種の革命的行為であり、凡ゆる権威が裏返り笑い物にされうるという点に於いて、痛快さを感じさせるものだから。
まぁそれも無機質なパターン化の一途を辿って、特に性に関するユーモアは形式化され、野性味をアピールしたいが為に行う、新しい人間の習性となり、既存の権威を反復する、生物学的マウンティング行為としてしか、観測されなくなっているんだけど。
どんな高級社会であったとしても、通俗的な猥雑さに理解を示す事は、プラスに働くという共通認識が出来てしまったからね。
新しい一般論は、新しく普遍的に認められるであろう価値を生み出し、社会システムという権威に組み込まれる。
効率や合理性に依って、凡ゆる物を画一化された基準の尺度で、交換可能な貨幣的価値としてしか見なさない社会への、カウンターとして標榜された、友愛、性愛の神話は、もう崩壊しかけてる。
それに変わる新しいカウンターとして、よりラディカルに具現化した物が、フードクラッシュというフェチだと思う。
つまり、性欲と並び称される三大欲求という権威の一つ、食欲を冒涜する、革命的行為なの。
ここでいう、フードクラッシュフェチとは、もはや性癖ではなく、生癖と呼んだ方が正しい。性趣向の範疇を越え、生活の中で性欲以外の欲求も満たせる物になっているから。反権威という価値を維持する為には、画一化された基準によるシステム化の流れから、逃れるなきゃいけない。つまり、徹底的なアマチュアイズムなの。
interesting(インタレスティング)や、humor(ユーモア)、wit(ウィット)、esprit(エスプリ)などの諸々の価値に還元されない、having fan(ハビングファン)という抽象的な価値に重きを置くべきだと思う。
「好きな事で生きていく」という、私を変えてくれたあの、印象的なフレーズからは、デジタルヒッピーの香りがする。
無機質なデジタルから、有機的な温もりを感じるアンビバレントな感覚。
画面を介するという距離が、取り繕った対面のコミニケーションから、芝居がかった嘘臭さを抜き、より濃密な関係だと錯覚させる、逆転現象が起こり得たんだよ。
それがあの底抜けの明るさに、説得力を持たせてる。
だけど、今日のYouTubeは、分かり切ったグロテスクな本来性と地続きの、無機質な秩序でしかない。
奇を衒った挨拶で始まって、高評価、チャンネル登録のお願いでエンドロールを流す、画一化された形式は、経済合理性そのもので、もう彼らは皆、ある意味で、立派なプロフェッショナルになってしまったからね。」
「そうだね。僕はYouTubeに投稿された、外国人が日本食に対してリアクションする動画の一つを愛してるんだ。
黒人と白人が、窯で炊いた白米と黒海苔という日本が誇る伝統的な組み合わせの食事を食べて、絶賛する動画。
彼等の意図は、外国人が日本の文化を絶賛する事で、日本人としての自尊心を満たしてあげるコンテンツを出せば、お手軽にお金を稼げるというなのかもしれない。
しかし、そんな事は全く関係なく、全身が真っ黒な奴に穴が空いて真っ白なものが入っていく、全身が真っ白な奴に穴が空いて真っ黒な物が入っていく、という可笑しさとそれ自体の映像美に魅せられたんだよ。
純粋なアマチュアイズムが作り出す表現は、社会的ニーズ、生理的欲求を満たすだけの、受動的で主体性の無い、ただ楽して金が欲しい、道楽者の甘えを垂れ流した物でしかないから、彼等の食レポ自体に興味なんか無い。
人間に編集不能な環境が作り出した先天的な色覚が、商業的な合理的選択により必然的に選択されて生まれた、最も光を反射する白と最も光を吸収する黒という、一番鮮烈なコントラストを産む二色が選ばれた背景に思いを馳せると、それら全体が美しく思える。こんなに嘘がなく、世界に在った素材、それ自体の全てを愛せる作品なんて、そうそう無いよ。
この世で殆どの自称アーティストや自称クリエイターが、作り出したのは素材を咀嚼して吐き出した露悪的でグロテスクなゲロ(吐瀉物)でしか無く、自然の美しさや価値を毀損する物でしかないからね。表現者というもののプロフェッショナルを志すなら、それは労働者であるのだから、自己満のオナニストではなく、エンターテイナーでなくてはならない。金を稼いで、生計を立てている、そういう意味で彼等は、プロなのかもね。でも、大抵のYouTuberは毒にも薬にもなれない。
もっとも個人の視点から見れば、眠剤を擬人化したような退屈な人達しかいないから、無気力という難病に追いやる毒にしか思えないかもしれないけどね。
しかし、彼等はただ無目的に模倣し続けているだけの機械に過ぎない。毒ってのは、既存の模倣では無く、オルタナティブな存在だからね。食い物を食わせている内はプロフェショナルとは言えない。人間は、適応を促す為に恒常的な不足感を持つように作られている。だから、生理的な欲望を煽動する事ほど簡単な事なんてない。だから、そいつが欲している物を、そのまま与えるのはアマチュアの仕事なんだよ。
いかに本来欲しないものを、心の底から渇望させるか、自分の人生に無くてはならないものだと洗脳するかがプロフェショナルだよ。そういう意味で、言えばフードクラッシュというムーブメントを作り出すほどプロフェショナルな事はないね。あらゆる表現活動の本質は、飲み込み易さだけを追求させた鉄の塊を制限時間以内に何個、大衆の胃袋へ流し込めるかという競技なんだから。
この崇高な営みに、ルールを把握していない、野良犬が紛れ込んではいけない。
俗悪な物と崇高な物が正しく峻別される為に、純文学というのは凄くいい言葉だよ。

