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【小説】さかないで


 わたしがはじめて彼と出会ったのは、粉雪の降る寒い冬の夜だった。

 その夜、わたしはヒールの折れた靴を片手に、縁石に腰かけて途方にくれていた。
 痛みと寒さと空腹とみじめさで、涙が止まらなかった。

 この街に閉じ込められるようにして育った。末の娘というのはそういうものだと言う。
 本当は違うのかもしれない、けど両親はそういうものだと思っていたし、わたしもそう教えられてきた。

 わたしは彼らの薦める学校に進学し、彼らの薦める職業に就き、彼の薦める家に嫁ぐ――はずだった。

 頬骨がずきずきと傷んだ。唇の端が切れて血がにじんでいた。
 生涯の伴侶になるはずだった男が自分に浴びせた罵声と暴力が、耳元ではじけるようにして思い返され、わたしはぎゅっと身を縮めてそれに耐えた。

 幸福になれると思っていた。けれどそれは大いなる誤解で、わたしは選択から逃れるつもりで、数多の選択を誤り、結局、すべてを無茶苦茶にしてしまった。

 これからどうすればいいのだろう。これまで寄る辺にしてきた家族も、信じてきた幸福も、すべては幻に思えた。 

 彼と出会ったのは、その夜だ。通行人の誰もが避けて通った訳ありの女に、どういうわけか彼だけが声をかけた。
 思わず聞き入ってしまう、深海を思わせる低い声だった。

「一人かい?」

 泣きはらした顔で見上げた彼の異様に、わたしは一瞬息を飲んだ。
 彼の姿は、一言で言えば直立した2メートルのクロマグロだった。

 どちらが求めたのかは覚えていない。けれどわたしたちは、その夜のうちに身体を重ねていた。

 当たり散らすように乱れるわたしとは対照的に、彼は荒波をかわすように穏やかに応じた。
 わたしがどこに触れても、彼の身体はほとんど反応を見せなかった。

 結局、最後まで戸惑うわたしを優しく導きながら、彼自身は、腹の上に少しだけ精を放っただけだった。

「マグロなんだ」

 と彼は言ったけれど、わたしはそれにどう答えるべきかわからなかった。
 それでも行為のあと、2人でベッドに寝そべりながら、わたしが彼の冷たい腹を撫ぜると、背びれのきょくを揺らし、ぴしぴしと跳ねて応じた。

 情熱とは無縁の、淡白とさえ言える愛情表現。

 それなのに、なぜかわたしはどんどん、彼に惹かれていった。

 わたしたちは(彼が大嫌いな!)猫のようにきまぐれに会っては、同じ時間を過ごすようになった。
 彼は旅人だった。故郷を出てから、一つ所には1年といたことはない、世界中を回る風来坊だ。

「別に旅が好きなわけじゃない。同じ場所にうまく留まることができなかっただけだ」

 わたしは会うたびに、彼が訪れた場所の話をせがんだ。いつもすこし嫌がるふりをされたけど。
 故郷の街1つしか知らないわたしにとって、彼の語って見せた異国の地の情景は新鮮で、恐ろしくも美しかった。

「おれの話は面白いか?」

 彼の語り口は、飾り気のない、見たままを伝えるもので、その低い声と相まって、聞いているだけで心を落ち着かせた。

「とても素敵。わたしは一生、この街しか知らずに生きていくのだと思っていたから」

「ここはいい街だ。栄えていて、何だって手に入る。夜になっても明るくにぎやかで、様々な人が住んでいる」

「そうね……」

「あんたには立派な脚もある。これからどこへだって行ける」

 少しずれた言葉に、おもわず苦笑を浮かべる。

「あなたの故郷はどうだった?」

 その質問に、ほんの一瞬だけ彼の声がこわばったような気がした。

「――何もない、冴えない港町だ。親父たちは、潮風に心を錆びつかせちまったように、何年も、何十年も変わらずに過ごしてきた。とっくのとうに終わった町が、色あせてく風景を、おれは見て育った」

「でも、故郷でしょう」

「故郷さ。いとしくて、ずっと憎い」

 同じだ。わたしと。

「……ご家族は?」

 出会ったばかりの男の内側に踏み込むことにすこし怯えながら、わたしは彼の背びれの上側に腕を回して抱き寄せた。
 彼はすこしだけ驚いたように跳ね、けれど、拒まなかった。

