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道民1年生

引越しはすぐに終わった。荷物はさほど多くなかった。
というより、決定的に家具が足りない。まず冷蔵庫が無いのと、暖房が付いてない。これから来る厳冬の支度はほぼ出来ていない状態。食べ物は凍る(冷蔵庫がない=冷蔵できない=凍る)し、もちろん人はこのままだと凍死する。照明もかなり古い物が付いていてなんだか暗い。
優先順位は、まず暖房である。奥さんの実家の紹介で、近所の水道工事屋さんに大型の石油ヒーターと、ついでに脱衣所の洗面台を手配してもらう。なんだか業種の枠組みがよく分からないが、これが田舎のお付き合いというものだろうか。もちろん中古でいいからリーズナブルなものをお願いします、と伝えて2週間くらい経ったが一向に連絡がない。「先日のお話、その後いかがですか?」と伺いの電話を入れると、「明日行きます」との回答。何だか急かしたようになってしまったな…と恐縮して翌日を迎えた。夕方くらいに車が一台、玄関前に乗り付けて来たかと思ったら、水道屋のおじさんが出て来て大きな荷物を降ろし始めた。まだ見積もりをもらっていなかった。が、挨拶もそこそこにヒーターと洗面台の設置工事が始まった。おじさんがテキパキと位置を「1人で」決めて、1時間もしないうちに工事は終了。また挨拶もそこそこに帰っていった。なんだかヒーターも洗面台もかなり状態が良く、ピカピカしていた。とても中古とは思えなかった。1週間ほど過ぎて届いた請求書には当初見込んだ5倍くらいの金額が書かれており、しっかりと「新品」と書かれていた。これは新参者への洗礼だろうか。泡を食って工事屋さんへ電話をかけ、ひと問答したあげく6ヶ月の月賦で支払うことに。払える時でいいから〜などと優しい言葉を掛けられたが、そういう問題ではない。義母に話してみると、この辺ではそういうもんだから〜的なことをいわれたがあまりピンとこない。本当なら品物全て外して突き返したい気分だったが、義両親が普段付き合いをしている業者に波風立てるのも気がひける。後になって聞いた話だが、この一軒家に以前住んでいた人が払っていた家賃は月3万円らしい。「東京のひとだから」と吹っかけられたのではないか?と義母が言う。やはり洗礼なのか?それからすこしの間、まわりの住人が全て敵に見えた。
そもそも、この地域では中古売買があまり浸透していなく、唯一あるリサイクルショップは車で50分。そこには勿論ヒーターも置いているが、購入して設置をまた業者に頼むと結構吹っかけられるらしい。北海道のヒーターは少し特殊な機構で、設置に業者は必須という話だが、実際工事しているのを見ていると誰でも出来そうな気がしてくる。が、これは照明の設置に電気工事の資格が必要なのと同じ話かもしれない。技術より責任所在の問題。
町内をよく見てまわるとガソリンスタンドの値段もすこし割高で、港区あたりの相場とあまり変わらない。暖房、水道、のちに照明やテレビの配線を頼んだ電気屋さんも何だか少し工賃が高い気がする。この辺境の地では流通コストがかかる分石油商品が割高で、他の色々な業種も仕事量があまり多くない分単価が高いのだ。そうやって、各々が利益を確保しないとやっていけないのだろう。そして、牧場の月の売り上げもまたそう安くなく、ライフラインを司る業者はそのメンテナンスでまた安くない経費を取る。競合がいないので、そこに価格競争もない。そうやってお金を回している、と言えば聞こえは良いが、そのサイクルに参加していない人にとっては、ただただ色んなものが不便で高いのだ。郷に入ることで初めて成立する、よそ者に幾分厳しいモデルがそこにあった。

ただ、いつまでもそんなこと気にしていられない。早くこの家で、自分の仕事ができる環境を整えなければ。二階の空き部屋にリサイクルショップで買った小さなファンヒーターを置き、押入れの戸を外して上段を机がわりに見立てて、東京から届いた機材を置いた。この感じは懐かしい。まだ音楽の仕事を始めて間がない時、マンションの一室でとりあえず作った環境もこんな感じ。またここから始めるのか…。何とも言えない心境。

17時になると、子供達を保育所に迎えに行き、奥さんも車に乗せて実家へ戻る。まだ家具の揃い切らない家では子供は寝かせられないので、一軒家はしばらく自分の仕事場としてしか機能していなかった。もともと仕事場として探した物件だったが、成り行きで一軒家を借りてしまって、この頃には「家族で住みたい」と欲が出ていた。しっかりと環境が揃うまで住まない、という奥さんと、はやく一家で住みたい自分とでだいぶ意見が割れていた。結局この一軒家で全員が暮らし始めるのは年明け前くらいの話であった。
子供が寝静まったあと、また車で一軒家へ戻り仕事を再開する。朝方また実家へ戻る…という毎日がしばらく続いた。無駄な移動の多い生活…と思いながらも、なにより家族が近くにいる、生の寝顔を眺めることが出来る、これに変わるものは無いのだ、と自分に言い聞かせながらの毎日だった。

週に一回、Skypeで東京とやりとりしながら、ほぼ自宅にこもって仕事をし、子供たちの保育園の送り迎え、土日には近所へ家族で出かける毎日。このまま、この土地で暮らしていくのも良いかもしれない。仕事があまり増えないようなら、その時には地元の就職先でも探すか。どちらにしろ、基盤が作れそうな気はしていた。また平和な生活が戻ってくるかもしれない。東京で奥さんと2人で暮らしていた時のように。
少し落ち着いたので岡山の実家へ連絡を取ると、親父は諦めともつかないような口ぶりでそうか…そっちで暮らすか〜…とため息をついたように聞こえた。岡山の実家は水道工事屋を営んでいて、やはり心の底で、こいつはそのうち自分の会社を継ぐんじゃないか、と思っていたのだろう。当初は自分もそのつもりだった。しかし磁石の針が真反対に振れてしまった。このまま一生会えない可能性もゼロじゃない。電話越しにお互い、同じことがよぎったはず。親子の空気感というのは不思議なもので、口にせずともある程度分かるものだ。そのうち両親を北海道へ招待しよう。なぜなら、そのほうがこちらから出向くより旅費が安いからだ。そして手間も。

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父親目線での三つ子育児日記 退院後の子育て開始から北海道移住まで

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