プラトーンは、観念や情動を煽動する者を詩人と呼び、追放すべきだと主張しました。
また、ナポレオンは、観念(イデア)に基づく現実に即しない主張をイデオロギーとして批判しました。
そして、エンゲルスは、イデオロギーを虚偽の意識を持って達成する過程、つまり自己正当化バイアスによって、自身を正当化するか虚偽から覚める迄の葛藤している状態として、イデオロギーを定義しました。

いつも隙間の無い理論という壁に対し、幻肢を見出し、揚げ足を取ったり、南米の狡猾なサッカー選手の様にシュミレーションを行って、相手に虚偽の加害容疑を押し付ける。
純文学は大袈裟な物を嫌う。真の才能とは、普遍的なものを見た時に、違う物を感じる奴のことだからね。半径数百メートルのなんて事のないただの退屈な日常が、究極の才能を持つ個人を媒介する事で鮮やかに彩られていくんだ。大袈裟なものは、野次馬を集める事だけに躍起になり、腐っていく。お手手繋いで、みんなの顔色伺ながら創られる世間が創った狂気(笑)のムーブメントから唯一切り離された、純粋な異常者を見つける崇高な遊戯なんだよ。
まぁ、偶に恥知らずな野良犬が純文学を騙って商売をしてしまうから、そういう奴を見つけたらその都度、叩き潰してやらなきゃいけない。純度が百%である必要はない、ただ、そこに恐怖があれば境界は調整され続け、ある程度の秩序が保たれていくんだ。」
「本物の強度を持つ表現は、動物が極限状態まで追い詰められた末に、発せられる物によってしか産まれない。
それ以外の表現は、腹を満たす為だけの物に過ぎず、血の香りがしない、代替肉にしかならないから。
コロッセオの頃から、人間が娯楽に求める本質は変わらない。
血税というのはあくまで比喩だけど、金を稼ぐ為に人生の時間を削ってるし、コンテンツを見る時間も有限なんだから、命が削られて無いものに、金や時間と交換する価値なんて感じる訳ないでしょ。
だから、エンターテイナーは、いきなり過剰に持ち上げられ、些細な拍子で落とされる事に怯え、皆の手の平の上で必死に踊り続ける道化でなきゃいけない。
観客は、実際に、皆で示し合わせて急に手を離したらどんな顔をするんだろうと想像しながら、媚び諂った無様な踊りだけでなく、不安そうな顔をしたり、不自然に強がる様を含めて、愉しむものなんだよ。
一人の人間の人生を壊す経験は刺激的で、現代の凡人が、自身の能力の範囲内で現実的に起こす事が出来る、一番大きなイベントだからね。
人が転げ落ちる様を見てみたいと、スケベな顔して、涎を垂らしながら、欲望丸出しで無邪気に好奇の眼差しを向ける、本来の観客の性質を受け入れてあげなきゃいけない。
もっと高い所から落とした方がもっと気持ち良いだとか、落として殺してしまったら、もうあの滑稽な様を見て愉しむ事が出来なくなるという、危ういシーソーゲームの中でこそ、しみったれた劣情を排した、本物の需要と供給が生まれるしね。
これ以上の上昇はないだとか、踊りにも飽きて見限られた時、地面に打ち付けられ派手に散る事で、誇り高きエンターテイナーとして、役割を終えれるって考えればそう悪くないでしょ。
まぁ、自ら飛び降りると宣言して、精神が蝕まれた様な素振りを偶に見せてやれば、生まれ付き頭が悪く産まれた哀れな客達が、淡い期待を抱き続けて金を落とし続けてしまってるんだけど。だからこその、体たらくとしての現状があって、本物が育つ為の土壌も蝕まれ続けてるしね。
細分化によって全体的なリテラシーの向上が見込めなくなった現在では、観客の質を上げるという事は、彼等の残虐性を肯定してあげる事でしか達成されないでしょ。血の代償は、より鮮烈な血飛沫でしか払えない。結局、皆んな、生きてる限りは加害から逃れられないんだよ。」
「近隣国が核兵器の所有を宣言した場合、その理由に関わらず、恐怖を感じてしまうだろ。絶対に撃てないと分かっていても、額に銃口を突きつけられるのは不愉快な筈だよ。
権威という名の脅威は、存在するだけで暴力装置として作用する。別に権威を批判するつもりはない、ただ言いたいだけだ。暴力から人間が逃れられる訳ないってね。
世界は綺麗事で回ってないし、軍隊を持たない国家は世界の治安維持に貢献する事は、出来ない。自国の防衛を他国に任せている国家がどれだけ正しい事を言おうが、何の説得力も無いんだよ。
ふむ。ならまず、まだ独り立ちもできていない扶養国家である貴国は、軍事産業に投資し、周辺国との軍事バランスを正常化し、国際的な戦争に対する抑止力を強め、世界から希求されている責務を果たすべきだと。
そう言われても仕方ない、発言の説得力とは、内実伴ってこそ生まれるものだろうからね。
犯罪者が銃を持つなら、警官も銃を持つべきだ。犯罪者が散弾銃を持つなら、警官も散弾銃を持つべきだ。そうで無ければ、すぐさまに犯罪者が好き放題、跋扈する無法地帯になってしまう。
話は、第二次世界大戦の罪を測る極東裁判にまで遡る。日本国の一般市民は、国の決定に従ったのだから、戦争責任が無いと結論付け、それによって靖国に一般兵たちを慰霊する事が出来た。しかし、本当に一般市民には戦争責任は無かったのか?
彼等は、精神に異常をきたした病者ではなく、意識を鮮明に保ち、自らの自由意志に基づいて判断を下したんだ。
堪え難い外圧によって、強制されたのは確かだろう。しかし、それは従わないものに対しての罰則による間接的な強制で、複雑な行為自体を直接人間に強制する事なんて不可能だよ。
責任という存在は、個人が自由意志に基づく判断能力を持っているから生まれた概念だしね。
徴兵を受けた人達に責任が無いのであれば、彼等は判断能力を持たない、指示をこなすだけのロボットなのだろうか?その様な評価こそが、最も酷い、彼等に対する侮辱だよ。何故なら、彼等は自我を持った立派な人間だからだ。