「親父は漁師で、おふくろの顔は知らない」

 おれは親父が嫌いだった。いくつになっても無口で、まともな人づきあいができなかった。特に女を前にするとひきつけを起こしたようにしゃべれなくなる。当然、町中の笑いものだ。
 みっともなくて、恥ずかしかった。

 こちらを一度も見ずに、彼は吐き出すようにまくしたてた。

「――一度だけ、そう。あれはたぶん、おれがまだ赤ん坊だったころに。……町を見下ろす丘一面に咲いた、キンセンカの花だ。たった一度だけ、見たのは一度きりだ。あのとき、おれは誰かに抱かれていた。きっと……母親に」

 そのさびしい声が急に愛おしくなり、わたしは顔を傾けて、彼の瑞々しい瞳を覗き込んだ。
 大きな黒目が照明を反射しててりてりと光った。わたしはすっかりその輝きのとりこになってしまう。

 ぴんと上をむいた彼の口を引き寄せ、わたしは背伸びをしてそこに口づける。煙草と磯の香りが交じり合って鼻をついたが、不思議と嫌ではなかった。

 時は経ち、その年の春。

 彼の部屋を訪ねると、テーブルの上に、籠いっぱいに入った橙色の花が置かれていた。
 キンセンカの花だった。冬知らずに咲く強い花。

 なんだろうと思っていると、彼が壁の方を見ながら、ごにょごにょと言った。

「それは……あんたに」

「わたしに?」

 普段の彼は、贈り物に花を選ぶようなタイプでは決してなかったので、わたしは一瞬とまどった。

「……迷惑か?」

「ううん! ありがとう! うれしい、本当に……」

 わたしは花籠を抱いて、少女のように飛び跳ねた。身体の底から暖かくなり、踊りだしたい気分だった。花を贈られてこれほどうれしい気持ちになったのは初めてだ。
 それを見て彼が、今度はこちらを片目でまっすぐに見ながら、似合わないセリフかもしれないが、と前置きして、つぶやいた。

「あんた、笑うと太陽みたいだ」

 ほんとうに似合わないセリフだった。可笑しいやら嬉しいやらで、頬がきつく紅潮するのが自分でもわかった。

「ねえ」

 高揚にまかせてわたしは言った。

「あなたの故郷に連れて行って」

「グハァッ!!!」

 突然のことだった。故郷に向かう汽車の中で、彼が喀血した。
 あまりのできことに何も考えられなくなった。ただ、苦しげにもがく彼が窓から飛び出さないように押さえつけながら、必死で周囲に助けを求める。

「どなたか、どなたかお医者様はいませんか!?」

 騒ぎをききつけたやじ馬たちの中から、痩せた初老の男性が進み出た。旅行鞄から聴診器を取り出して、彼の胸にあて、顔をしかめる。

「危険な状況です。……呼吸が止まっている」

「そんな!」

 飛び跳ねていた彼の動きがみるみる弱まって、わずかに尾びれを上下させることしかできなくなっていく。
 わたしは彼を抱きしめ、いやいやと首を横に振ることしかできない。

「……いいんだ……もう……」

 鰓蓋ひれぶたを痙攣させながら、彼が絞り出すように言った。
 口はぱくぱくと空を食み、喋るたびに血がこぼれる。

「何を……」

「おれは鮮魚なんだ。生鮮食品なんだよ」

 もともと、わかっていたことなのだ。と彼は言った。

「――冬が終わるまでの命だって、医者にはそう言われた。ところがどうだい、死ぬとわかったら急に、あれほど憎んでいた故郷に……帰りたくなっちまった」

 彼はもともと故郷に戻る旅の途中だった。そこで、わたしに出会った。

「あの街も、ただ通り過ぎるだけのつもりが……」

 どうあっても一つ所に生きられない彼の、最期の旅のはずだった。
 けれど彼は旅をやめた、やめてしまえば、もう故郷の景色を観ることはできないと知っていて。

「あんたといるのが……あんまりに幸せに思えて……」

 わたしが、彼をあの街にとどめてしまった。

 再び彼の口とえらから血が噴き出す。

「……頼みがある」

 聞き取れないほど小さくなった言葉を聞くために、わたしはその口元に耳を寄せた。

「おれが死んだら……あんたに……おれを……食ってほしい」

「――そんな……いやよ……いや」

「怖いんだ」

 ふるえる彼の眼の端から、血が涙のようにこぼれた。

「死ぬことがじゃない。今はただ、『傷んで』行くことがなによりも恐ろしい。今この瞬間にも、信じられない速度で、おれから新鮮さが失われていく」

 彼の言葉、彼の願いは、わたしの理解を超えていた。なぜそんなことを言うのか、ちっともわからなかった。
 泣きわめきながらそう告げると、苦し気な彼の表情が、ほんのすこしだけ和らいだ気がした。