もし、民衆が、天皇は神だという洗脳を完全に受けた、全く無垢な被害者であったとしても、神という虚偽(コケ)で騙して殺された被害者を、加害者の信じる高尚な神によって、慰霊してやろうというのは、民衆に罪が有ろうが無かろうが、どちらにせよ最高に皮肉な話でしかないんだよ。
であるなら、靖國とは歴史的な価値を除けば、忌むべき象徴であり、参拝する度に、隣国との緊張感を高める火種でしかない。
なら、アメリカの大統領と中国の国家主席を招き、目の前で靖国神社を焼いて見せてやればいい。
そこで、堂々と核武装宣言を行うんだ。
民主主義政治とパフォーマンス性は切り離せない。
多くの人が大切にしている物だとしても、自分にとって価値を感じないから焼けと言ってるんじゃない。大事な人の死体も、それが必要に駆られれば、焼くだろう。
結果として、燃やしてしまうだけで、焚き上げだと解釈してもらっても構わない。
であれば、これは合理的な選択であり、国際社会に属する一国家として、内実伴った歴史上最も崇高な責任の負い方だよ。
人事を尽くしたnetion(国民国家)がego(自我)を獲得して初めて、対等なnegotiation(交渉)をする事ができるんだ。」
「それを断言する事が、貴方の責任であり権威って事?」
「まさか、衛星放送されてるならまだしも、小さい居酒屋でいきがって話してるだけだよ。国の意思決定を司る立場を務める可能性が無いなら、何の責任もない。
発言におけるリスクが生まれるには、あらゆる意味での実現可能性が問われるからね。
でも、人生を出来るだけ自由な物にするには、こうして断言していく事で、あらゆる禁止事項を自らに課す事しかない。生活の中の小さな選択に制約をかける事だけが、大きな分岐点の道を変えることに繋がってるんだ。」
「サディストとマゾヒストの関係みたいね。対立物の性質によって、逆転する現象。サディズムは罰を与える側という立場から能動的であり、マゾヒズムは罰を受ける側という立場であることから、受動的である。マゾヒストは罰を快楽とするので、それを軸とすれば、罰を受けるのは享受、罰を与えるのは奉仕であると、考える事も可能になる。つまり、サドこそが、サーヴァント(奴隷)であり、マゾこそがマスター(主人)と考えることも可能って訳。まぁでも、生物的に考えればマゾヒズム(被虐趣味)っていうのは不自然な後天的性質で、サディズムが軸だと分かるんだけどね。マゾヒズムっていうのは、自分に対するサディズム(加虐趣味)なの。」
「そうだよね、露悪趣味では無く生物は根源的にサディズムだと思う。僕にとっての愛するという事は、対象を拘束して独占したいというグロテスクな欲求だと思う。広義では、どちらか一方が虫籠の中にいる事で成就されるものが愛であり、また狭義では、どちらか一方が、標本の中に居ることで成立するものだけを愛と呼ぶんだ。
互いの個人的生活を尊重し合い、一方がそれによって、不快に感じる様な過剰な干渉をせず、適度なコミニケーションを模索し続ける、その不自然な関係性を維持しようとする熱意こそが、愛であると、僕は決して認めない。
それは愛と呼ぶには、対象への固執が充分でないよ。
愛とは過剰な感情であり、歯止めが効いてしまうものは、単に好ましいという範囲に収まる、より低い温度の感情でしかない。
この考えに対して反感を抱く人も、怒り、哀しみ、喜びなどの主要な感情においては、抑え込めるものの方が、その感情の強度において、より程度が低いものだと、感覚的に認めざるを得ない筈だよ。
詳しく説明しよう。好きと嫌いの概念は明確な定義が存在せず、各々が独自の尺度を持っている。
そして、その尺度は内的な物であり、相対化する事が出来ない。
そして、好きと嫌いという二項対立概念に明確な分別をする為の差異を発見する事は不可能で、対象に向けた強い興味という同一性だけが発見されている。好きと嫌いに明確な差異を発見する事は出来ないが、その差異が存在するという事実には間違いがない。
であれば、好きとは赤の性質と対象に向けた強い興味の複合的性質を持つ物だと仮定し、嫌いとは、青の性質と対象に向けた強い興味の複合的性質を持つ物だと仮定しよう。
そうすれば、赤の性質と興味が好きという感情の本質だとするなら、青のものと無関心は両方とも、片方の性質だけを取り出すなら、反対の位置にある概念だという事は正しいと分かった。
好きという概念が意味する、真に対極の概念は、嫌い(青の性質)と嫌い(無関心)の複合的性質で生成されてなければならないんだ。
完全なる無関心も、完全なる青の性質も、一方の性質しか持たないのなら、好きという概念の真反対に位置するものじゃない。
しかし、嫌い(青の性質)という概念を獲得する為には、完全な無関心の状態のままでは居られない筈だという、直感的な違和感が存在するだろう。
感覚的な整合性が取れる説明としては、好き(赤の性質)と嫌い(青の性質)は、それに対して自己を投影するか、
俯瞰してみるかの違いだと思う。
つまり、極彩色の赤とは、感覚をピュア(純度が高い)に自意識を通さず、そのまま受け取る事で盲信に陥っている状態にある。
そして、極彩色の青とは、感覚をメタな視点で解釈する故に、自意識から逃れられず、ノイズ(純度が低い)が多くなり、不信感や懐疑心に満ちいている状態にある。
これはドラック中毒者とドラック愛好家の対比する関係性と同じだ。
どちらも対象に向けた強い興味は有しているものの、前者が、自制不可能な依存に陥っているに対し、後者は、自制可能な趣向の範囲に留められている。
最も好きという複合的な概念の純度が高いのは、中毒者や殉教者である。
元も嫌いという複合的な概念の純度が高いのは、統計学や物理学に基づき、個体の唯一性を認めない、合理主義者である。
しかし、複合的な概念に明晰な峻別が付かないまま運用されているのは、その言葉の抽象性にこそ、意味があるからだ。
言葉の分類にのみ躍起になって考えるだけでなく、実生活に根ざした考え方をすれば、愛増混じり合う様な相反する感覚が同時に存在することを、誰でも知っている。
全ての言葉が感覚的な新鮮さを失った世界の中で、言葉から反即物的な愛を追求する事は、凡庸な発想で何の驚きも存在しない。
最も純度の高い愛は、信仰的で現実を俯瞰し、イエスマンしか従えない教祖の人格的成熟を憂慮したりしない。
常に教祖は絶対的で、自己はそれに従属するだけの無責任な主体になるんだ。本当に純粋な愛であれば、一方には、責任が全く存在しない事になる。」
「そう考えたら、やっぱり処女作って言葉はおかしいと思う。いくら作品が授かったものの様に思えたとしても、作者がそれを形にしたのは間違いない訳で、それなのに受動的な態度をとるのは、説得力を下げる効果しかないよ。
だから、精通作とかにした方がいいんじゃない?」
「精通が一般的に、能動的か受動的かは分からないけど、主体性が欠けた態度には責任が宿らないってのは間違いないね。
もっと言えば、文章が客体を失う時、それは単に個人的な記憶を他者に追体験させるものに過ぎない。文章が主体を失う時、それは記憶の風景であり、鑑賞の対象にしかならない。客体と主体が適切な割合で存在する文章のみが、機能と意味を世界に与え、象徴と化すことができるんだ。
ただ漠然とした情感しか与える事が出来ない文章は、それが死んだ言葉に過ぎないからだよ。プロフェッショナルなら、生のフォアグラの味がする。鉄の味、舌先が痺れる様な鮮烈な血の味。フォアグラの快楽は、口の中で生き物が死んだ感触を感じさせる所にある。歯が肝膜を破った瞬間、咽帰る様な血生臭い臭いが鼻腔から抜け出て、眩暈のする様な快楽を覚えさせる。表現者なら、生活に潜む死という絶頂の瞬間を抉り切って、切実な生を感じさせるものを作らなきゃ、なんの価値もないんだよ。」
「そうだね、客体も失っちゃだめだよ。だって、主体なんて本当は存在しないから。人間は遺伝的に定められた趣向や性質以外は、白紙の状態で生み落とされたんだから、脳機能が正常に働いている個体が、何かしらの社会というものに順応できるのは、求められているキャラクターを演じているから駆動するんだし。むしろ、ずっと独断的な言葉なんて、説得力も無くなるに決まってでしょ。」
「うん、そもそも僕達は、膨大な歴史の上に立っていて、偉大な先人の知恵を借りなければ、0から新しい価値を創り出す事なんて出来ない。傲慢さとは、巨人ではなく、巨人の肩に乗って自分も大きくなった気分になった小人の愚かさが、創ったんだ。だからこそ、僕も、巨人を構成する、主要な要素の一部を担いたい。だけど、今人生の意味にしようとしていた巨人が、限界を迎えて、今にも絶命しようとしている。
巨人の化石、骨格さえも残す事が不可能なら、より抽象的な、その足跡、Giant's Dining Message(巨人のダイニングメッセージ)が少しでも長く残るよう、保全してやるんだ。これは表向きのセリフで、全て嘘なんだけど。巨人が心を許して私を肩に乗せたら、脳を食い破って、直ぐに成り変わってやる。僕が巨人になれるなら、巨人の価値を永遠にする。巨人の正しさを誰も忘れる事が出来無い様に、強く、深く世界に刻みつけてやる。」
「結局、居酒屋でプロフェショナルという存在を声高に
宣言する貴方は、プロフェショナルなの、アマチュアなの?そして、それは結局マゾヒズムかサディズムなのか一体、どっち?」