「そうだ……そうだよな」

 人間と鮮魚の幸福は別のかたちをしていて、どこか似ているところもあるのかもしれないが、やはり別物なのだ。
 けれど、それはそのままでいいのだと、彼は言った。

「――あんたは――どうか――幸せ……に……」

 そう言ったきり、彼の眼から瑞々しい輝きが消えた。わずかに繰り返していた尾びれの上下も止まり、ぴくりとも動かなくなった。

 鰓に聴診器を押し当てていた医者が無言で首を横に振る。

「ああっ……あああっ……こんな……」

 彼の死を感じとった瞬間、絶望とはこういうものかと知った。

 その冷たい温度が、触れた指先から伝わって、体中の血が凍り付いたようになった。にもかかわらず、涙だけが熱を持って、とめどなく頬をつたった。
 こめかみから鋭い痛みが走り、鐘のような音が頭の中に響いた。景色がぼんやりとしかとらえられなくなり、今すぐに気を失って楽になりたいと思った。

 ――それでも、わたしは動かなければならなかった。彼の瞳が濁っていくのも、鱗が剥がれていくことも、許せなかった。
 わたしは再び、乗客を振り返って尋ねる。

「どなたか、どなたかマグロを捌ける方はいませんか!?」

 すぐ隣で、初老の医師が手を挙げた。

「あなた、医者なんじゃ……」

「板前だった。かつては」

 医師は鞄の底から純白の和帽子を取り出し、灰色の髪の上に乗せた。

「家業を捨て、この道を選んだときには、まさかこんな日が来るとは思わなかったが……」

 次いで外科道具を取り出し、その中から切れ味鋭いメスを1つを選んで手にした。

「これも、運命さだめか……」

 医師がよどみない手つきで、マグロの解体を始めた。

 血抜きされ、鰓を切り落とされる。腹が1文字に切り開かれて、内臓がすべて抜き取られる。
 頭が切り落とされる。わたしは目を反らずにそれを見る。胴体に刃が入る。

 捌かれた彼が刺身皿に盛られ、わたしの前に並べられていく。

 搭乗員の娘が気を利かせて、食堂車から酢飯を持ってくるが、わたしは醤油だけを受け取ってそれを固辞する。

 いまは、彼とだけ向き合いたかった。

「いただきます」

 やじ馬たちはざわつくのをやめ、マグロが次々捌かれていくのを、それをすべて平らげていく女の姿を、固唾をのんで見守っていた。
 明らかに量が多すぎる。女1人に食べきれる量ではない。けれど、わたしは膨満感に苦しみながら、1皿ずつ、1口たりともおざなりにならぬよう、味わって食べる。
 顔から汗がほとばしり、頬をつたう。わたしが苦し気な息をもらすと、魚を捌く医師の手が一瞬止まる。彼にも疲れが見える。

 それでも、

「お願いします」

 わたしは医師の目を見てそれだけ言った。初老の男は額の汗をぬぐいながら、口の端をつりあげて笑い、ふたたび作業に戻る。

 脳天から目玉、ほほ、かま、あご、内臓の煮物。
 捌く、食べる。捌く、食べる。捌く、食べる。
 シブイチ、大トロ、中トロ、赤身、中落ち、尾。

 彼が自分の血肉となっていくことを強く感じる。いつしか苦痛はなくなり、純粋な美味という喜びだけが心を満たす。

 わたしたちは1つになる。

 ――気が付くとマグロは、綺麗に平らげられていた。

 目の前に緑茶の入った湯呑が置かれる。
 和帽子を外した医師が、向かいの席で茶をすすり、わずかに微笑んだ。

「ごちそうさまでした」

 わたしは頭を下げた。医師に向かって。

 そして誰よりも、彼に向かって。

 電車はかすかに降る雨を割って進む、風の音が窓ガラスを震わす。
 ゆりかごのようにここちよい振動に満腹のわたしは思わずうとうととまどろむ。

 それから、わたしは大きく膨らんだ自分の腹を撫でる。

 わたしの中には彼がいる。

 わたしたちは故郷に帰る。彼が憎んで、愛した故郷に。

 キンセンカの花言葉。

 『悲嘆』『別離』――『永遠の愛』

(了)

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