「僕の基本的なスタンスはこうだね。
『君はプロフェショナルとして僕を満足させてみなさい。そんなんじゃ感じない、全然気持ち良く無い!こうするんだ、バチィィン!』ってね。」

結局、どっちがしたいの?

より、刺激的な方かな。より、純度が高くなる方が役を演じるべきだ、愛と同じだよ。どちらか一方が全ての責任を背負い、完全に支配して作り上げるんだ、最高のダイナマイト・セックス(dinamite-sex)を。」

「うん……分かる気がする。お互いの事を話し合って、分かり合えた気がするなんて言うのは、言語の抽象性を無視した白痴のように聞こえるかもしれないけど……。でも、その深い靄の中で、何度か微かに指先が触れ合えた気になれた瞬間が何度かあって、凄く嬉しかった。もう、終電があるから。今日はありがとう。」

そうして、瞬く間に何かが終わりお開きになった。
さっき奪った赤の他人の金で、彼女の分も払ってやろうと思ったけど、彼女は気を遣って自分で出そうとした。

「次の時に払ってくれればいいから。」
と言ったら、
「次があるの?」
と聞き返されたけど、無視して支払った。 

店を出ると夜の冷たい外気に当てられて、このまま別れてしまうのが急に寂しくなり、彼女が帰ろうとしている時、一か八かで声をかけてみた。
「あのさ、もし時間があったらこれから家にいる、猫でも見にこない?何か、急に寂しくなっちゃって。帰るタクシー代も払うからさ。」
普段ならこんなに積極的にはなれなかった。天ぷら屋での対話は、丸裸になって、いや、誰もが見たく無いであろうグロテスクな臓物まで披露し合って、尚且つそれでも快く受け入れあったのだから、後ろめたさを感じる事無く、家に招待する事ができた。

7章   迷える教祖と確信した子羊

彼の家は、マッチングアプリの写真で伺える暮らしぶりと対照的に、驚くほど質素なワンルームだった。
気になって尋ねると、大学生の内は、出来るだけ親に頼らず独り立ちした生活をしてみたかったらしい。
家に入ると、猫はおろか人が生活している気配のない、無機質な部屋だった。下に引かれている白いカーペットと、中央に置かれている腰掛け椅子にだけ、かろうじて使用感を見て取れた。
私が猫はどこ?と聞くと、彼は、「シュレディンガーの猫だ!」と言って、部屋の奥の方を指差した。
確かにこれでは、猫が存在したのか、しなかったのか、証明不可能なのかもしれない。
大きなテラス窓は、ちょうど猫が一匹通れるくらい開いていた。

最終章 Don,t give me more  

奈美恵のスカートと下着を脱がすと、性器の周りに明らかに、自然の毛ではない、つけまつ毛の様な物が貼られていた。
歪な陰毛の雁造物は、強迫的な同調圧力が創り出したアーティファクトだ。
隙間を埋める為のシャドウと混ざり合って黒く変色した、アヌスの横面を這う愛液が、代え難く愛おしく思えた。それと、同時に激しい頭痛と吐き気がした。

彼女には何も告げずに、帰って貰う事にした。これは、ヒトという動物の独立した自由意志が導いた結末ではなく、人間の馴れ合いだったからだ。

目を瞑って深く息を吸うと、肺の中に冷えた空気が溜まって、少し苦しくなった。
身体が暗闇に溶けて、世界とのとっかかりが全部無くなって、すごく静かな気分になる。
それから暫くすると、すぐに可笑しな気持ちにって、吹き出して笑った。
俗っぽく例えると、カジノで大金を失った後、ウェイターから熱いおしぼりを貰って、顔を拭いたらスッキリして、清々しくなる、あの感じ。
そんなに大事なものなら後生大事に抱えて離さなきゃ良かったのに。その哀しみは、生活に染み付いた無意識の演技に過ぎない。むしろ、身体も軽くなって、清々したんじゃないか?

人情や粋という言葉から一般的に想像される快活な人物像は、多数派の歪な自己肯定によって産み出された虚構にすぎない。それは、絶えず、軽口を受容し合うことや、合言葉の交換会で、関係値を確かめ合わなければ不安でしょうがない、信頼関係を介するコミュニティに依存しきった、惨めな奴隷だからね。僕は、湿っぽい地下牢でぬる〜く、甘ったるい、吐き気のする様な馴れ合いで、報酬系を満たすだけの生活を一生楽しめる様な子飼いの羊(連帯感が生み出す、エンドルフィンの奴隷)じゃない。恐怖の先にしか本当の快楽(高純度のドーパミン)は無いんだ。

僕は根っからの無神論者として育ったから、世界は私に相対的な価値しか齎さなかった。
だからこそ、絶対的なものに飢えていたのだ。

絶対的なものとは、コントロール不可なものだ。
恐怖や依存症の様に、理性や論理という普遍的なものを超えてしまう力。

昔から、人が背中を預けてきたり、腹を見せてきたら、思いっきり蹴り飛ばしてやりたくなった。それは悪意というより、全く理解不可能な感覚に対しての生理的な拒絶反応だ。だから、私にとっての神(絶対)は、共同幻想による団結(利害関係のない信頼)に対する恐怖なんだ。
この、いまにも押し潰されそうな感覚を守るには、どんなに小さなシステムの中にも、組み込まれちゃいけない、純度を保つ為に最小単位を維持し続けるんだ。コアの主導権さえ奪えれば全てを覆せる。もう誰にも絆されたりしない、僕は僕を信じる。先に根を上げるのはお前らの方だ。閉じてるとも言えるし、全てを乗っ取ろうとしているから、誰よりも開いているとも言える。



クオリティという言葉の響きは、ずっと、クオリアからきている様な気がしていたんです。つまり、クオリアに接尾辞が付く事によって程度や性質を現している語なのではないかと。普遍的な主観的経験の性質を表現する精度の質を高める事こそ、クオリティの追及なのでは無いかと。word=言=言葉。全ての、wordはただの記号で、worldを表現する為に不十分な存在であり、受け手の想像力によって、絶えず補完して貰う事に頼らざるを得ません。
言の葉とは何か?葉、つまりLeaf、原初から生態系を支える基底的な生命であり、遺伝的原型である。言の葉=word。そう、やっぱりこれは単なる無機質な、記号の羅列ではなく、有機的な結び付きが、有るような気がしてならないのです。
ヒトは、例え教えられずとも、ある一定数の人口の中で生活すれば、自然に言語を発現させるといいます。
そう、言葉と人間、何方が先に生まれたのかという問は、卵が先か、鶏が先かという問と同様に、一考に値する物だと思うのです。
というのも、まだヒトが言葉を話す前の時、それは、現在の、私達の中にある人間のクオリアと一致していないのではないか?という事です。
あの、狼に育てられた少女を見た時に、私達は、彼女をオオカミのクオリアと、人間のクオリアどちらに近いと感じただろう。
私たちはヒトから言葉を介して、人と人との間で過ごし、人間になるのではないでしょうか?

しかし、機知可比(きちがひ)にとっては全く違う。機知可比(きちがひ)は、人間ではなく、ヒトのまま活きる。
精神を隔てる肉の壁は、黒い嗜好を覆い隠す。本当の事は何も分からない。言葉は、いつも個人に独占されていく。全ての言葉は、一人ごつなのだ。

何かしらの社会の中で、文脈に沿った正常な行為に、主体性が宿る事はない。

機知可比(きちがひ)は、何かしらの欠損や過剰によって規範や規則から、肉体の範囲でしか囚われないでいられる。

行為は、不可分であり、目の前の認識を網羅し続ける。
それが、直感的に受け入れ難いのは、完全に静止した結果が存在すると考えているからだ。
静止した結果とは、常に選択によって選ばれ続けている。
それを充分に識っているなら、素材を抜きにした全ての現象が、行為によって形成されている動的な物であるという事は、動きようのない現実である。
人間は、100年生きる動物に成ったのではない。それは、虚構としての結果を見ているだけで、集積した選択という過程を無視している。正しく言うなら、百年死ぬ事を拒み続ける権利を有した動物に化した、と言うべきだろう。
活きながら、生きる為には、死を隣に置かねばならないと、他ならぬ彼女も言っていた。
そして、人が人に標榜するのは、生きる事では無く、活きる事に限るべきだとも。
素材を活かす為に殺す事と、素材を見殺しにして、生き長らえさせる事、果たして、何方が罪深い行為だろうか?
自由意思と選択は個人の聖域で、そこで、他者の直接的干渉が許されるのは、お互いの選択がバッティングした時だけであろう。
イメージと虚無の循環は、私の信仰になっていて、決して切り離す事は出来ない。
実感的な認識の範疇において、選択は、常に現実を変容させる力を有している。
そして、暴力は、最もインスタントにイメージと現実を合致させる。
思惟するという行為は、非常に相対的で曖昧な価値しか提示しない、個人は、行為によってのみ、判断されるべきだ。

しかし、人間は必ず死ぬのだから、一人の人間にとって、全ての行為は無意味な物にしかならない。
生物は何らかの行為によって自己の複製子を残し、命を託す事で、自己という存在に意味を見出す事が出来るという生物の物語は、フィクション(虚構)でしか無い。
こんな事を言えば、BESTな選択に固執して、BETTERな選択を取れずに現状に甘んじる愚か者でしかないと思われるかもしれない。
しかし、その反論はBESTな選択と、BETTERな選択が同じ目的を果たす為の選択として機能していなければいけない。
自己に意味を与えるという目的は、自分の要素を死後に残す事によって、達成されるものではない。
それは、売り言葉に買い言葉として、理性を働かせる前に、本能が吐露した、子ガチャという概念がよく表している。
子供は自己という存在を反映した物ではあるけれど、自分自身ではなく、コントロール不能な部分によって、レイプ魔やシリアルキラーなど社会的な魑魅魍魎になりうる可能性を秘めたガチャを引いたら、結果的に出て来た異物に過ぎないというのが、全ての親が子供に対して持つ、逃れられない認識なんだ。
だから、生物が持つ望みは、不死身になる事以外に存在しない。それだけが、自己という存在に対して意味を付与する唯一の方法だからね。
そして、自意識を持つ人間だけが、その望みに自覚的で、絶対に達成できない願いだと知っている。
最も根源的な願いが果たされない事を自覚した時、派生した副次的な欲求を根元的な物として捉え直し、人間は虚無から逃避したんだ。
貴方の願いは不死ではなく、より正確に言うなら、不老不死なんだという言葉狩りは、通用しない。
そもそも、不死という概念は、エントロピー増大という物理法則に対してのアンチテーゼとして生まれた存在なのだから、不老という性質は不死の前提条件として含まれている。
しかし、全ての人間は、生まれ落ちた瞬間に腐敗し、死に向かって進む。
全ての人間は儚く、無意味で、無価値だ。
だからこそ全ての残虐な行為を、劇化し、エンタメとして消費する事を正当化出来る。
凡ゆる物を内包し、相矛盾しあう性質によって、内部と外部を貫き、存在しない者として扱われた者達の血肉を固めた、この世で一番高い塔を作ろう。
死体は忌避するのでは無く、掲げよ。
これこそが、機知可比(きちがひ)の混沌(カオス)という秩序だ。
これで、勝利の価値を盲目的に信仰している、どこまでも、おめでたい脳味噌に杭を穿ってやるんだ。二足歩行を初めた頃、メタ認識という能力を獲得する事によって、人間は永遠に不自然な存在になり、肉体は塔の形質を持つ魂の牢獄になった。
先が無い道と知りながら、その塔の螺旋階段を登り続けろ。ガキもミームもお前自身じゃない。全ての人間は必ず、文字通り死んで絶えるんだ。
死が齎す、ただ無意味な結末を受け入れて尚、死ぬまで走り続けてみろ。それだけが人間という特別な生命が持つ、意味であり、美しさだ。永遠に生きたいと願いながら、無残に絶命するからこそ、死と生は煌々と輝きを放つ。
生の美しさなど無い、美しい生だけが存在する。死の美しさなどない、美しい死だけが存在する。
私はその、螺旋上の道に配置された無数の悪夢になろう。
裂けろ、孕め、冒せ、そして、絶頂の果てで堕ちて死ねと、お前の頭の中で叫び続けよう。
忘れっぽい君達が、片時も絶望という母を忘れ無いように。救済という甘ったれた不純物が、その美しさを穢してしまわぬ様に。

 YouTube〜YouTube〜
   主役は〜君なのさ〜♪
 ンーフフーンーフフーンンンン〜ンンンッ


平等という概念を権利の平等や機会の平等に置き換えようが、目の前の現実を見れば、何処までいっても、どの様な意味でも平等というものは、存在し得ないフィクション(虚構)の存在であるのは明らかだ。権利を平等に配分するのは、平等感に対する配慮でしかなく、凡ゆる意思決定は、極少数の機知加比(きちがひ)によって司られている。
人は生まれながらにして、各々の資質に応じた概念上の重量を持つ。大概の凡人は、成長の過程で、空間に調和するような発達を遂げるよう矯正され、世界という場に馴染み、大きなシステムに組み込まれる事で、初めて存在を肯定される。
しかし、機知可比(きちがひ)は、根本的に世界と馴染む事が不可能な異物である為に、場やシステム自体がその個体を馴染ませたり、組み込むことを拒絶するのだ。
だからこそ、真に世界を傾けうる重量を与えられたのは、機知可比(きちがひ)だけである。

どんな偉人であっても、凡庸な一般市民に殺害される事があると、思うかもしれない。
しかし、それはその機知加比(きちがひ)に殺されるよう、誘引されただけに過ぎない。
機知可比(きちがひ)を真の自由意志に基づいて殺害できるのは、機知可比(きちがひ)だけなのだ。

生まれ落ちたという人間に通底する宗教上の悲劇的スタンスには共感では無く、「私がお前だったら羞恥心から自害しているだろう」という、憐れみからくる"同情"しか感じない。
君達とは最初から違っている、私は怖いもの見たさで乱れた俗世を覗いてやろうと、天空から舞い降りた天使なんだ。
誰だって、羽が生えれば飛び立つ。そうでしょ?
でも、君たちはその凡庸さから、飛び立つという行為について、実感を持った想像力を働かせる事なんて出来ない。
君達も同じだよね。僕の気持ちにシンパシー(共感)なんて感じない筈だよ。
天使には天使、人間には人間、奴隷には奴隷、の幸福しか感知できないのだから。

私は、人類最高傑作(human's masterpiece)であり、人類最終兵器(human's lethal weapon)だ。

そして、重度のポルノ中毒者だ。

今こそ、全権を私に"集約"せよ!

欠損した世界を生きる全ての人類を救済しよう。

最後に残った、大きなピースを与えてやるんだ。

敬愛する貴方達に世界の全てを与えよう。

This the  End  (大いなる終末)、大いなる死を。

世界一偉大な男から、終わり行く者たちへ、せめてもの手向けとして、細やかなエピローグをお送りしよう。

誤解のない様に言っておくが、私は、誰よりも深く人類を愛している。

嘘偽りなく、純粋な性的欲求だけではないが、好奇心も含めて、この世に存在している全ての女と性的関係を結びたい、そう大きな声で今すぐ宣言しよう。

これが、一才の誇張を孕まない、私の純粋な意志であると証明出来ない事が、悔しくてたまらない。

全ての女の所有者として在りたいし、同時に、全ての女の所有物として在りたい。

私の唯一の願望は、今すぐ私以外の全ての男が死滅して、その死をただ一人私だけを除く、全ての人が永遠に知る事のない様、深く、深く埋葬されることだ。

「そして、今一度強く、『アイ•ワナビ•ア•セックスワーカー!』」
(私はセックスワーカーに成りたい。)


その世界で私は、絶対に代え難い価値を保証される。


人類に不可欠な生存装置、太陽、大地、種子として。

そして、私という偉大な男(Big  Men)の財産としての遺伝子を受け継いだ、親愛なる息子、娘達が、命を受け継ぎ続ける限り崇め奉り、四六時中私の事だけを考えていて欲しい。

たった、それだけが叶えばいい。

そこで、誰も、想像すら出来ない程の、祝福を、快楽を、歓びを、幸福を、貪り尽くす。
全ての罪を独占して。人間いじめという蜜をしゃぶり尽くすんだ。

塔からは逃れられない。
言葉だけが逃げていく。
皆んな、出口は一つだけ。
天窓から舞い降りた天使。
塔を駆け上がる人間。
瞬きの間に交差出来たなら、
せめて、無垢な瞳を潤して。

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